短編集/恋愛・甘々系

それは今だよ

     未来(みらい)という名は好きじゃない。
     キラキラネームというほどではないし、ありふれているような気もする。でも好きではない。というか、好きじゃなくなった。
     高校時代の同級生の能瀬(のせ)が、つい最近言った言葉のせいだ。


    「メッセージソングとか応援ソングとか、まあラブソングも含めて、全部ウザい」
     能瀬は私のとなりで呟いた。
     そんな彼の片方の耳には、イヤホンが押し込まれている。
     もう片方の耳はイヤホンを外している。私に気を遣ってなのか、それとも周囲の音を聞きたかっただけなのか、よくわからない。
     春の終わり、夕方の光と風が冷たい。能瀬の飲んでいる缶コーヒーの香りが、少し離れた私にも届いた。
     ニットの袖をたくしあげ、彼は高台にある公園の柵から下界を見下ろす。
     オレンジと黒と灰色の中に光る灯りが星のようだと私は思っていた。しかし、能瀬はそういうものが嫌いだったようだ。
    「普通の生活してたら、絶対に言わないような言葉ばっかじゃん。あと、何でも“明日”って言っときゃいいみたいな」
     否定的なことを言っている割に、たいした不快感を表すこともなく、それは、静かな声だった。
    「そんなのせいぜい、とりあえずソングか、なぐさめソングだろ」
     彼が、「オナ……」といいかけたので、私は能瀬の体をドンと突き飛ばした。
     能瀬は地面に尻もちをついて、手に持っていた携帯電話の無事を確かめていた。
    「歌詞に腹立つなら聴かなきゃいいじゃん。てかさ、まだ反抗期引きずってんの?」
    「おう、オレは一生反抗期のまま生きる」
    「バカじゃない?」
    「バカでいいよ。だって、ヘコんだ時に必要なのは、その場しのぎのごまかしじゃなくて、自分の立ち位置見直すことだろ?」
    「お酒も飲んでないのに、絡まないでよ」
    「酒や夢におぼれて生きていけるかっつーの」

     少し不自然だった。
     強い言葉を発しているのに、地面に座ったままの能瀬の表情は、心ここにあらずというようなぼんやりしたものだった。
     口調も、まるでセリフを棒読みしているようだった。

    「小学校の卒業文集にはあって、中学の卒アルには出てこない言葉って何だと思う?……」
     能瀬が小さな声を出したので、私は仕方なく彼が座り込んでいる場所まで行った。
    「何、何が言いたいの?」
    「将来だよ。それはいつのまにか“未来”っていう言葉に置き換えられてる」

     未来とは、私の名前。
     そして、歌詞に頻繁に出てくる言葉。キャッチコピーにも、創作物のタイトルにも出てくる。
    「将来って言葉は、具体的過ぎ、生活感あり過ぎ、荷が重過ぎ。そんなイメ―ジあるからでしょ」
     私が言うと、能瀬は答えた。
    「未来は遠いから、みんなそういう言葉に逃げてんだよ」

     能瀬が私を見上げていた。
    「そんな先の未来より、現実見ろっての」
     未来は、遠い。
     未来は、ずっと先。
     能瀬は一体、私に何が言いたいんだろう。
     彼はゆっくりと立ち上がると、また柵に腕をのせて、今度は下ではなく、上を見上げた。
     ももいろの空の向こうに小さな輝きが一つ。
     あの消えそうな星を、私たちは未来と呼んで、信じて見つめているだけだと言いたいの?
     未来って、届かない場所を指すの?


     それ以来、私は自分の名前が好きではなくなった。
     いい名前だと思っていた。ありふれた場所に転がっている言葉だけど、気に入っていた。
     しかし、確かに現実の生活には必要のない言葉。私はその“未来”という響きに、SF的な匂いまで感じてしまうようになった。能瀬のせいで。

     未来とか夢とか、そんな漠然としたものがなければ生きていくのが苦しい現実。
     でも彼にとっては、未来も、夢も、勇気も、優しさも、きっと同じカテゴリー、妄想にすぎないんだ。信じることのできないもの。ただのきれいごと。揺らいでる自分を正当化する言い訳。
     
     能瀬に訊きたい。それなら、どんなものをよりどころにすればいいのか。
     不自由なこの生活の中で、いつのまにか私は、自分が進むべき道標を彼の背中に見ていた。
     彼の向かう先と私が向かおうとしている先が、同じだと思っていたから。
     いつか、しあわせになりたい。
     それこそ、愛のあふれた未来に辿り着きたい。
     でも彼は、私を導いている自覚なんて無かったのかもしれない。


