さくら降ります

【あらすじと目次】

●あらすじ●

大切なものを失ったまま惰性で生きている、里中智哉。
おなじくやり切れない想いを抱えて苦しんで日々を過ごす三谷陽。二人は、桜の絵をきっかけにして近づいてゆく。
二人にとって別々のキーワードとなっている桜に、二人がそれぞれの自分の答えを求め、それを見つけるまでのストーリー。
何かを伝えようとすることの難しさを、優しい答えで結ぶ、ラブスト―リー。
1話5000〜10000字程度(2〜3節)、中編、現在連載中。

 

●目次●

第1話 桜の中の人 (1) (2)  /  第2話 スケッチの中の人 (1) (2) (3)  /
第3話 箱の中の人 (1) (2)  /  第4話 傘の中の人 (1) (2)  /
第5話 瞳の中の人 (1) (2)  /  第6話 想い出の中の人 (1) (2)  /
第7話 トンネルの中の人 (1) (2) /  最終話 眠りの中の人 (1) (2) 

 

「飲みに行きましょうよ」
 すぐ酔っぱらって赤くなる割りに酒が好きで、それ以上に飲みの席が大好きな慶佑が、甘えるように智哉を誘う。
 デスクの上のデジタル時計に目をやった。18時15分。
 今週末にクリスマスを控えた月曜日。この時期に、しかも週の頭から飲むのか。
 そう思った智哉に、慶佑がすかさず言う。
「フツーに居酒屋で飲みたいんです。チキンもローストビーフもいらないから。僕はワインやシャンパンより日本酒が好きなんですよ」
「そうだっけ?」
 智哉の疑問に答えることもなく、慶佑は心から幸福を噛みしめるような表情で静かに言った。
「今年のクリスマス、週末三連休なんて最高じゃないですか……。具合悪いって言って引きこもってられますからね。その日はテレビもSNSもニンゲンの姿も見たくないので、ひたすらゲームするか、早く寝ます。なんなら里中さん、うちに泊まりに来ますか? 実家ですけど。里中さんならオッケーですよ」
「いや、ご遠慮します」
 訊きづらいので訊けなかったが、最近慶佑がやたらと絡んでくるのは、やっぱり彼女と別れていたせいだったんだな、と智哉は納得できた。
「このまま元気でいたら、盛り上げ役としてパーティーに強制参加です。親しい人の祝い事なら我慢もできますが、単にパーティー好きなやつらのために二日も犠牲にしたくありません」
「うん」
「だからクリスマス前に飲むんです。クリスマスの後に男同士で外で飲むと慰労会っぽくてツライですから。この心理、わかりますよね」
「……うん。……まあ、なんとなく」
 慶佑は人を楽しませることができて、優しくて気が付くので女子によく囲まれているし実際モテる。だから余計なのか。
 社交的な人は大変なんだなと智哉は思った。
「さあ、里中さんも三連休まで後四日、羽目はずして飲みましょう!! 楽しみましょう! 具合が悪くなるまで飲みましょう、せっかくの独り身なんですから!」
「せっかく、って……」
 そこで、せっかくという言葉を使うのか。強調された自分の階級に、智哉はため息をついた。

 智哉は高校時代からずっと、イベント事は全て花梨と過ごしてきた。その恵まれた環境を、別れるという形で失った時に、どこかホッとした気持ちになった。
 慶佑が言うような、せっかくの独り身だから好きなことをして楽しもう、という気持ちにまではなれなかった。
 もう何もしなくていい、何も考えなくていい。
 誰かのために、何かをする自分でいる必要が無い。そんな安堵感。
 ” コウアルベキ ” 状態を模索し続ける自分を解放し ” ネバナラナイ ” 的な状況からリタイヤした。
 気楽な毎日は、放っておくとどこまでもそのままの生活で生きていけそうな気がしてくる。
 でも、そうか……。
 それは、能動的では無いにしろ、結果的に独り身を楽しんでいるという意味にはなるのか。


