M of L - 夏さんの、恋する意義 -

【あらすじと目次】

●あらすじ●

若いとは言えない26歳の夏原夏は恋をした。完全なる一目惚れで主導権は常に相手の上野紘一が握っている。
それでも食らいついて来た8ヶ月後、エンディングを迎えることになる。ええ? 始まって早々エンディング?
叩きつけられたエンディングをものともせずに突き進む夏さんの恋は、どこまで成長していくのか。
20代後半だろうが、妄想癖があろうが、つい応援せずにはいられないオトボケ主人公は、今日も迷惑を振りまいていく。
1話(6節〜8節)7500〜10000字程度、長編。

 

●目次●

Part 1 ; Look at me !
  第1話 私の彼は   /  第2話 俺の彼女は  /  第3話 彼のセリフ  /  第4話 彼女の妄想
Part 2 ; I miss you ...
  第1話 彼の行方は  /  第2話 私の彼女は  /  第3話 彼女の彼は  /  第4話 俺の周りの人間は
Part 3 ; I need you !!
  第1話 四月は始まった / 第2話 遊園地へGO! /  第3話 六人の思惑  /  第4話 痛み止めのキス
Part 4 ; I'll hold you !!
  第1話 ホンモノは誰だ   /  第2話 君を想うゆゑに  /  第3話 恋   /  第4話 彼の気持ち

スピンオフ企画
  バレンタイン・トラップ   /

 

(1)
「夏、教えてやろう」
 紘一が呟くように言う。

 頬の涙を拭っていた指は、そっと頬全体を包む掌へとかわり、みみたぶに触れる。
「疲れてると、俺は気が短くなる」
 怒りを感じることのできない、静かな声でそんな事を言われると、かなり怖い。
「……? お、怒ったの? ご、ごめん……」

「王子様がお好みかもしれないけど、童話の世界とか妄想の世界じゃなく、実物の俺の方を向けって言いたくなる。失礼過ぎるだろ」
「そんな、ちゃんと見てるよ……」
 王子様っていうのは……それは『例え』みたいな、『具体例をあげると』みたいな、なんていうか、『イケメンの象徴』みたいな……『アイドル』的な意味合いなわけで……。

「いつもなら放置してやってる所だが、今日はもう無理だな」

 紘一が「目を瞑れ」と言った。
 いつの間にか私の体は、すっぽりと紘一の腕の中に包み込まれていた。

「俺は連みたいに寸止めはごめんだからな。嫌なら今すぐ拒否れよ」

 そんな事を低い声で呟く唇が、頬を撫で、どんどん私の唇の方へと伝ってゆく。

 あっ……。

 一瞬、唇の端に彼の唇を感じた、その時だった。


 カチャカチャ。
 という聴き慣れた小さな音がした。




 急に夢から覚めたように色んな情報が感じられた。
 まず、私の体を抱いていた紘一の腕が、スルリと消えた。
 掌も、息遣いも、引き剥がされるようにサッと消えた。

 目を開けると、少し離れた場所に紘一が立っていた。視線は玄関だ。鍵を開ける音がして、すぐにドアは開いた。
「ただいまー」
 久芳連(くぼうれん)と兄の賢(けん)、そして上野美羽(うえのみわ)のご帰還だった。

 無言のまま、こちらを見ようともしないで立っている紘一。
 ズボンのポケットに手を突っ込んでいるその後ろ姿から、彼の表情は想像できない。

 唇が重なる0.5秒前で止められた私は、完全に脱力してその場にへたり込んでしまった。



 ドアが開くや否や、弾丸のように駆け抜ける声と姿。
「夏っちゃ〜〜〜〜んっ。居る?? 聞いて聞いて聞いてっ!!!」
 紘一の目の前を通り過ぎて、私に飛びつく美羽ちゃんだった。

 白目を向いて力の入らない私のことなど気にも留めず、この体にしがみついて仔犬のようにキャンキャン飛び跳ねて感情を爆発させている。
「ど、どうしたの?」
「しおんくんが可愛くてえええ〜〜〜〜死にそう〜〜〜〜」
「え? 何???」
 唖然とする私と怪訝な目で妹を見つめる紘一の傍に、ようやく久芳兄弟がやってきた。この状況の解説は彼らに託した方が良さそうだった。



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(2)
 賢さんが言う。
「花見が退屈だっていうからさあ、駅前まで10分ほどだし、飯でも食いに行くつもりがね、美羽ちゃんがある店のことを思い出してねえ」
 彼は上着のポケットから名刺を取り出して、すっと私に差し出す。

 私はそれを見せてもらって店名を棒読みしてから驚いた。
「輪舞曲(ロンド)2号店、…………ハ、ハムスターカフェ・ロンドって!!!」

 確かロンドはこの近辺ではなく、私の会社のある駅の近くにあったわけで、つまり、そこから電車で1時間以上離れているこの街の駅前にもロンドが……2号店があったってこと??

 四宮現紀(しのみやげんき)に紹介してもらったハムスターカフェ・ロンドには、柳井まおりさんという、超可愛いハムスターがいたけれど、これは、多分無関係ではないよねえ??


「どうしてこの店に行ったんですか?」
 私の問いに、賢さんが
「美羽ちゃんの実家に、本店と2号店の案内状が来てたらしいんだ」
と不可思議なことを言う。
「それで行ってみたら完全紹介制のカフェらしくて、持ってた案内を見せたら、確かシノミヤさんからのご紹介ですね、とかなんとか言ってすんなり入らせてもらえて……」


 な、なんと!

