迷宮プリンセス

第4話 グレーゾーン

     佳波はほうじ茶のペットボトルを持ったまま、自分の席に戻った。
     隣りの席の蹴はどこへ行ったのか、まだ戻っていない。
     彼女はノートパソコンを立ち上げ、今月の店舗ごとの実績と所見を書くためのファイルを開いた。
     週末までに提出しなければならないが、実績の集計に手間取ってまだ完成していない。

     すると、しばらくして隣の席に蹴が戻って来て着席した。
     その椅子に腰を下ろしたドンという音で、佳波はビクッとして彼をふり返った。
    「えっ、え、江坂くん!……」
    「ん?」

     さっきまで妄想していた江坂蹴と豊島沙穂の事がイッキに甦り、勝手に顔が真っ赤になる。
    「あ、あの、ほ、報告書を書いておりますので、お静かに願います……」
    「……んと、……失礼しました」
     蹴は佳波を見ながらそろりと椅子に座り直した。


     佳波が何か空回りを始めたのを感じた蹴は、それ以上話すのをやめた。
     彼女がこういう状態の時は、必ずといっていいほど集中しておらず、大きなミスをしかねない。
     本当なら、さっきのコウシロウについて、すぐにでも問い詰めたかったのだが、今はどうやら緊張状態だ。
     しょうがない、尋ねるのはまた明日にでもするとしよう。


     SSのチームの座席は、6人ほどが向かい合わせになっていて、その島が3つで合計20名弱の集まりでできている。
     若い男子社員が多く、女子は佳波と、岡本と庄内の三人だけ。
     筆頭の千里でもまだ30そこそこの、若いメンバーだった。


     佳波の前の席の池田(いけだ)が、隣の中津(なかつ)にぼそぼそ呟く。
    「江坂は吹田さんをまだ諦めてないんだな。20日の金曜に何かに誘うみたいだ。さっき廊下でコッソリ聞いた」
     中津は、佳波の様子を伺っている蹴の様子をチラ見しながら、
    「あら、可哀そうに。20日って、忘年会の日らしいよ」
    と平然と返した。
    「マジで? 運が悪いね。今度こそ諦めるかな」
     感情豊かでムードメーカーな池田が蹴に同情するのを、中津は普通にやり過ごす。
    「江坂は豊島サンとくっつきゃいいんじゃないのー?」
     中津はそう言って、大した興味も見せず、仕事を淡々と続けていた。

     確かに、豊島沙穂が江坂蹴にロックオンしているという噂は、彼女が二人の教育実習を担当し始めた頃から、チーム内で広まっていた。
     彼女は佳波に対しては殆ど叱らなかったのに対し、蹴にはとんでもなく厳しかったのである。

     当時、SSの社員たちは色めき立った。
    『豊島、テンション高くね? もしかして江坂が好みなのかぁ?』
    『5歳年下かあ。でも肉食女王には関係無いからなっ』
    『江坂、よく耐えるよね。まんざらでもないのかな……』
    『ドSなお姉さまが好みなんじゃねー?』
     皆、蹴と豊島の仲を疑っている。

     豊島は何かある度に、「江坂くん」「ちょっと、江坂くん」と彼ばかりを傍に呼びたがる。
     そのハラスメント満載の教育実習を終えて、豊島がSSを出てPPに移ったのは、社内風紀を守る為の異動だと陰で言われたのは当然のことである。
     江坂蹴がその気になれば、豊島のことをセクハラやパワハラで訴えることができる程度の状況だと周りが感じていたからだ。


     しかし、蹴は豊島に関して訴える様子はなく、ただ佳波にだけは何度となく噂を否定した。

    『絶対に豊島さんとは何もないから!』
     蹴は、色眼鏡で自分を疑うように見る佳波に、そう繰り返し説明してきた。
    『でも、周りの人がみんな……』
    『誤解だよ。頼むから変な噂を信じないで』
    『そうですか』
     その当時の佳波は、蹴の事にはあまり深い興味がなかったせいで、素直に彼の言い分を聞き入れた。
    『ですよね。江坂くんは誰にでも優しくて良い人だし』
     ニコッと笑って納得した佳波は、その時、蹴を疑うことはしなかった。
     が、しかし。

     時を経て、少なからず蹴との繋がりが強くなりつつある昨今、彼の豊島に関する話題がどうしようもなく気になってきたのである。
     湧き上がる暗い妄想を、自分で押しとどめることができないほど不安に埋もれている。
     それほど、逆に言えば江坂蹴への尊敬や憧れが強く、彼のいないSSでは仕事ができないと思うようになっていた。


     佳波は報告書を書く手を止めて、思う。
     なぜ、SSの忘年会に豊島が来る必要があるのか。
     そしてなぜ、江坂蹴を幹事に指名したのか。

     ……嫌だ。

     絶対嫌だ。


     その時、パーテーションの向こうからやってきた千里の姿が佳波の目の端に映った。
     あ、と一瞬固まった佳波に気付かず、千里が蹴の傍にやってきて口を開いた。
    「江坂くん、ちょっと」
    「あ、はい」
     突然呼ばれ、蹴は慌てて立ち上がった。
    「吹田さんから聞いてくれた?」
    「え、何ですか?」
     佳波は千里から蹴に伝言を頼まれていたことをすっかり忘れていた。
     しかしそんな”忘れ物”は日常茶飯事なので、千里も特に気にする様子はなく、話を進めた。
    「江坂くんに忘年会の幹事を頼みたいんだけど、お願いしていいかな?」
    「わかりました。いつですか、今からだと結構キビシイ……」
    「いや、もう場所と日付は決まってる。豊島さんの知り合いの居酒屋で20日に予約が取れたんだ」

     佳波の背中でまた沈黙が流れた。
     蹴が返事をしていない。

    「だから、みんなにスケジュールあけるように連絡回して、あと予算とかメニューとか豊島さんと相談してくれ。会費の方も任せるから」
    「……はい、20日……ですね」

     蹴の明らかに元気を失くした声が、佳波にも聞えた。



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