迷宮プリンセス

第8話 ようやく気付いたその気持ち

     それはまだ秋頃の話。
     吹田佳波は相変わらず残業をしていて、ぼーっとしながら書類の山をシュレッダーにかけていた。
     すると、「吹田さーん、これもお願いっ」と甘えた声で岡本小実が紙の束をドンと機械の傍に置いた。
     庄内鈴花も「あ、ラッキー。吹田さんがいたー」と、追加で書類の束を置いてゆく。
    「はい……」
     見てみると、書類はホッチキスで綴じられた冊子状で、全て解いてからでなければシュレッダーにかけられないものばかりだった。
     佳波は、はあ、と一つ溜息をついて、作業の手を止めた。
     そこへ、様子を見に来た江坂蹴が
    「まだ終わらないの?」
    と声をかけてくれた。
    「すみません。もう少し……」
     佳波がそう言って止めていた手を慌てて動かし始めると、蹴は先輩たちが置いていった書類の束に気付いたようだった。
    「手伝う」
     蹴はそれだけ言って、冊子を解き始めた。
     佳波が遠慮して断ったが、蹴は『ホッチキス外しってやってるとクセになるよ』とかなんとか、意味のわからないことをいいながら、傍で作業を始めた。
     その時に、手は忙しくても口は暇なので、何か色々と雑談をした。
    「そうだわ、江坂くんは電車通勤ですよね。いいですねえ、楽しそう」
    「電車通勤が? 苦しいだけだよ? あ、でも、そう言えば駅周りが開発されて急に綺麗になってたな」
    「そう、そうなんです! 駅の前に凄く美味しいスイーツが食べられる人気洋食店ができたらしくって、いいなーって思ってたんです。ほら、うち和菓子屋だから、パパに言ったら怒られそうだし、まあ、行く相手もいないし、っていうか行く時間も無いですけど……」
     そんな話を、佳波は独り言のように言ったのだ。
    「それに予約も全然取れないお店なんですって。ら、ら、らぶ?……なんていうお店だったかしら」


     その佳波の適当な雑談を、蹴は覚えていてくれたことになる。

     佳波がメモに釘付けになっていると、蹴が口を開いた。
    「いいんだ。きっと今回も吹田さん誘ったところで、断られることは半分覚悟してたし。……今度こそっ!とは思ったんだけどねー」
     彼は苦笑に近い笑顔を見せた。
     そして、
    「もし誰とも行かないならキャンセルするから、後でまた都合教えて」
    と言って、蹴はSSのある3階のフロアの廊下を歩いて、奥の階段へ消えて行った。


     佳波はその紙を持ったまましばらくその場に立ち尽くしていた。

     これは、もしかして個人的なお誘い……?
     というか、今までのお誘いも、個人的な、つまりは二人だけで行く予定だったの?
     いや、まさか……。
     
     江坂蹴のように優秀な人間が自分を誘うわけがない。
     それでなくても、いつも嫌われないか冷や冷やするくらい、迷惑をかけているのだ。
     勘違いしてはいけない。
     彼は面倒見が良いだけ。


     SSのフロアから出て来た中津が、思わず廊下で足を止めた。
     もう始業時間は過ぎているのに、またぼんやりと立っている佳波の後ろ姿を見つけたのだ。
    「おい、吹田さん?」
    「は、はいっ!」
     中津の声に飛び跳ねんばかりに反応して振り返った佳波に、彼は尋ねた。
    「江坂、ちゃんと4階の応接に行った?」
    「え、さ、さぁ。よく知りませんが、さっき向こうの階段から上に上がっていったような……」
     中津はチラと佳波の目の奥を覗き込んだ。

     彼女は相変わらず、自分とは無関係な世界の話だと思っているらしい。
     ここはひとつ、現状がどういうことになってるのかを、ちゃんと認識させるべきかな、と中津は思った。
     他人事にはたいてい無関心な中津だが、少し江坂蹴が可哀想になったのかもしれなかった。

    「……ということは、今、4階の応接で豊島サンと江坂は二人きりかぁ……」
     無表情で呟く中津に、佳波は驚いて聞き返した。
    「な、なんで二人きりなんですか?」
    「それは……」
     中津が冷めた目で笑った。
    「豊島サンのお望みなんじゃないの? ま、江坂もみすみす食われたりはしないだろうけども」
    「く、く、く……」
    「何? 江坂が心配? なら、用事作って突撃してきたら?」

     佳波は真っ青になって、バタバタとSSの自分のデスクに走って戻った。

     SSの佳波のデスクの前の池田や、近くにいた服部は、ぽかんとして佳波の慌てふためく様子を見ていた。
    「ど、どうしたの、吹田さん。また、何かミスでも?」
    「い、えと、そうでは……」
    「おい、大丈夫? 何かあるなら手伝うよ?」
     皆の注目の中、彼女はデスクの上でカバンをひっくり返していた。
     カタンという音がして、Kから持たせてもらっている携帯電話がデスクの上に滑り落ちた。

     佳波はその携帯電話を握り締めると、またバタバタと足音を響かせて、3階の廊下を突っ走った。

     何をするつもりなのか、もう自分でもよくわからない。
     しかし、どうしても豊島と蹴が二人きりという状況が、今は耐えられなかった。
     今まで、蹴の誘いを深く考えもせずスルーしていたことに気付いて、心臓が苦しくなった。
     たとえ気付いていたとしても、父親の呪縛から逃れてデートするなんてことはできないに違いないが、その気持ちに”ありがとう”すら言え無かった自分が情けない。


     4階まで階段で駆けあがって、息を切らして、ある部屋の前で立ち止まる。
     第1応接室。
     となりは第2、次は第3と5つの応接室がある。
     どこに蹴がいるかは知らない。
     もしかすると重要な商談をしている部屋もあるかもしれない。
     全ての応接室に、”使用中”の札がかかっている。
     開けて調べていくわけにはいかない。

     佳波は応接室のドアから一旦遠ざかり、5階へ向かう上り階段のステップに腰を下ろして息を静めた。
     震える手で携帯電話を起動させ、『SS緊急連絡先』の番号を呼び出した。



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