 四宮、上野家の住所を調べてそこまでやってたのか!
 

「そこにね、夏ちゃんっ。ハムスターの柳井しおんくんっていう子がいて〜〜。もう超かわいくって、年間契約してきたの〜〜〜」
「ね、年間契約ぅ??」


「年間契約っていうのはね」
 傍で少しぼんやりしていた久芳連(くぼうれん)が、ようやく口を開いた。

「しおんくんっていうのは、特別デリケートな、いわゆるレジェンドなハムスターらしくて、一般の人に売ることはできないんだけど、年間税込み15万5520円払えば、オーナーとして営業中はいつでも好きなだけ会うことができるんだって。つまり、そういう権利に対する支払い金なんだって」



 さ、さ、さ、詐欺臭くない?
 見に行くだけでお金取るの?



「でも1000円のドリンクが毎回タダだから、毎日通えば全然高くないんだよね、これが」
 やはり虚ろな目をしたままの連は、そう説明する。

「毎日通うの!!!」
 驚く私と同時に、美羽の兄である紘一も黙っていなかった。
「美羽! おまえ大学出たあと就職もしないでブラブラしてるくせに、それ一体誰が支払うんだよ!」

 そんな兄を振り返り睨みつけた美羽ちゃんは、スッと右手を出して、なんと賢さんを指さしたのだった。

「ええっ!」
 私も紘一も意外過ぎて言葉が出てこなかった。



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(3)
「いや〜〜やっぱり可愛い子にねだられちゃ、男としてはねえ」
 賢さんの顔が雪崩を起こしている。
「私のためならいくらでも出してくれるって言うからあ〜〜」
 美羽ちゃんも、どことなく顔が赤いじゃないか。

 えええ、これはもしかして、意外なカップル成立なの?
 お金とハムスターが結んだ縁なの??


 つか、四宮め、お金の事は何にも言わなかったぞ。
 あいつ、ロンド側と手を組んでカワイイカワイイ詐欺やってんじゃないでしょうねえ。
 警察(賢さん)に捕まっても、私は知らない! 関係ないからね!


 それにしても気になるのは連の元気のなさ。

 どうしたのかな。

 もしかして、兄の賢さんに美羽ちゃんの気持ち持ってかれた(正確には賢さんとしおんくんにだけど)ことがショックだったりして。
 実は、いやよいやよも好きのうちで、美羽ちゃんに気があったとか…………。


「連、どうかしたの? 大丈夫?」
 私はテンションマックスの美羽ちゃんを引き剥がして、テンション常にマックスの賢さんに渡すと、連の傍に行き尋ねた。
 すると、連は首を横に振った。
「なんでもないよ」

 なんでもないって、一番あぶない答えだわ。
 心配だよ。
 なんといっても、いつも悩みを打ち明けて来た仲間じゃないの。


「実は俺も……ぴおりさんと契約を……」


 ぴ……?!


「柳井ぴおりさんと年間契約結んで来た」





 は、ハムスターとか好きだったっけ?
 そりゃ、可愛いけどもっ!
 その柳井ファミリー、どっかおかしいと思うんだけど、そこまでレジェンドなの? 何かドリンクに不審な薬物が混入されてんじゃないの? 大丈夫なの????

「毎日、会いたいから……」
「連……」


「会いたいんだ、柳井まりさんに……」


 柳井まり……。
 柳井といえばハムスター……と間違えてはいけない。柳井まおりはハムスターの名前だけど、柳井まりは、人間だったはず。
 そう、あの胡散臭いカフェの、アニメ声で話す店員の名前だ!!


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(4)
「柳井まりに会いたいって、連、それ……」
 呆然と問い返す私に、連はふにゃふにゃの笑顔を浮かべて言う。
「実は、その……。ハムスターカフェにね、柳井まりっていう店員さんがいてね……」

 知ってる。
 そいつのことなら既に見てるよ!!
 一号店の店員のはずだけど、二号店にも顔を出すわけね?!

 彼女は体の全てのパーツがちっちゃくって、顔も声も人形みたいに可愛くて、その上接客業だから愛想は良いし頭の回転も速そうだった。おバカな笑顔で隙を見せてるのも、実は計算のうちって感じ。
 そんな、アイドルみたいな子に連が惚れるなんて、マサカのナナメ上をゆくマサカだよっ!
 これも四宮の策略のうちなのかな……。

 私はハッとしてキャンキャン状態の美羽ちゃんを振り返る。
 連のコトには全く関心が無い様子。
 それほどまでにハムスターマジックにやられたのか、それとも、もう賢さんがいるから連には興味がなくなってしまったのか。……顔が似ていて、同じ逞しさ、同じ優しさなら、経済力を持ってる方を選ぶって?? うそだよ〜〜信じたくないけど、分かる気もするーーー。

 それにしても、美羽ちゃんの躁状態と連のぼんやり状態……まるで地球外生命体にアブダクト(誘拐)された後のような異常状態(実際見たことないけど)……を放っておいていいのか……。
 いいと言えばいいのかな、美羽ちゃんはストーカー行為をこれ以上する気はなさそうだし……。
 …………このままでもいいはずなんだけど、なんかちょっと急展開でどうしていいかわかんない。
 紘一はどう思う? ねえ、コウイ……チ……。