 会社のビルの、社員専用出入り口近くで慶佑を待っていると、男子社員が智哉に近づいて来た。
「お疲れ様です。CCの今井です。知多さんですが、今日の飲みは用事ができて無理だそうですよ」
 そのカスタマーセンターの今井という初見の男は、慶佑から伝言を頼まれたのだと言う。
「何か急な件みたいです。申し訳ありませんとのことです」
 さっきまで飲みに行く気マンマンだったのだから、急であることは間違いない。
「何かあったのかな?」
 メール一つ送る余裕が無かったということは、もしかすると大変なことが……。
 智哉が慶佑に電話しようと携帯電話を取り出すと、今井が言った。
「多分つながりませんよ。まだ夢中で電話してると思います。顔が相当ニヤけてたし」
 今井の笑顔を見ている限り、悲報の類では無さそうだった。
「……そか。ならいいけど」
 智哉はそれを聞いて安心し、帰りかけようとすると今井に腕を引っ張られた。
「どうします? 二人だけっていうのもね。女の子でも誘いますか?」
「え? 待って、飲みに行くの? 俺と君が?」
「はい。奢れとは言いませんから、ちょっと行きましょうよ」
 初対面の相手に突然そう言われても、智哉の性格では快諾できない。そしてはっきり拒絶することも難しい。
「……別に、今日じゃなくても……」
「そうですか? 里中さんと飲みたいのに……あ、三谷だ……」
 通用口から出てバス停の方への道を歩いてゆく三谷陽を見つけた今井は、急に大きな声を出した。
「三谷! 里中さんと一緒に飲みに行こうぜ!」
 智哉は驚き、今井を苦い顔で見つめた。

 智哉が陽の方へと視線を向けると、彼女は少し先で立ち止まり、二人の方を振り返っていた。
 陽は智哉に一瞥を投げると「お疲れさまでした」と一礼。そして、そのまま二人に背を向けて去っていった。
「なんだよ……」
 今井は陽の態度に気を悪くしたのか、ムッとした表情で舌打ちしていた。

「また、年が明けてから、みんなで飲むことにすれば……」
 宥めるようなつもりで智哉は今井に声を掛けた。
「……え、……あ、はい……」
 そう答えはするものの、今井は陽の後ろ姿を見つめていた。
 心ここにあらず、か。彼は三谷陽が好きなのかな。もしかすると一人で誘うのが嫌で俺の名を出したのかな。
 智哉がそんな風に考え始めた時だった。
「三谷、何を考えてんだろうな」
 今井がボソリと言った。
「あいつが言ってたんですよ、里中さんと話がしてみたい、って。だから、せっかく、チャンス作ってやったのに……」
 そんな今井のぼやきに、智哉は一瞬口ごもった。何を言うべきかすぐには言葉が出てこなかった。
「話がしたいっていうのは……多分、この前俺が変な質問したからだな……」
 智哉は、今井の言った” せっかく ” という言葉だけが、いつまでも耳に残っていた。


 せっかくこういう状況なんだから、こうした方が良い。
 ……なんていう、周りの人のお勧めにすんなり乗って、図々しく生きていけるほど器用なら、俺はもうとっくに考え方も変わっているはずだ。
 過敏過ぎます、なんて注意されることもあるはずがなくて……。

 三谷陽という人が、何をどう考えているのかはわからないが、なんとなく、どことなく、不器用さのようなものを感じてしまう。

<……きっと、里中さんにとっての桜も、私と同じで何か意味があるのかもしれないと考えています。……>

 何かに意味を持たせてしまうこと自体、現代では、生きていく上で足枷になるから。

 でもきっと、彼女もそれは、嫌と言うほど分かっているんだと思う。
 分かっているけれど捨てられない、何かが残ってしまう。

 なんとなく、そうじゃないかと感じるんだ。


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(2)
 陽の姿が見えなくなると、今井が目を細めて智哉を見た。そこには少しの猜疑心が滲んでいる。
「三谷への質問て何だったんですか……。あいつの気を引くほどの質問なんだから、やっぱり……超、個人的な??」
 今井の表情が、何か期待するようなものに変わってゆく。
「いや、ただ……社内報の桜の絵が気になって……」
 智哉が戸惑いながら答えると、相手は軽い調子で「ああ、なんだ、アレですかー」と笑った。それで納得したのか「じゃ、お疲れさまでした」と言って普通に帰ろうとしたので、今度は智哉が今井の腕を掴んで引き留めていた。
「桜って、三谷さんにとって何か特別なのかな。……知ってる?」
「知りません」
 今井はあっさりと答えた。
「公園でその表紙の絵を描いてる様子は、見かけましたけどね」