     仕事が終わった月曜日。
     まだまだ週は始まったばかりだ。家に帰ってドラマを見る気力もない。
     人がしあわせになる話は好きだったけれど、だんだん自分とかけ離れていくようで、ヘコんでしまう。
     すべて、能瀬の言葉のせいだ。
     あの、現実主義のネガティブ野郎のせいで、希望を持つ事自体に罪悪感を覚えるようになってしまった。
     それでも携帯に通知が来ると、未来に一歩近づくんじゃないかとドキドキしながら読む。
    <めしめし はらへった>
     どこまでも現実世界の男。リア充とは違う。過去形も未来形も無い、その日暮らしに似た感覚。
     こんなヤツを好きになった自分を恨む。
     もう、諦めた。

     ファミレスでビールを美味そうに飲む能瀬は、ブツブツぐちるけれど、結局現実を肯定する強さを持っている。
     現実から逃げないでいるのは、きっと、とても疲れるはず。そこは少しだけ偉いと思う。
    「なあ、未来、何か悩んでる? 最近、元気ないぞ」
    「能瀬、悪いけど今度から名字で呼んでくれる?」
    「え? いいよ、わかった」
     いいんかい。ちょっとは不思議に思えよ。
    「なんか、高校んときみたいだな」
     嬉しそうな能瀬にかなりムカついた。まあ、私も今まで学生時代の名残で能瀬と呼び続け、航志とは呼べないままできたけれど。
     現実から、過去に戻ってるということは、ますます未来は遠くなったのかな。
    「またぼんやりして。そういう顔してるとしあわせが逃げてくぞ。大好きな男のまえでそんな顔してていいの?」
    「よく言うわ。ぼんやりしてんのは能瀬だって同じです」
    「オレのは考え事。高木のはヘコんでるだけ」
     自分が望んだのに、高木と呼ばれてまたヘコむ。
    「ねえ」
     私は訊かずにいられなかった。
    「能瀬は未来のこと、考えたりしないの?」
     遠い世界かもしれないけど、やっぱり、生きていくのに無駄な世界だと、私には思えないんだ。 「考えるよ、今も考えてる」
     能瀬はフォークを口に当てて、笑っていた。どうしてそんなことを訊く?と言う顔をしていた。 「だって、未来は逃避なんでしょ?」
    「未来は逃避……」
     能瀬はパチパチと瞬きした後、急に、ふきだすのをこらえるように口元を右手で押さえた。危ない。ナイフ持ってるのに。鋭利ではないけど顔にあたると痛いよ。
     彼の右手にハラハラしている私に、能瀬は笑いを止められないようで口の中のものがなくなるまで苦しそうな顔でうつむいていた。
     やっと呑み込んで顔を上げたかと思うと、能瀬はしみじみと言った。
    「高木の名前が、“未来”じゃなくて“逃避”だったら、オレぜってー付き合ってねーなって今思った」
    「名前の話じゃないよ、フザけんな。そうやってまたヘコませるんだから!」
     そう言うと、能瀬はナイフとフォークをゆっくり皿のふちに置いて、私の目をじっと見た。
    「未来っていう名前はいい名前だって思ってるよ」
     能瀬は真面目な顔で言いながら、でもさ、と言った。
    「そもそもの話、ちゃんと聞いときたいんだけど。”未来”信じて頑張るリアリティの無いオレと、現実主義の今のオレ……つまり夢の無い男と、どっちがいいんだよ?」
     いきなり訊かれて、私は驚いて一瞬、口ごもった。
    「迷うの?」
    「ま、迷ってるんじゃなくて……。……今のオレ、の方がいいかな……」
     ほんとのところ、その中間のオレがいたらいいんだけど……。

    「そうだよなー」
     能瀬は、私の答えに満足そうに笑った。
     でもすぐつまらなそうな顔つきになり、視線を下げて溜息をついた。
    「“未来”を夢見て、“今”を見てない高木のこと考えてると、……ホント、”未来”って遠いなーって、思う」

     そんなこと。
     言われなくてもわかってるよ……。

     能瀬は穏やかな顔で、続けた。

    「もどかしいな。なんで未来にペンディングすんの?」
     先送りしてるわけじゃなくて、未来は夢と同じだから……。
    「しあわせになりたいって夢を持ち続けることで、今頑張れるっていうか……」
    「望むなら、今でよくない?」
    「え?」



    「今すぐ、しあわせにしてやるよ」




    <END>



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