 振り返って探す私の目に映ったのは、こともあろうにリビングの端に自分の布団を寄せて、アイマスクを付けゴロリと横になっている上野紘一の姿だった。
 そう、ごちゃごちゃワイワイを全く無視して、彼は寝ることができるらしい。
 オロオロしている私を気にかける様子はカケラもない。

 再び脱力……。


 とりあえず、話がアッチコッチに飛躍しそうなテンションの美羽ちゃんと賢さんには、これ以上付き合っていられないので、なんとかお帰り頂こう。
『ほら見て、あそこにマイペースで寝ているこの部屋の主人がいるでしょう?』
 ……という視線を送り、お休みの邪魔になるから遠慮しなさいと念を送って追い出したのだった。

 勿論、美羽ちゃんは兄のことなどどうでもよかったに違いないけど、賢さんが帰るとなると、やはりついていった。
 なんと、玄関から出て行く時には、二人、手をつないでいたじゃないの!!!!
 この数時間で、驚くべき変わり身の早さだ。

 まあ、この際、美羽ちゃんの事は置いておいて、問題はこの腑抜けヅラした連だよ!

「悪いことは言わないから、連、彼女は……」
 連みたいな良い人タイプは、スッカラカンになるまでイロンナモンを絞り取られて捨てられるのが目に見えてるしっ。

 私が連の腕を引っ張りながら、大きく首を左右に振っていると、彼は心細げに視線を漂わせた。
「だめ? やっぱり高望み? 相手にしてもらえないのかなあ……」
「えっ、あ、いや……」
「でも、毎日通って顔覚えてもらって、じっくり時間かけて……」
「………………あ、うん……」
「なんとか一緒にお茶するくらいに、なれないもんかなあ……」
「………………なれない……こともないかもしれないけど……」

 私はしどろもどろになって、うまく説得できなかった。
 それくらい、軽率なことを言えば、簡単に傷ついてしまいそうな表情をしていた。

 連ったら……。惚れてるよ、ホンキで。


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(5)
 その夜は、リビングで独りぐーすか寝ている紘一を放置して、私専用に使わせてもらっている部屋で連と飲み続けた。

 思えば、過去、自分が恋に悩んで辛い時はいつもこうして連に付き合ってもらって飲み潰れるまで飲んだものだ。
「夏のこともちゃんと好きだったんだよ、だったんだけどさぁー……まりさんを見た瞬間に、カミナリが落ちて来て……動けないくらいの衝撃でー……」
「そう、カミナリがねえ……」

 缶ビールの空き缶が、10、20……。
 私も結構飲んではいるけど、連のピッチは相当速い。
 彼が浴びるように飲み続けて無意識に喋っている状態を見たのは初めてだった。
「その、まりさんの、顔に惚れたワケ?」
 何を言われても、どんなに酒を呑んでも、連は顔色を変えない。ただ、視点が定まらず、返事には普段の彼の反応の3倍くらい時間がかかる。
 用心しながら連の顔を見て、彼のコンディションを伺ってみるが、どうやらこれ以上飲ませるのは危険な領域だろうと思う。
「顔? ……顔は……」
 連は私の顔を見てゆっくりと首をひねる。
「夏とそっくりだよね……」
「いや、似てない似てない、全然似てない」
 やはり危ない。私は彼女のように派手ではない。
 彼女は、というと…………大きな大きな瞳にグリーンのカラコン、ぽってりした垂れ目にアイライン増し増しでパンダのような可愛らしさを持つ。そのくせ、ゆで卵のようにスベスベ白肌で小顔なのだ。
 四捨五入すれば三十になってしまう私とは……、疲れが顔に浮き出ている私とは……似ても似つかない。

「まりさん……」
 連が私の顔を見て呟く。
「……連、もうそろそろ寝ない? きっと夢でまりさんに会えるからさぁ……あ?」
「まりさん、好きになってもいい?」
「どうぞどうぞ、まりさん喜ぶと思うよお」
 目が虚ろな連に何か言っても通じているのか不安だった。
「ありがとう、まりさん、この気持ちわかってくれたんだね」
「え? うん、え? え? え?」


 ずで、という音と共に、私は連に押し倒された。
 私が手にしていた空き缶が吹っ飛んでカッツンと壁に当たって音をたてた。

 横たわる私に覆いかぶさって来る連は、私の顔を見ることもなく、しっかり目を閉じて自分の世界に入っている。
「連、私、夏だよっ、夏! まりさんじゃないって!!」
「まりさん……夏?」
「そう、夏! 重いっ、重いから、どきなさい!」
「え、でもよくこういうの、今までもあったじゃん。この状態でもう戻れないよ、今夜はまりさんの代わりになってよ」

 えええええー!
 なんてことを言うんだ!
 好きで押し倒されるならまだしも(いや、よくないけど)、誰かの代わりで押し倒されるなんて許せん、アホかっ!
 アホか、アホか、アホかぁぁぁぁー!


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(6)
 アルコール臭い息が、一瞬鼻にかかったと思った次の瞬間には、連の唇が私の唇を塞いでいた。

 もがいて、両手で連の体を押し返そうとしたが、がっちり床に体を押さえつけられていて逃げ場がない。顔を左右に振ることでなんとかキスを躱す。
「キスくらいいいじゃん」
 傍で連が言う。
 確かに、今まではなんとなく流されてキスくらいいいか、と思っていたけど、今は嫌。

 柳井まりさんの代わりに……、なんてフザケんなって!
 そしてそれ以上に、昼間の紘一とのことを思い出すから、体が自然に、完全に、絶対的に抵抗する。

 そりゃあ……。
 紘一は多分、私の事を愛しいと思ってキスしようとしてくれたわけじゃない。
 疲れに任せて、泣いてる女がめんどくさくなって、キスしたらおとなしくなるんじゃないか程度の気持ちだったかもしれない。
 それでも。

 それでも、私。

 嬉しかったんだよ。

 嬉しくて、紘一の気持ちが私に向くまで、いつまでも待つって決めたんだよーーーー!