 その翌日、智哉に対する知多慶佑の態度は少しおかしかった。どことなく余所余所しい。目が合えばニコリと笑うのだが、それ以上の絡みが無かった。
 何かあったのかと訊かねばならないほど極端な態度では無かったので、言いたいことがあれば慶佑から話があるだろうと思っていると、気付けば一日が終わっていた。飲みの話も一切出てこない。
 多分クリスマスに一緒に過ごす相手が見つかっただけのことだろう。無理矢理飲みに行く理由がなくなったので絡んでこないだけ、智哉はそう解釈した。
 そして、年末の業務に忙殺されて、その週は終わった。


 営業部の忘年会は月初に済んでいる。営業部と言っても智哉は販売促進課なので、数値的な成績に追われることも、根回し的な濃い人間関係も無い。それどころか年末の挨拶回りすら無い。うるさい上司数人に年賀状を書きさえすれば十分なので、気持ち的にはかなり余裕がある。
 そんな恵まれた状況での週末三連休は、とても平穏なものだった。

 金曜と土曜は、年末の買い出しの運転手として親に使われた智哉だったが、日曜は朝から草野球の練習で、いつもとさほど変わらない。
 違うことといえば、練習の後、皆で食べたり飲んだりして過ごさずに、メンバーの予定が考慮され、早々に解散となった事くらいだ。
 智哉はヒマな数人と一緒に昼食を取った後、帰宅して風呂に入った。心地よい疲れがあり、ビールを口にしなくても眠ってしまいそうだった。
 ふと、棚に置かれた時計に目が行った。
 午後3時。今寝ると、夜眠れなくなりそうなので、ここは我慢しなければならない。
 雪こそ滅多に降らない地域だが、気温は下がっていく一方の時間だ。ちょっと散歩でもすれば目が覚めるかもしれない。
 そんな事を考えていると、先日の今井の言葉が思い出された。
『三谷とさくら公園でたまたま会ったんです。何か描いてるんで見せてもらったら満開の桜で、びっくりしたの覚えてます。だって、それ10月の話ですよ? 今も休みの日は描いているらしいですけど、写生じゃないなら、わざわざ外で描く意味がわからないですよねえ。寒いのに……』

 さくら公園はその名の通り、この近辺では随一の桜の名所だ。
 桜の木以外は何も無く、公園と言うより広場と言った方が近い。春になれば広い敷地に人が集まり、桜の花の下で楽しい時間を過ごす。
 花梨と付き合っていた頃は、彼女が望むまま、その場所で桜を撮り続けた。
 カメラは、雑多な人混みを写さぬように空を仰ぐが、写真を撮る智哉の耳には人々の楽しそうな声が聞えていた。そんなことを思い出す。

 智哉は部屋着の薄いシャツの上にタートルネックのセーターを着こむと、コートに手を伸ばした。

 別に、三谷陽に逢いに行こうと思ったわけじゃない。
 知りたいことを確かめることができれば、引っかかっているものが薄まっていくような気がしただけだ。
 自分にとって桜はもう、こだわることをやめたテーマ。たとえ、人から見ればまだ過敏に見えたとしても、その存在の力は、もう随分弱まっている。
 しかし陽にとっては、きっと強い威力を持っているんだろう。
 桜しか描けない、なんて。
 真冬の公園でも描いているとしたら、そこまでの意味を持つ彼女の中の桜とはどんなものなのか知りたい。


 冬のさくら公園は、予想通り閑散としていた。クリスマスともなれば尚更だ。寒空の下、無数の裸の桜の木と、黒い塵となった落ち葉の塊があるばかりだった。
 智哉は木の傍に立つと、幹を撫で、頭の上の細い枝を見上げた。手袋を外した指で辿ってみると、花芽ははまだ頑なに冬ごもり中だ。
 それでもいつか、時期が来ればつぼみは膨らみ、開き、空を見飽きた頃に、ゆっくりと花びらを落としてゆく。
 花が終われば陽(ひ)の光の強さは加速し、生命を湧きたたせるような季節が開放される。
 散ってゆく花びらは、きっと、ファンファーレの音と共に舞う紙吹雪のようなもの。新しい季節の始まりを祝うために降るのに違いない。


