迷宮プリンセス

第1話 お嬢様は劣等生

     朝日を浴びて銀色に輝くこの大きな建物に、吹田佳波(すいたかなみ)が形ばかりの面接を受けに来たのは二年と少し前のこと。
     彼女の父がこの会社の社長と幼馴染だという、完全なる”コネ”入社だ。

     ここは、大手の寝具メーカー”KOTORIE”本社。
     佳波は冷たい12月の風に吹かれて、自分が今から出社する建物を見上げ、大きなため息をついた。
    「神様、どうか、今日はミスしませんように……」
     大したスキルも競争心もない彼女は、毎日が失敗の連続だった。


     彼女の父は”老舗和菓子屋しらいし”の現社長で、彼女自身は社長令嬢という身分。
     特に何が何でも就職しなければならないという経済的事情はないし、親の経営する”しらいし”に入社すれば苦労しないのに、と他人(ひと)は思う。

     しかし佳波は、短大を出た後は”しらいし”以外ならどこでもいいので就職したかった。
     社会人として自由に働きたかったのだ。

     二十歳を過ぎても、彼女には自由が無さすぎた。
     両親の目の届く範囲でしか行動を許されない。
     つまり”コネ”という表現よりも、父親の選んだ会社に入社させられた、と言った方が相応しい。


     今日こそはトラブル無く過ごせますように、という切実な佳波の祈りを吹き飛ばすような、明るい声が背後から聞こえてきた。
    「おはよう、吹田さん」
     思わず振り返ると、出社してきた同期の江坂蹴(えさかしゅう)が片手を上げて彼女の傍を通り過ぎようとしていた。

     極普通の挨拶。
     何の意図も無い。
     しかし佳波にとっては、その声の主が大問題だった。
     じわっと涙がわいてくる。

    「え?」
     蹴は驚いて立ち止まった。
     軽く挨拶した相手が、じっとこちらを見つめて迷子の子供のように泣きべそをかいているのだから。
     焦って佳波に近づき、顔を覗き込んだ。
    「なんで朝から泣いてるの?」
    「そ、それは……」
     佳波は目に溜まったものを拭って、彼の顔をじっと見つめた。
    「……今日も、ミスするかもって思ったら……こわくて」
     蚊の鳴くような声とは、このことだ。

     江坂蹴には、この佳波の涙に心当たりがあった。

    「あぁ、昨日の発注忘れのことでまだ立ち直って無いのか……」
     蹴は佳波にハンカチを渡しながら、苦笑した。
    「あれはもう解決したし、気にしなくていいよ。何か困ったこととか不安なことがあったら、すぐ訊いてくれればいいだけだから、な、頑張っていこー」

     佳波は差し出されたハンカチを見て、慌てて押し返した。
    「い、い、い、いいです。男性にハンカチなんてお借りしたら……」
     涙を指で拭き拭き、佳波は蹴を置いてササササっと歩き出した。
    「え、ちょっと待って、吹田さん!」
     蹴は、逃げるようにビルへ駆け込む彼女を、慌てて追いかけた。



     入社2年目である22歳の吹田佳波と24歳の江坂蹴との間には、大きな大きな格差があると、佳波は思い込んでいる。劣等意識が全身の92%くらいを占めていた。
     店舗管理チーム(通称SS)に配属された同期は佳波と蹴の2人だけということもあって、そのレベルの差が嫌でも表立ってしまうように思えるのだ。

     なんでもスイスイと上手くこなしてゆく蹴に対し、なんにでもつまずいていちいち皆の手を止め足を引っ張ってしまう佳波。
     さらに同期というしがらみのせいで、蹴が佳波の相談相手で世話役で……、実質の尻拭い役になってしまっている現状。
     佳波は蹴に申し訳なくて、頭が上がらない。

     2歳の歳の差はあるものの、これじゃ月とスッポン。
     正直、会社にとっては、アタリとハズレである。
     それでも、佳波はコネ入社なのでクビにはならない。あまり強く叱責されることもない。
     この苦しみはまさに針の筵(むしろ)だ。
     しかし安易に仕事を辞めれば、次に就職できる保証もない。
     わずかな自由が吹き飛んでしまう。辞めるわけにはいかないのだ。

     だから、
    『こんな簡単な処理をするのに、そんなに時間かかるの?』
    なんて江坂蹴に呆れられても、ただ黙って耐えるしかない。
     気がつけば、
    『なぜここで間違うのかな……見当がつかない……』
    とか、
    『こんなんで通ると思ってたの?』
    とか、最終的には、
    『吹田さん、今、もう何もしなくていいから』
    なんていう言葉が出てくる。

     別に彼は悪意を持って言っているわけではないと佳波にもわかっていたが、それでもかなりのダメージを受ける。仕事の失敗に落ち込み、人に迷惑をかけることでさらに深く落ち込む。

     なんとか頼らずに頑張ってみようとしては更なる失敗を引き起こし、
    『もっと早めに相談しろって言ってんのに、なんでこうなっちゃうまで言わないのかなあ……』
    と、言わせる結果になる。
     負の連鎖である。

     唯一の救いは、江坂蹴が佳波を見放さないことだった。
     ブツブツ言いながらも、一からやり直しを手伝ってくれるのは彼だけ。佳波の唯一の味方と言っていい。
     恨めしいけれど、嫌いにはなれない。

     深い感謝と尊敬と劣等感、そして少なからず抱く憧れ。
     佳波はそんな複雑な感情に振り回されて、お嬢様らしからぬストレスフルライフを送っていた。


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