 ペチ。

 そんなお餅をついたような音が響いた。

 私は無意識に、連の頬を叩いていた。
 頬を抑えて唖然として私を見つめる連と、初めて他人の顔面を叩いた手のひらの痺れに動揺する私。

「……や、やめてよ」
 私の出した声は震えていた。
「あ、うん。ごめん」
 連の声は小さかった。
 急に我に返ったような連に、私は何故か恐縮して慌てて言葉をつなぐ。
「う、あの、こっちこそ、ごめん……。いつも自分の恋愛相談の時は親身になってもらってたのに、連の時にアドバイスとかうまくできなくて……」
 連は体を起こし、その場に座り込んで、ふうとため息をついた。
「なんか、酔いが醒めた……」

 私は起きあがり、連の真向かいに座っていた。
 二人とも呆然としている時、部屋のドアノブがガチャと音を立てた。

 それは、繊細になっている私たちの心臓を見事に射抜いて、ビクッと体を強張らせた。


 ただ飲むだけでいかがわしい行為なんてする気がなかった私と連は、当然部屋の鍵なんてかけていない。
 そして、ドアノブを握っているのが紘一であるのは明白だ。

 彼が部屋に入って来て何を言うのか、その時の私は身を縮めて構えるしかなかった。


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(1)
 ドアノブが音を立てて半回転した瞬間、そのまま派手に押し開けられるものだと覚悟していた。

 しかし、人が入って来るほどの勢いはなく、僅か数センチドアを動かされただけ。
 ドアに鍵がかかっていなかったことに、驚いたんだろうか。ためらっているような雰囲気が伝わってきた。

 そして、リビングの冷たい空気が、上気した私たちのいる室内の空気とするどく混じり合うのが感じられる。
 この沈黙をどうすればいいの。
 誰かが何か言ってよ、私が言うの? 今、私、声を出せる状態じゃないんだけどっ!!

「夏」
 ようやく、ドア越しに紘一の声が聞えた。
「は、はい、なに?」
 反射的に返答するが、声が上ずる。
 紘一の声はいつも通り、静かだった。

「明日、ここを出てってくれ」



 えっ。


 あまりの言葉に、何も言えずに硬直してしまった。
 すると、私の代わりに連が慌てて「ちょっと待って」と取りなす。
「入って来て。話そうよ。ちょっと散らかしたから片付けて……」
「いい。言いたかったのは、このマンションで3人過ごすのは窮屈だから、夏に出てってもらいたいってことだけだ」
 取り付く島もない紘一は、それだけ言うとパタンとドアを閉めた。
 顔すら見せなかった。

 頭の中は真っ白だ。
 言われても当然かもしれない言葉だけど、反論させてくれない冷たい態度を見せつけられ、そこに猶予はないんだと知る。
 頭上には重い岩がガツンと載せられたままボケッとしている私とは違い、連は急いで立ちあがり部屋を出て行った。

 ドアの隙間から、リビングにいる二人の声が聞える。
「ねえ、狭いってことなら、俺が出て行くから」
「いや、夏には帰るマンションがあるし、職場だって待ってる。連は新たに引っ越し先を見つけなきゃならない。それなら出てくのは夏でよくないか?」
「え、その、なんでそんな急に? ……夏は、サブロー……いや上野紘一のことは裏切ったりしてないんだよ? 悪いのは俺で、だから怒るなら俺に怒りをぶつけるのが筋だろ?」
 連の問いに、数秒、間が有ってから紘一の声がした。
「裏切ってるかどうかを判断するのは、連じゃなく夏でもなく、俺だ」

 冷たく響いた声を聞いたとき、私は思った。
 紘一はどんな表情をしていたんだろう。
 連が何も言い返せないくらい、冷たい目をしていたのかな。

 しばらく沈黙が流れた後、紘一が声色になんの感情も混ぜずに言った。
「いや……裏切りとか、そういう大袈裟な話じゃない。愉快か不愉快かで言うと不愉快ってコトだ」


「不愉快なんだよ、夏の存在が」


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(2)
 わあああっと、私は声を上げて泣いた。
 それはリビングの二人にも聞こえただろう。
 連が呟いた。
「口でどうこう言っても、本当は上野紘一(うえのこういち)は夏原夏(かはらなつ)のことを好きなんだと思ってたよ。夏だってそれを感じてたからこそ、今まで……」
 その呟きに対する紘一の答えは、簡単な言葉だった。
「そうか。知らなかったな」


 何を知らないととぼけているのか、どこかチグハグな応え。
 前にも聞いたことのある言葉だ。
 あれは、紘一に『俺のどこが好きなんだ?』と訊かれ『全部』と答えた時のことだ。
『それは知らなかったな』
 その一言で終わらされた。答えになって無い応え。


 連は居心地が悪かったのか、それとも紘一に呆れ果てたのか、
「今夜は友達のとこに泊まるよ」
と言い残して、部屋を出て行った。
 部屋を出る間際、彼は泣いている私のところに戻って来て言った。
「帰ったらダメだよ。帰ったらそれで終わっちゃうよ」
 そして、頑張れと励ましの言葉を置いていった。