 智哉は一つ息を吐いて、両手をコートのポケットに突っ込み、その場から離れようと歩き出した。
 するとその時、自分の名を呼ぶ声が聞えた。
 振り返ると、公園の入口で、三谷陽が立っていた。
 左手でスケッチブックを持ち、右手には色鉛筆らしきものを握り締めたまま、じっと智哉を見ていた。
 やっぱり居たんだなと、彼女に歩み寄ろうとする智哉を見て、陽が叫んだ。
「待って、里中さん! もうちょっとだけ!」
 来るな、ということらしい。距離にして15メートルくらいある場所から、睨まれている。いつからそこで描いていたんだろう。まだ出来上がっていないのか。
 陽は動かない智哉を見ながら、改めてスケッチブックに何か描き込み始めた。
 智哉は彼女が一心に描き続ける姿を見ながら、呆然と立っていた。
 そして何分か経ち、彼女の残念そうな顔が見えた。
「ごめんなさーい!」
 普段の彼女からは、想像もできないほど感情的な声だった。
「やっぱり上手く描けなかったぁー」
 三谷陽は気落ちした様子でうなだれ、スケッチブックをパタリと閉じた。
 智哉は思わず彼女の傍に走り寄ると、その顔を覗き込んだ。
「描き終わったの? 見せてよ」
「うん、どうぞ。ヘタで恥ずかしいけど」
 陽の手の中のスケッチブックが智哉へと差し出される。それを受け取りながらも、智哉は陽の表情を見つめていた。
 目を閉じたまま俯いていた陽が、ゆっくりと目を開け彼を窺う。

「……見るよ?」
 見て良いと言われているのに、智哉は彼女の様子を確認しながら尋ねていた。なぜかスケッチブックを開けることを、一瞬ためらっていた。
 陽は少し目じりを下げ、悔し気な苦笑を浮かべて言う。
「頭の中にはね、里中さんが撮ってた写真と同じくらいはっきり、綺麗な桜があるの! でもね、描けないの……。才能が無いって悲しい……」
 その頬も唇も、寒さのせいか紅い。ほのかな香りが感じられた。
 智哉の頭の中に、こんな近くに居てもいいのかという雑念が浮かんで、そして消えていった。


 スケッチブックに描かれた絵は、例えるなら、やはり小学生が花見に行った日の絵日記だ。
 一面ピンクに染まった満開の桜がそこにあった。
 三本の太くて立派な桜は、あの社内報の表紙より、少しだけ逞しく若々しい気がする。

 そして、その三本の桜の中央には、智哉を見て描いていたと思われる男性の姿が小さく描き添えられていた。

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(3)
 しばらく絵を見つめていて気が付いた。視線を上げなくてもわかる。三谷陽の影が、ずっと智哉の横顔に被さっている。
 成り行きで、昔からの友人であるかのように一冊のスケッチブックを見下ろし、二人は顔を寄せている。彼女の細い腕と智哉の腕がぴたりと密着しているが、陽はどう思っているんだろう。寒い季節だから、何とも思っていないのだろうか。
 俯いたまま、あのさ、と声を漏らしたものの、続く言葉が出てこない。まず何から訊くべきだろう。
 なぜ、桜の絵しか描かないの?
 なぜ、こんな寒い日にまで、咲いていない桜を見に来るの?
 この男性は誰?

 すると、智哉が訊くより先に、陽が口を開いた。
「里中さん」
 顔を上げ彼女と目が合うと、改めてその距離の近さを思い知らされた。それは陽も同じだったのか、一瞬その視線がぷると揺れた。彼女の顔全体が緊張のために赤くなっていく。
 その様子を目にするまで、クールな三谷陽が顔色を変えるなどありえないと智哉は思っていた。でも目の前の陽は、人見知りの女の子のような反応を見せ、唇を開いたまま言葉を失っている。
「なに?」
 そう訊いて、智哉は軽く背筋を伸ばした。身長差の分だけ距離が開く。
 彼にとっても、呼吸が耳に届くような距離は心臓に悪い。
「あの……。そう……、里中さんは、どうして桜の写真ばかり撮るのかな、と、ずっと思ってたから訊いてみたくて」
 陽はまだ恥ずかしそうな顔をして、静かに言った。
「ん?……桜の写真?」
 智哉は、まさか自分が質問されるとは思っておらず、戸惑いながら陽の顔を見つめた。
「写真はおととしが最後で……それ以降は撮ってないよ」
「それは、おととしの春に何かあった……とか?」
 思わず、え?と訊き返すほどの直球の質問に戸惑った。
「あー……そうだな……何か、あったような気がする」
 そんなこと、なんとなく想像してくれよ、と思いながら智哉は苦笑した。過去、必要な時に必要な事をしてきただけであって、今は自分にとって、桜も写真も必要無くなっただけなんだ。
 それなのに、三谷陽は、追及をやめなかった。
「それは、もしかして、好きだった人のことを想って……?」

