迷宮プリンセス

第9話 危機一髪

     佳波にとって初めての携帯電話での通話。
     初めてのおつかい並みにドキドキする。
     何回かコールしているが、相手の出る様子はない。大事な話の最中だからマナーモードすら消しているのか。
     それとも、出るに出れない状況?……だとは思いたくはないが。

     神様!
     佳波は階段に小さく座り込んで、携帯電話のコール音をじっと聞いていた。

     しばらくして、コールが途絶え、繋がった。
    『はい……』
     蹴の声がした。



     佳波が蹴の気持ちに気付いて電話をかけた、その少し前に話は戻る。
     蹴が重い足取りで4階に上がった時には、豊島は、一番奥の第5応接室前に立って待っていた。
    「遅いわね。2分遅刻よ」
    「2分ですか……。すみません、でも、これ、ただの忘年会の仕切りですよね」
    「まあね」
     豊島はフフと笑う。

     応接室に入った豊島は、蹴をソファに座らせると、自身もすぐ彼の隣のソファに座り、体を寄せて尋ねる。
    「江坂くん、一人当たりどれくらいの金額設定にする?」
    「そうですね……」
     蹴は近すぎる距離に顔をしかめた。
     シャンプーなのか、化粧なのか、何かわからない強い匂いに息が詰まる。
     仕方なく、豊島と反対側のソファに鞄を置き、体をできるだけ彼女から離した。
    「19時から21時で、3~4000円くらいに……」
    「わかったわ。一応提案してみる。おまかせでいいのね?」
    「はい、酒代は別途……」
    「OK。じゃ、次の話、ねえ、私のこと、いい加減放置はやめてくれないかしら」
     突然、豊島の声色が変わった。
     少しドスをきかせた、脅しめいた声音だった。

    「は、突然何を……?」
    「は? じゃないでしょ。前に彼氏と別れるから付き合ってって言ったじゃない?」
    「あ、はあ……」
     やはり本題はその話かと、蹴は彼女から視線を逸らした。
     豊島は美人ではあるが、男を食い散らかしているという噂があり、とうてい魅力を感じられなかった。
     なので、いつもそういう話が出るたびに、きちんと拒絶の意志を伝えている。
    「ですから、放置してるんじゃなくて、ちゃんとお付き合いはできないと……」
    「どうして? 私の元カレが千里くんだから?」
    「……あの、千里さんには奥さんもお子さんもいらっしゃいますし、そういう話をするのはどうかと……」
    「なに? 倫理観の問題? じゃやっぱりここに千里くん呼んで話する?」
    「違います、違います、落ち着いてください」
     毎度のことながら、話の論点が噛みあわない。
     さすがの蹴も冷や汗が出て来た。
    「今まで付き合ってた人、ちゃんと別れたわよ? 何が不満?」
    「いや、その、無理矢理付き合えって話自体がそもそもオカシイじゃないですか」
    「え、だって、江坂くんが好きなんだもん」
     急に声を小さくする豊島に、フッと魂を吸われるように可愛さを感じてしまう。
     蹴はハッとして土壇場で踏みとどまり、我に返った。
     危ない危ない。

    「それはありがたいお言葉ですが、私は豊島さんとお付き合いする気持ちはありません」
     毅然とした態度をとらなければ、と蹴はハッキリ伝えた。
     もう何度めかの言葉である。
    「理由は? 好きな子がいるとかでしょ? あれ、あの和菓子屋の娘……」
    「違います!!」
     豊島から避けて離れていた姿勢を変え、向き直った。
     それだけはしっかりと否定しなければならない。
     でなければ、佳波が豊島から理不尽な怒りを買う恐れがある。
    「吹田さんのはずないでしょ。やめてくださいよ」

     豊島はつまらなさそうな顔をした。
    「でもみんなそう言って……」
    「面白がって言ってるだけです。私の好きな人はほかにいますので、そんな噂は非常に迷惑、吹田さんにも失礼です」
    「じゃあ、誰が好きなの、あのアザト可愛い岡本? それとも仕事だけはまともにできる庄内?」
     豊島が追及を止めない。
     蹴は思わず袖で額の汗をぬぐった。
    「私は……その、社外で、だ、大学の関係の……」
     頭の回転は速い蹴だが、今の状況でスラスラ嘘を吐ける余裕がなく、しどろもどろになりかけた。
     その時。

     ブブブブブ。
     スマートホンが着信を告げている。
     誰のだ?
     俺のか?

     蹴は思わずソファから立ちあがり、鞄を持って豊島の隣から離れた。
     鞄の中で確かに携帯は光っている。
     ありがたい。
     これを理由に部屋を出よう。

     しかし、携帯を持ってドアに向かおうとすると、豊島がドアの前に立ちはだかった。
    「私のことは気にしなくていいから、今ここで電話に出て。待ってるからっ」
     可愛くウインクしてみせても、これでは軟禁である。
     仕方なく部屋の中でできるだけ豊島から離れて、そろそろと携帯電話を取り出した。
     見知らぬ人間の携帯電話からかかってきている。
     出るべきか。

    「誰?」
     豊島が、蹴ににっこり微笑む。
    「仕事、仕事関係だと……」
    「じゃあ、早く出なさいよ」
    「静かにしててくださいよ?」
    「わかんなーい」
     また小さく笑う。

     エグイくらいに可愛い顔をする時があって、蹴は緊張により首元にじんましんが広がった。

    「出ますから、近寄らないでください」
    「はーい。早く電話終わらせてね」
    「くそっ」


    「はい」
     江坂蹴は気持ちを落ち着かせてから、やっと声を出した。
     それでも、思った以上に低い声で、見知らぬ相手に喧嘩を売っているような雰囲気だった。
     こんな状況で、真面な会話なんてできるものか。
     そう思っていた彼は、電話の相手が誰か考えようともしていなかった。
     とにかく、豊島から離れるための救世主であることを祈っていた。

     相手がすぐに名乗らない。
     コクリと喉を鳴らすような音がして、さらに微かな吐息を耳にした。
    「どなたですか」



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