 泣きながら夜を明かした。
 眠りたくても涙が溢れて眠れなかった。
 幸せな妄想すら湧いてこない。
 だめだ、このままだと明日はヒドイ顔になる。わかっているのに、どうせ紘一に愛されない顔、愛されない存在なら、どんなだって構うもんかという投げやりな気持ちになった。

 めめしいなあ。一晩中泣くなんて。
 不愉快な存在だと彼の口から聴かされるほど、自分が彼のストレスの原因になっていたのだと思うと、泣いて汚くなっている自分を可哀そうだとは思えなかった。
 自業自得なのか。
 私のしてたことはやっぱりストーカーと同じだったんだ。

 

 朝方、一瞬だけ気を失うように眠った。
 体温を感じるほどリアリティのある夢が私を襲う。

 紘一に抱きしめられて眠っている。
 彼は甘い言葉は何も言ってくれず、ただ、私の首元に唇を押し付けて呼吸している。
 ああ、まるで赤ちゃんのよう。
 紘一に抱きしめられているのではなく、私が紘一を抱きしめている。

 もっと素直に感情を出していいのよ。
 泣いていいのよ、笑っていいのよ。
 私は、絶対に嫌いになったりしないから。

 心臓の音。

 呼吸の音。

 心の音。

 耳を澄ませて聴いているのに、紘一の気持ちは、私に向かって開いてはくれない。


 そして目を覚まして思い出す。
 私は出て行けと言われたんだったなあ……。


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(3)
 ぼんやりしていた朝の6時頃だった。
 小さく部屋のドアがノックされた。
 私は立ちあがり、鍵のかかっていないドアを開けると、そこにはスーツ姿の紘一が立っていた。
「おはよう」
 私の顔を見た彼は、らしくなく一瞬視線を逸らした。
「泣き過ぎだろ」
「だって」
 私が俯くと、頭の上から彼の淡々とした声が聞えた。
「荷物は後で運んでやるから、とりあえず……」
 紘一は腕時計を見てから「8時までに出られるように用意しろ」と告げた。

 非情な宣告だ。
 夢は夢、妄想は妄想。現実は……といえば、出勤時刻に間に合うように、邪魔な女を追い出そうとする男がいるだけだ。
「わかった。すぐ用意する」


 そうして、私は紘一のマンションの前で彼が鍵をかけるのを見届けた後、
「それじゃ」
の一言で、彼と別れ自分のマンションに戻った。

 実際、紘一の部屋に突撃したのが月曜で、今日が水曜だから、たった二日間の滞在。二泊三日の小旅行じゃないの。
 紘一と一緒に住むとまで覚悟して、飛び出した自分の部屋に、こんなに早く戻るなんて予定外すぎて気が抜けるわ。


『帰ったらダメだよ』と言ってくれた連だけど、帰って来てしまいましたよ。
 だって、紘一に逆らえるわけないんだから。
 ていうか、嫌われてるっていうことがショックで、なんとかして居座る方法を考える力も無くなっちゃったよ。
 好かれてないのかもしれないけど、『存在が不愉快』とまで言われるほど嫌われてたなんてさ。


 そして、翌日の木曜午後、大きな私の旅行鞄が宅配便で送られてきた。
 その荷物を見た時、私は本当に紘一に拒絶されたんだな、としみじみ実感した。せめて車を持ってるんだから、車で運んで紘一自身が持ってきてくれるとかあるかな、なんてことを心のどこかで期待していたんだけど、往生際が悪いってやつみたい。

 心配して連が電話してきてくれたけど、連は連で恋の悩みの真っ最中だから、あんまり頼るわけにはいかない。
「大丈夫だよ〜、新しい恋見つけるから! 結構私ってモテるんだよお〜ん」
『それはわかってるけど、うーんホントに大丈夫かなあ』

 
 翌金曜日には、四宮現紀(しのみやげんき)が、来週からちゃんと出社できるのかと問い合わせの電話をよこしてきたので、ついでに事の顛末をぶっちゃけた。
『結局、男友達が柳井まりに惚れちゃって、……って、障害サッパリ無くなっちゃったじゃないですか。好都合〜。なんでそんな老け込んだ声でヘコんでんですか』
「だって、存在が不愉快って……」
『聞こえない聞こえない、努力不足ー。恋愛は食うか食われるか、勝ち取る勇気を持たないものには、決して手に入れられないモノなんすよ!』

 そんな紘一の冷たさを知らない四宮に言われたって、実感わかないよ。
 ……て、そう言えば四宮は一度、紘一に逢ってるんだなぁ……。


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(4)
 悶々としながら荒れた部屋の真ん中で、スマホだけをお腹に載せて、一日を過ごす日々。
 当然、期待しているのは紘一からの連絡。でも、そんなもんがあるものならば、こうして放り出されているはずがない。
 昔も今も変わらず、連絡するのは一方的に私からだけ。会ってくれるのも、彼の気が向いた時だけ。
 そしてもう、不愉快と言わしめたのだから、その気が向くことはなくなってしまったに等しい。