 智哉はまっすぐ陽の瞳を見ながら、頭の中では橋本花梨の顔を思い描いていた。


 ずっと彼女と向き合ってきた。
 それなのに、花梨に対して具体的に何をしてあげたのかを思い出せない。彼女が喜ぶ顔は桜の季節に紛れていて、自分はただ景色を眺めていただけのような気がする。

『智哉は、私なんてイラナイんでしょ? 私は、私を必要としてくれる人と一緒にいたい』
 花梨はあの時、冷めた目でそう言った。
『やっぱり20代で結婚したいし、子供も欲しいし。……前から、周りに言われてたの。十年も付き合ってたら、そのままずるずる行って、結婚するキッカケを失くしちゃうよって』

 周囲の助言は正しい。あの頃、自分は彼女の前でどんな人間であればいいんだろうと、その答えをずっと探していた。多分、あのまま花梨と付き合い続けていても、答えが出ない限り、結婚しようとは言わなかっただろう。彼女が別れを選び、ほかの男との結婚を決めたのも、仕方ないことだった。
 花梨が去ったことで、それまで彼女のために長い間守ってきたルールや習慣は、不必要なものになった。
 写真も。
 桜も。


 ぼんやりとしている智哉に、陽が言葉を続けた。
「好きな人との想い出だから、もう桜に関われない……。そういうこと、なの?」
 その言葉が智哉を現実に引き戻す。
 陽へと意識を向けさせる。

 穏やかな、まるで春の日差しのようにあたたかい笑顔をこちらへ向けていた。仕事中に見かける、人を寄せ付けないような強いオーラはどこにも無い。
 この人はきっと春に生まれてきたに違いない。桜の降る日に、大きな祝福を受けて生まれて来た人なんだ……、そんなことを思わせる表情だった。
「私は里中さんとは逆。忘れないために関わっていたい……」
 陽はそう言って再びスケッチブックに視線を落とした。
「いつまでも、この人のために、桜を描き続けたい」
 スケッチブックの中、桜の花の下で独り立つ男性を、彼女はじっと見つめていた。
 智哉は思わず陽に尋ねる。
「その人は誰?」

 まさかこの質問を一番に口にするとは、彼自身思っていなかった。

 彼女はさっき、智哉を見ながらこの絵を描いた。Tシャツ姿の若い男性、勿論、智哉とは別人だ。咲いていない桜を見ながら、満開の桜を描くのと同様に、智哉を見ながら一体誰を描いたのか。
 両手を上げた青年の、元気一杯の様子が伝わって来る。単純な線で描かれた目はニッコリと笑っている。
 陽は唇を結んだまま、智哉の両の目をじっと見つめた。そのあとで、フッと視線を外した。
「ナイショかな」

 その悪戯っぽい笑顔が可愛いなと思った。

「これから、予定は? 良かったら夕食でも……あ!……クリスマスか……」
 日が悪かった。
 どう考えても、すんなり入ることのできるレストランは少ないだろう。いや、それ以前に、陽にもクリスマスの夜の予定はあるはずだ。
 陽は急に事務的な口調で言う。
「用がある時は、前もって連絡下さいって言いましたよね?」
 そんなことを言われても、会社じゃないのに。
 もの言いたげな智哉を見て、陽は笑っていた。



 陽と別れて自宅に帰ってから、智哉はPCの電源を入れた。
 自分のブログの中の桜の写真を見返していた。

 三谷陽は、どうして桜しか描かないのか。それはあの男性のためなんだ。
 その人はきっと、桜と大きな関係があるんだろう。彼の事を想いながら、寒くても暑くても公園に向かう。
 忘れないために桜を描き続けると言うくらいだから、その人とはもう二度と会えないのかもしれない。誰かと結婚してしまったのか、遠い所へ行ってしまったのか、あるいはもう、この世にはいない人なのか……。
 戻って来てくれない人をいつまでも好きでいるなんて辛くないんだろうか。
 いつまでもその人の面影を追い続けて、周りにいる人間のことを見ないつもりなんだろうか。

 智哉の中には、紡ぐ前の綿(わた)の塊のような、ぼおっとした感情があった。



 今はまだ容易に散らされそうなその意志(わた)だったが、数か月後、『彼』と『彼女』を繋ぐ糸となる。

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