短編集/現実・社会系

自ら選ぼうとする鳥へ

     白い砂浜が、アルファベットのCの文字のように弧を描いて海を受け容れていた。
     僕はその誰もいない浜辺の中央に座っていた。
     日が落ちたばかりの海からは、湿った生ぬるい潮風がまとわりついて来た。
     夏の終わりの夕闇が静かに過ぎようとしている。

     満ちて来た海水が足元をゆっくりと侵してゆく。
     もう温かさはない、ひんやりとした海の触手が、徐々に迫って来る。
     僕は目の前の海に現れる、蒸気のような風の渦を黙って見つめていた。
     子供を静かに寝かしつけるかのように、その風の渦は僕の体を押し倒す。
     抗えない。
     横たわった体に、じっとりとした水分が伝わる。
     服を通り越して僕の背骨までを冷やしてゆく。

     手で掴んだ砂は重く硬く、握り締めても持ち上げることができなかった。
     海風はいつかどこかで見た少女の面影で、笑う。
     肩を押された。
     頭から砂浜に溶けてゆきそうだ。
     体が全体に霧となって、砂に吸いこまれるのだろうか。

     さあ、目を閉じて。
     そう言いながら彼女は、僕の感情を吸い取るようにして冷たい唇を僕の耳元に寄せる。
     そして喉を噛む。
     温かい血が噴き出すはずが、どろどろとした黒い海水が傷口から湧き出す。
     なぜ黒いとわかるのか。
     少女が顔を上げて、その妖艶な唇を真っ黒に汚していたからだ。


     僕はもう目を閉じかけていた。眠りにつこうとしていた。
     ただ、少女の後ろの雲行きが気にかかっていた。
     灰色のぐねぐねとした速い動きの、まるで嵐の前の空。

     なぜ僕は天国へ行けないのだろう。
     新しい世界を想わせるような、光を放つその空へ、なぜ行けないのだろう。
     このまま黒い水となり、白い砂浜を汚しながら、地の底へ溶けて行くのだと思うと悲しい。
     僕の体は掻き消されて、引き裂かれて、地獄へと案内されるのだろうか。


     生きることに疲れていた。
     穏やかな死を夢見ていた。
     まさに実現する。
     想像したような優しい世界ではなくてもいい、今生きているこの場所よりは。


     昔 話したことのある男が、解放される時を待つと言った。
     彼は病に侵されベッドの上で消えて行ったのだが、その言葉が不意に思い出された。


     ただ一つ、拠り所の無い想いが、
     熱く体の中心で燃えている。

     こんな命でも生まれて来た時にはたくさんの手に囲まれていた。
     この世から消えるその時には、誰一人として触れてはくれないのか。
     淋しいという感情は、せつなく重く響くものだと思っていたが、こうして瀬戸際になると、熱く心の芯を燃やすとは。

     泣いていた。
     涙が出て嗚咽を漏らした。
     安堵と空虚が混ざり合って、わけのわからない涙が溢れた。
     命乞いではない。
     自分で選んだのだ、この世に未練はない。
     なのに。


     子供は意味も無く笑う。
     それと同じように、僕は意味も無く泣く。

     土へ還ろうとするその体を、じたばたと足掻いて起きあがろうとすると、
     手に羽根が生えていた。
     誰も求めてくれない僕の手だから、羽になってしまったのか。

     辺りが素早くモノクロの世界へと転成し、
     真っ白な翼を羽ばたかせると、
     体と遊離して鳥となり空へ舞いあがった。

     誰かに導かれるものだと思っていた天へは、
     自らの羽根で、
     呼吸もできないほどに強く飛べということらしい。


     苦しい。
     叩きつける風に、腕がもがれそうになり、
     高く飛ぶほどに寒く、凍りそうになる。

     誰の耳にも聞こえない声で叫んだところで、返答の無い世界。
     死ぬとはこの上なく孤独であること。

     ああ、寂しい。

     そこに安らかさはない。
     心が、魂が、無になる前に問い続けたい。
     そこをゆく鳥よ。
     もう言葉は交わせないが、
     あなたは、後悔していないのか。
     いつまで飛んでも届かない天へと、
     羽根が折れるまで飛び続けることが、正解だったのか。

     墜落することを恐れて飛び続けることが、
     生きていた頃と何が違うのか。

     そこをゆく鳥よ、
     答えを。




    <END>



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