 土曜日、日曜日と過ぎて行き、とうとうこの最低な気分で、休暇明けの月曜の朝となった。
 しかもただの休暇じゃない。問題アリアリの、辞表叩きつけた後の出社であり、社内でその事件を知らぬ者はいないという状況だった。憂鬱以外の何物でもない……。
 ただ、社内の人は妙にみんな優しくて、同期も先輩も『今までゴメン』『冗談も度が過ぎたらダメだったよね』と、過去の些細なトラブルを詫びてくる。
「なんか、夏原さんて何言っても許してくれそうな雰囲気持ってるからさー」
「つい、言いすぎちゃうんだよねえ。メンタル強そうっていうか」
 などなどの言い訳も聴いた結果、社内で特に許せないヤツ、みたいな人がいなくなってしまった。

 あれだけ女の職場の意地悪がめんどくさーいと思っていたのは、ヘラヘラ対応していた私の方に問題があったのかもと思えた。
 そりゃ、誰に対しても適当に返事するやつなんて、心証悪いよね。
 相手と真面目に相対さなきゃいけない時もある。
 職場でフワフワしてた以前の自分には、もう戻らないようにしよう。うん。


 居場所があるっていいなあ。
 私は自分の席に座って、なんだかホッとしていた。
 安易にその場所を捨てて、不透明な未来しかない紘一の下へ走ったのは、馬鹿だったな。

 一度も求められていないのに、会いに行くなんて。
 強引に押し掛けて一緒に住むだなんて、紘一の身になって考えてみれば迷惑でしかない。
 嫌われに行ったようなもんだなあ。
 
 そんな事を考えていると、なんだかまたイジイジと泣けてきそうだったので、仕事に集中、と気合いを入れ直した。
 と、その時急に四宮が私を呼んだ。
 彼は会社の窓際の観葉植物の隣で手招きしている。
 意味が分からないまま四宮の傍までゆくと、腕時計を指さされた。
「仕事熱心ですねえ、もう6時過ぎてるのに」
 言われて、あ、と思った時、同時に、私は四宮が背にしている硝子越しの外の景色に目が釘づけになった。

 かつて上野紘一が勤めていた支社の社員通用口が眼下に見える。
 見慣れた光景に、見慣れた影が二つ、通用口から出て来て駅へと向かってゆくところだった。
「あ、あれは……」
 呟く私に四宮がニヤリと笑った。
「あの手前の男が、前に、夏原夏の動向を探ってきたヤツ。『ちゃんと仕事してますか』って……。どう、あれが上野紘一(うえのこういち)でしょ?」

「う、……うん」


 なんで、紘一が、今ここにいるんだろう。
 紘一の隣を並んで歩いているのは、三島光一(みしまこういち)だ。


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(5)
 四宮現紀(しのみやげんき)が、ほらほらと促す。
「追いかけないと」
 いやいや、でも、今更どんな顔して会えばいいの。会った途端、嫌そうな顔をされるよ。絶対そうだよ。
 躊躇している私に、四宮がさらにけしかけた。
「いいじゃん、偶然を装っちゃえば。隣に同僚もいるわけで、彼氏サンもそこまで露骨に嫌な態度はしないって」
「で、でも……」
「え、迷うの? 会いたいんじゃなかったの? ほんの何日かで諦めきれるモンなわけ?」
 諦めきれないよ、諦めきれないけど、諦めなきゃいけないっていうかああ……。
「ほらもう角を曲がって姿見えなくなっちゃうけど、あああ、もう間に合わないかも……」

 私はええいっ!と自分を奮い立たせ、上着と鞄をひっつかんで、オフィスを出た。
「お疲れさまー。タイムカードは押しとくから」
 背後で四宮の茶化す様な声が聞えて来た。


 どうしよう、超はや足で追いかけてみると案外簡単に追いついてしまった。
 そう、もう目の前に二人の男性の後ろ姿がある。
「……おつかれさまです……」
 恐る恐る小さい声で呟いてみると、2人が気付いて立ち止まり、振り返った。
「あ」
 二人そろって声に出し私を凝視するので、思わず俯いて小さく礼をして通り過ぎようとした。
「お疲れさま。元気そうで何より」
 三島の声が追い越しざまの私にかけられたが、もう立ち止まったり会釈したりする余裕はなく、そのまま駅へと向かった。

 あー、結局なんだったんだか。
 話かけるとかできるわけないし、まだ心臓バクバク言ってるし。
 改札を通って少し歩いて立ち止まった。
 そっと後ろを振り返ると、すぐ後ろを例の二人が歩いていた! 跳び上がらんばかりに驚いて急いで走りだそうとする私の肩をむんずと捕まえられた。
「そんなコソコソしなくても」
 その手はどうやら三島さんのものだったようで、柔らかい声を掛けられて、おもわず力が抜けてへたり込みそうになった。
 紘一は、紘一は……。
 虚ろなまま紘一の方に視線をやると、彼は足元をじっと見つめて顔を上げない。不機嫌さを押し殺したような感じが漂っている。
 そして、そのままの態度で顔も上げずにこう言った。
「夏原さん残念だけど、三島さんにはもう会えないかもしれないよ。本社勤務になるんだって。五条商事に呼び戻されたらしい。全く会社は異動する方の苦労なんか考えて無いんだからな」
「1週間で再度異動っていうより、前の異動の取り消しっていわれた方がわかるよねえ」
 紘一の不機嫌さをフォローするかのように、三島さんはにっこり笑っている。
「そんなことより夏原さんには朗報です。上野紘一が支社に戻って来ますから」

 え、と声に出して聞き返したが、三島さんはニヤニヤと笑っているだけだった。

「じゃ、自分は急いでるんでお先に失礼します。上野君、ちゃんと説明してあげた方がいいよ」
 終始ご機嫌な三島さんに比べると、未だに俯いて視線を上げない紘一に、私は何と声をかければよいのか本当に困った。

 嫌だった支社勤務から本社勤務になれるのならと無理難題も受け入れていたというだけに、元の支社に戻されるという人事は相当やり切れないに違いない。

 多分、五条商事が三島さんを選んだ結果の、特例の異動なんだろう。
 選ばれなかった紘一は、紘一にも問題があるわけで……。というか、あの花見の席で部長の元に私を連れて行ったことからして、五条優姫さんと付き合わないと宣言してるようなものだったわけだから、この人事異動もある意味納得している部分があるのかな?

