短編集(不思議・シュール系)

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 鏡の向こうで 男がじっと私を見つめている。
 痩せこけた頬に青々とした剃り残しのひげ。
 唇だけが妙に赤い。
 雰囲気が何かに似ているような気がして、思考を巡らす。

 ああ、ゴッホの自画像だ。
 落ちくぼんだ目が苦悩に満ちていて、そして恨みがましく相手を睨むのだ。
 相手とは勿論、私のこと。

 見ることに異常なほど興味を持つ私に与えられた、最大にして最高の玩具(オモチャ)、それがこの大鏡だ。

大鏡

     鏡の向こうのあいつを、私は、ジェイと呼んでいる。
     ジェイは毎日、顔を洗い聖書を読み誰かに手紙を書いている。
     私を見る時とはくらべものにならぬほど気概の無いぼんやりした表情で一日を過ごす。
     ジェイは私がじっと彼の事を見つめ続けていることを知らないのだろう。たまに声を掛けてくる変な男だと私の事を思っているようだ。

     私の名はニール。
     ジェイとは生まれて以来、ずっと似たような部屋で、区切られて育てられた。
     兄弟でもなければ家族でもない。
     同い年でもないし、私の方がずっと清潔好きでハンサムでよく食う。背が高いし、オシャレだし、金も持ってる。何より、私はこの部屋の外に行くことができるが、ジェイはあの部屋からは出られないようだ。
     そりゃあそうだ、鏡の中なのだからな。

     随分前、私は自分の部屋の奥にカーテンで隠された部屋があるのに気付き、中に入ってみた。
     そこでこの大鏡を見つけたのだ。


     当時暇を持て余していた私はその大鏡を、まるでTVショーのように楽しんだ。
     ジェイはこっそりと部屋の隅へ行き、自慰をする。
     興奮すると寝そべって、下半身をあらわにして激しく手で愛撫している。
     誰も見ていないと思っているから、欲望を満たす事に一ミリの羞恥心も無い。
     喘ぎ声を聞きながら、私はくっくと声を抑えて笑った。

     またある日は下痢が止まらぬようで、ぷーすかぷーすかと屁をこく。
     そして間違えて大便を漏らし、下着や部屋を汚す。
     どうしようもなく、可哀そうになって、私はジェイに語りかけた。

    「おい、情けないぞ」
     ジェイはいつものように、私を睨むだけだ。
    「おい、1人じゃなくて誰かと住んだらどうだ? 俺が世話してやろう」
     ジェイはブルブルと顔を左右に振ったが、こういうことは強制執行だ。誰か人がいればもう少し真面な人間になれるはずなのだ。

     私はジェイの部屋にアールという男を住まわせた。
     アールは粗暴で、怒りっぽい。そして、ジェイと同様に無表情で無口だった。
     二人の共同生活は、あっという間に終わった。

     怖がるジェイをアールがげんこつで顔面を殴り、生きているか死んでいるかわからない状態で窓の下へと放り投げた。

     殺人じゃないか。しかも躊躇うことなくあっという間に、無表情のまま。
     だからこの大鏡を見ていると飽きないのだ。これからもっとすごいことが起こるだろう。

     アールは同居のジェイがいなくなったことで、おとなしくなった。
     そうか、自分が敵とみなす相手がいなければ、こんなやつでも穏やかに暮らせるのだな。
     世界中の人が、みんなみんな個室で生きて行けばいいんじゃないか?
     そうすれば悪意も殺意もおこらない。


     この大鏡は、ただ私を映しているだけなんだろうと思っていた。
     心と頭で自分の生態を分かりやすくレポートして、私自身にフィクションに絡めて見せてくれているんだろうと。
     ジェイもアールも最初からいない。私自身の一部、そのイメージでしかないはずだ。

     しかし、ある日、意外な事件が起こった。
     アールが殺されたのだ。大鏡をみた瞬間、気持ちが悪くなった。
     部屋の真ん中で、彼は腹をナイフで刺されて倒れていた。周囲の床や壁は真っ赤な血で染まっていた。


     アールの死体はいつのまにか消えたが、赤黒い血の跡は消える様子はなかった。
     消えるどころか、発光しているかのように、ギラギラと目に飛び込んでくる。
     こんな鏡を見ている価値は無いと、自分の部屋から出て行こうとしたが、今日はなぜか鍵がかかっていて外へ出ることができない。
     ドアをバンバンと叩いてみたが、外の人間は誰も反応してはくれなかった。
     おかしい、外にはパパかママか誰かいるはずなのに。

     その内、私の耳がおかしいのか、自分が扉を叩く音と同じような音が、大鏡の方から聞こえてくるのだ。


     私は恐る恐る自分の部屋のドアから離れ、大鏡のある場所へと一歩一歩近づく。
     さっき離れた時カーテンを閉めなかったため、もうその部屋の赤い色は、はっきり見えている。

