迷宮プリンセス

第7話 最悪のコンディション

     蹴の部屋に着き、”ガンゴーン”というチャイムをならした千林と三国は、ドアが開いた時の蹴の顔を見て驚いた。
     蹴は彼らを急に呼び出しておきながら、「おせえよ」と言って舌打ちした。
     今にも嘔吐しそうな奇妙な呼吸と、苦渋に満ちた表情で、パジャマを着ている。
     風呂上がりらしいシャンプーの香りをさせていた。

     部屋の中には、にっこり笑う梅田愛葉がいたが、
     二人が来ると、さっと立ちあがり部屋から出て行った。
     その時の彼女も、髪が濡れていることに気付いた二人は、蹴をジロリと見つめた。

    「な、何にもないからなっ!」
     いくら蹴がそう言っても、誰も信じるはずがない。
    「風呂場でナニしたの?」
    「ナニも何もしてないっ。かっ体中をアカスリタオルで……えと、サッパリ……」
    「な、風呂場でナニをサッパリしてんだ、バカやろー」
    「いや、風呂場はサッパリする所……」
    「あっちの方もサッパリしたんだろうが!!」
    「ちがーーーう! だから早く来てくれって言っただろーーっ!」
     蹴が顔を赤くして怒るのを、三国と千林は憤然と見守っていた。
     しかしながら、そう言えば、梅田愛葉はアカスリ専門店で働いていたことがあったな、とその時二人は思い出していた。




     翌日の朝、吹田家では、食事の前に家中の者が集められていた。
     吹田夫妻は昨夜も帰宅が遅かったので、朝になってからKの紹介を行ったのだ。
     佳波の父、吹田佳雄(すいたよしお)がKの傍に立ち、告げる。
    「彼は大変優秀な私の秘書の一人だったが、今回彼を信じて佳波の生活の安全を全般的に任せることになった」
     まるで朝礼だ、と佳波は思ったが当然口にはしなかった。
     当のKも紹介されている間は、無表情なまま真っ直ぐ前を見ているだけである。

     そして、皆は食事を終え、浩四郎は特にKに関心を持たずに、さっさと出社のために屋敷を出て行った。
     佳波は、Kがどういう行動を取るのかチラチラ様子を見ていた。
     すると彼は紅茶を飲みほした後、彼女に「いってらっしゃいませ」と伝え、自室へ戻っていった。
     今のところ、あまり生活を縛られているような気がしないのは、錯覚だろうか、と佳波は首を傾げる。


     佳波は小さい頃から登校の際、母が車で送迎をしてくれていた。
     今も出社時は母が会社の近くまで送ってくれる。
     そして、仕事が終わる頃には”しらいし”の社員が社用車が迎えに来て”KOTORIE”の専用駐車場で待機している。

     しかし、その日の朝、母はいつもの通りに佳波を会社の近くまで送りながら、こう言った。
    「これからはKがあなたの傍にいますから、送迎の際は彼と一緒にね」

    「はい、ママ」
     佳波はそう答えながら、ホッとしていた。
     Kが送り迎えしてくれるのか。
     残業したりすると待たせている車のことが気にかかっていたが、これからは電話で連絡するという普通に便利な状態で迎えをお願いすることができる。
     どうしてだろう。
     昨日会ったばかりの人なのに、もうすでに、安心感がある。

     ただ、”彼と一緒に”と母の言った言葉の意味は、実際は、彼女の想像するような形とはかなり違っていた。
     それをまだ、佳波は知らない。




     SSのデスクでは、両肘ついて頭を抱えて落ち込んでいる江坂蹴の姿があった。
    「朝っぱらからどうしたの?」
     この部署のナンバー2で、千里室長よりも社歴の長い服部(はっとり)が、蹴の肩をぽんぽんと叩いた。
    「いや、なんでもないです」
     顔を上げて蹴が答えた。
    「そう? 始業時間になったら、4階の応接ルームに行くようにって千里さんが言ってたよ」
    「……了解です」
     返事をしてから、さらにへたり込む蹴だった。

     忘年会の日付の件で落ち込み、昨日のワイセツに近いアカスリに立ち直れず、そしてこれから、4階の応接で豊島と二人きりの時間が待っている。
     蹴にとっては泣きっ面に蜂……いや、泣きっ面にタイキックくらいの苦しみが続く。



     ちょうどそこへ「おはようございます」と出社してきた佳波は、デスクでうつ伏せ状態の蹴を見つけ、
    「まだ眠いんですか?」
    と不思議そうに声をかけた。
    「いや、そうじゃないと思うよ」
     そう答えたのは向かいの席の池田である。
     きょとんとする佳波の隣で、蹴はむっくり起きあがった。
     彼は池田に片手を挙げてスミマセンとでも言うように頭を少し下げ、無言で座席を立ち、SSのフロアから出て行った。
     と思うと、すぐに引き返してきた。
     そして、佳波の手を引っ張り「ちょっと来て」と廊下まで連れ出した。

     廊下は出社してくる社員が大勢いるため、廊下の突き当りまで二人は移動した。
    「なんですか? どうかしましたか? 私また失敗を……」
     だんだん声が上ずる佳波を、蹴はてのひらで制して、
    「違う違う」
    とポケットから紙切れを取り出した。
    「これ、良かったら使って」
     そう言って佳波にくれた紙には、
    <20日19:00 La lune bleue tel:03-XXXX-XXXX>
    という、見慣れた蹴の文字が並んでいた。
    「ラ・ルン・ブル、って、あの駅前にできた洋食とスイーツのお店ですか? 人気店ですよね」
    「うん」
     元気の無い蹴は視線を上げないまま続けた。
    「なかなか予約取れなくてなんとか取れた日がその日だったの、20日」
    「あ、そうなんですか……」
    「どうぞ、2名で江坂の名で予約してあるから誰かと行ってください。俺、その日忘年会の幹事で抜けれないから、使えないのね……幹事でさえなけりゃ、吹田さんを誘ってたんだけど……」
    「ああ、なるほど」
     納得はしたものの、佳波はしばらく考えてから、ん?と首を傾げた。
    「もしかしたら前に私がこの店のお話をしたのを、覚えていてくれて予約を取ってくれたのですか?」
    「うん」
     蹴は人形のようにコクンと一つ頷いて、
    「ほら、イトコのコウシロウくんにでも連れて行ってもらいなよ」
    と、濁った目で遠くを見ている。

     蹴はまるで、魂が抜けたような表情をしていた。



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