「夏」

 三島さんがいなくなると、紘一はふと私の手を取って言った。

「ちょっと話しようか」


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(6)
「俺が支社勤務になるのは、三島の代わりが見つかるまでの間だけだ。そういう条件でこっちへ戻された」
 上野紘一(うえのこういち)は駅のホームのベンチを見つけると座り、私の腕から手を離した。
 躊躇いながら、私はその隣に座る。
「三カ月以内に本社勤務に戻すという……部長とのあてにならない口約束があるから、今のところ本社近くのマンションから引っ越す予定はない」
 じゃあ、紘一はあのマンションからここまで通うことになってるんだ。
「少しの間だけでも実家に住めば、支社は近いのに。でも身の回りの品を移動させるのは、確かにめんどくさいか。それに、連だっているしね……」
 私が言うと、紘一は首を横に振った。
「連はもうあのマンションにはいない」
「え?」
 初耳だった。そう言えば、ここ二三日は連とラインとかしてないな……。
「好きな子ができたらしくて、その子と同棲してる」
「えええっ!!」
 れ、連て、そんなに行動の早い男だったの!?
 じゃ何、私への好きは、やっぱりその程度の好きだったわけねっ! って怒っても仕方ないけど。
 まあ、連が幸せなら良かったよ。

 紘一が私を見ていた。その困惑したような表情が気になった。
「ん、何?」
「いや。笑ってるから」
 え??
 紘一は視線を前に戻してから言う。
「連のこと、勿体ないと思わないのか。あんないいやついないぞ。せっかく何年も待っててくれたのに、ほかの女に取られて……しかも連の一目惚れだろ。ありえねーし」
 紘一の論理がよくわからなかった。
「勿体ないとか思わないよ。友達じゃなくなったわけじゃないし。それに、一目惚れはありえないの?」
「ありえないな」

 私が紘一に一目惚れをしたことも、ありえないことで、つまり、愛情を信じて無いってことだ。
 俺のどこが好き、の問いに、『見た目』だとか『全部』だとか言う言葉は、紘一にとっては全く響かない言葉だったわけだよね。なんとなくは気付いてたけど。
「私が紘一を好きだったこと、まだ届いてなかったのかな」
「いや、ちゃんと届いてる」
 紘一は即答した。

 なんか意地悪されてる気分だ。
 その後私はなんて言えばいいのよ。
 好きになってしまって、すみませんでした。これが正解かな。だって、迷惑だったんでしょ……?
 でも紘一は、私が拗ねた言葉を吐く前に、ブツブツと呟くような口調で途切れることなく話し続けた。

「ネガティブな言葉をぶつけられることには慣れてて、どんなことを言われてもなんとも感じなかった。自分がそうじゃないという自信があったから。そして自分自身がネガティブだと感じることも無いと思っていた。それなのに、夏に対してなんとなく不愉快だという気持ちが、最初から最後まで抜けなかった。俺はずっと夏に対してネガティブな気持ちを持ち続けていた、ということだ……」

 紘一は何度ネガティブという言葉を口にしただろう。
 ちょっと待って。
 不愉快な存在だと言ったのは、あの時だけじゃなくて、付き合い始めた頃からずっとそう思ってたってことなの?!


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(7)
「ずっと、ずっと最初からそう思ってたの? 私のことを不愉快なヤツだって……」
 紘一は前を向いたまま、こくりと頷いた。
「悪かったと思う」

 衝撃的すぎて、言葉にならなかった。
 じゃあどうして付き合ってたのよっ! 
「付き合いながら……ずっとイライラしてたとか……?」
「そう」
「そうって……!」


 紘一は押し黙った。反省の態度なのかもしれないが、こっちからフォローしてやる言葉は見つからない。
「嫌いなら、突き放してくれたらよかったのに、ひどいよ!」
「嫌いじゃ……なかった。不愉快だったんだ」
「それ意味同じでしょ!」
「違う」

「チガウ……?」
 いやいや、いつまで続けるの、このよくわからない残酷な告白を。
 紘一の横顔は、いつも通りの冷めた表情を浮かべていた。
「不愉快っていう感情を自分なりに分析したら、最近、正しい答えに辿り着いた」

「答えってなんですか」
 半分喧嘩を買ってる気分で言い返した。
 すると、紘一は苦い顔をして答えた。
「不愉快っていうのは、よく考えた結果、不安と同じだとわかった」
「不安……?」

 紘一は視線を下げていたが、やっと私の方に顔を向けた。
「一から百まで、夏のすることが不安だった。ずっと俺がついてないと何するかわからなくて、誰についてくかわからなくて、誰かに何かされそうな気がして、……安心できなかった」
 それは、つまり……。
「フワフワして、純粋で、俺の一言一句に動揺して……。そんな人間には免疫がないし、責任持てないし……でも突き放せなくて、……イライラ」
「……イライラ……」