     私は少し離れて大鏡の前に立った。
     そこに女がいる。血染めの部屋でバンバンと私の部屋との間にある鏡、いや、もしかすると窓なのだろうか、それをバンバンと叩くのだ。

     彼女には目が無い。
     大きな口を開けて息を荒らげて叩き続けているが、言葉を出すこともない。

    「な、なんだ。なんなんだ」


     私はいつも一方的に見ていることに安心していたので、この状況にパニックになっていた。

     その女がついに言葉を発した。


    「見えない女が好みだろう?」

     え……? 驚きの上ずった声をあげると、女は言う。
    「あんたを見ないで、ただ人形のように従順な女を探してるんだろう。あたしがそうさ。あんたの全てを見ない。さあ、なさけなかったジェイも消え、乱暴だったアールも消えたよ」

    「そ、そ、そうだ。俺はもう、誰からも卑下されない!」


    「でも!! あんたを見ようとする女は、怖いんだろう?」


     女の言うことは正しかった。
     大鏡の向こうで自分の性格を、自分の生活を、捨て去って恐怖から逃れたはずでも、私は本物の人間が怖かった。

    「さあ、エヌ。こっちの部屋においで。あんたを見たり感じたりしない、この私と一生を生きるんだよ」



     いやだ。これは私の脚本の劇場だ。なぜ私が、そこで踊らされねばならない?


     でも、私は目が怖かった。
     人の目が怖くて、引きこもり、小さな部屋の押し入れの中で、大鏡を見つけた。

     そこでずっと何かを見続けていたかっただけなのに。




    「どうせ逃げるなら、こっちへおいで。ここはおまえが作った世界。怖いものなど何もない。最初から創らなければいいだけだ」


     夢想から離れた私は、実際には55歳だった。
     両親は死に、兄弟とは疎遠で私がいなくなっても困る人はいない。
     誰かの援助で生きているのだが、それが誰なのかわからない。
     私はただ、真っ暗な押し入れの中と、6畳一間の部屋の中を歩き回り、理解できない現実に戸惑って泣いていた。
     ドンドンドンと押し入れの中からふすまを殴りつける音がする。
     大鏡は薄汚れたふすまとなり、実像を表して現実を私につきつける。


     同時に、玄関からもドンドンと戸を叩く音がした。
     あれは、間違いない現実の人間が私に用事があるという音だ。なんだ、どうして私を呼ぶんだ。

     怖い。


     現実との接点はよくわからない。
     私が主で、相手は従という、つまり客と店員のような関係以外は知らないのだ。
     宅配便は頼んでいない、借金もしていない、新聞屋は来たことが無い、セールスもこんなボロアパートには来ない。


     ドンドンドンとふすまが鳴る。

     ドンドンと扉が叩かれる。



     私は震える手でテーブルの上のマスクと眼鏡をかけ、前髪を下ろして顔を殆ど隠して、手にはフォークを握り締めて玄関に向かった。

     なぜ玄関を選んだか。

     玄関は多分放っておけばそのうち帰るかもしれないが、またいつ来るかわからない。
     しかし、大鏡の部屋はいつでも私を待っていてくれる。いつでも助けてくれるのだ。だから、現実の気がかりを先に潰しておきたかった。
     何か強引にしかけてきたら、フォークで刺してやろう。
     食事中に来られて思わず刺してしまった、正当防衛だと言い張ってやる。
     相手の目を、潰してやる。



     ドアを細く開けると、そこには小柄な婦人が立っていた。
    「あの、となりに越してきた 佐々木と申します。こんにちは!」
     頭を下げる彼女を驚いて見つめた。
     こんな6畳一間のアパートに越してくるとは、独り者なのか。
    「中井……さん?」
     彼女はうちのおそまつな表札を見ながら尋ねた。
    「はい」
    「このアパート、ほかの住人の方がみんなお留守だったので、中井さんにお会いできてよかったです。佐々木かずみです。宜しくお願いします。これ……」
     佐々木という婦人は菓子折りを手渡してくれた。

     その美しい白い手が、私の目に焼き付いて離れなかった。
     顔はどんな顔か見ておらず、手と声の美しさだけが印象に残った。



     私のこの目は、フィクションを笑うためだけにあるわけではなく、
     私のこの耳は、自分の心の逃げ場所を囁く声だけを聴くためにあるわけではなく、
     私のこの手は、フォークしか持てないわけではなく、
     普通にリアルを感じるために機能しているんだと、わかったのだった。



     それ以来、ふすまが鳴ることはなくなった。






    <END>



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