 私はがっくりとうなだれた。
 なんとなく、紘一の言いたいことがわかってしまったからだ。
 私って頼りなさすぎて人を不安にさせる所があるんだわ。
 確かに連にも、あぶなっかしいと言われてたし。

 それが、対人関係に難の無い人なら、簡単に注意することで不安は解消できたでしょうに、この上野紘一というヒトは、相手に対する感情すらはっきり掴めずにイライラしていたというわけ。

 悔しいけど納得。
 でも、それが理由なら、なんとか活路を見出すことができる! ここは、もっと話を単純化するべきなのよ。

「不安ってことは心配だったんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、それは私のことが『好き』だか……」
「だから、連みたいないいヤツが夏の傍についててくれたら、俺は安心できるのにってずっと思ってて……」
「え」
「今からでも遅くないから、連に匹敵するくらいのいい男を探してくれ」
「えええっ!」
「それしか手段が無い。俺が安心するために。頼む」
「頼まないで頼まないで、自分で処理してよおっ!!」



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(8)
 私の叫びも空しく、上野紘一は晴れ晴れとした顔で立ちあがった。
「よかった。気持ちをちゃんと伝えておかないと、後味が悪いからな」
「ちょ、ちょ、ちょ、……」
 ちょっと待って、勝手に解決しないでーーーっ。
「俺、上りのホームだから、夏とは逆だな。それじゃ、元気で」
 そんなことを言って、紘一はホームから地下通路へと降りて、姿を消してしまった。

 こんなことって、こんなことってあるぅ??
 思わずあっけにとられていたが、だんだんじんわりと悲しみがやってきた。
 紘一は最初から私のことなんか女として見てなかったってことなんだ。あぶなっかしい子のおもりをしている気分で付き合って、それでイライラして、心配させやがってーーみたいな感じだった……のかな?
 もう、どうでもいいけど、情けなさ過ぎるーー。

 ほんとに、紘一のどこが良かったんだろ、もうわけわかんないよお。
 それでも、憎めないっていうか、まだ好きでいる自分が……ほんと愛おしい。
『ばっかだな、今までのはぜーんぶウソ。夏の気を引く作戦に決まってるだろ』
『そうなの? やっぱりそうだよね。私、それほどヒドイ子じゃないでしょ? かわいいでしょ? あ、自分で言うのナシか』
『いいよ、夏は自分で言っても誰も怒らないくらい、可愛くてエロくていい女だと思うし、俺は絶対誰にも譲らない』
『うんっ、紘一だけのエロ可愛い子になる!』
「夏、こっち向け」
 そして紘一が私の髪を掻き上げて背中のファスナーをスーッと下ろす。
『夏、おまえは俺だけの女だからな。 ……危ないって」
 素肌に何も付けていない私の姿を見て、紘一は冷静でいられなくなって、私をぎゅううっと抱きしめる。
「なにやってんだよ。頼むからこれ以上俺を困らせないでくれ」
『好きなの、全部受け止めてほしいのっ!』
『わかってる。 夏……いい加減にしろ」
 強引に抱き寄せられて、私は閉じていた目を開いた。

 パシ。

 私をしっかりと抱きしめて顔を突き合わせている紘一に、頭のてっぺんを平手で叩かれた。
「紘一……」
「危ないってんだろーが」
 紘一らしからぬ怒りモードに、さっきまで見ていた夢のような世界が瞬時に消えうせた。



 私はホームの端ギリギリに立っていた。
 もう少しで線路へ落下……。

「もう、ほんっとに……ちょっと目を離すとコレか!」
 唾がかかるほど顔面を近づけられて、紘一に怒鳴られた。
「妄想禁止だ、いいか、妄想は現実逃避だ。現実でいい男を捕まえたらそれで解決す……」

 私は紘一の言葉を最後まで聴かず、しっかりと彼の体に抱き着いて、その胸に顔を埋めた。
 もう化粧で彼の服を汚そうが気にせずに言葉を発した。
「紘一以外、無理!!!」

「絶対離れない!」

「…………」

 紘一が何も言わないまま数秒が過ぎた。
 私は恐る恐る顔を上げ、上目遣いで彼を見る。下から見上げているせいか、非情な笑みを浮かべているように見える。
 いや、やっぱり見間違いではなさそうだった。

「じゃあ訊くが、妄想せずに現実を直視して俺と付き合えるのか」
「直視できる!……けど……」
 けどけど、それって冷たい紘一を肯定しろってこと?
 放置され放題なんじゃないの??
 付き合っても付き合わなくても、大して違いが無いってことじゃないかあ……。

 紘一は静かに笑う。
「夏の我慢強い所は結構気に入ってる」
「そ、そんなあ!」
 紘一にしがみついていた手の力が抜けて、私はホームにくずおれた。

 やっぱり紘一の口から優しい言葉は出てこない。
 線路に落ちそうになった私を助けてくれたということは、心配して様子を見ていてくれたんだと思うんだけど……。
 心配でイライラするって、好きってことじゃないの?
 素直に言ってよ!
 ……て、紘一には無理な要求か……。



「仕方ないな」


「妄想しないよう、しばらく傍で様子を見てやるしかない……かな」



 遙か頭上で紘一が何か呟いていたが、
 絶望の泥沼にはまっていた私には、よく聞こえていなかった。



<END>


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