M of L - 夏さんの、恋する意義 -

【あらすじと目次】

●あらすじ●

若いとは言えない26歳の夏原夏は恋をした。完全なる一目惚れで主導権は常に相手の上野紘一が握っている。
それでも食らいついて来た8ヶ月後、エンディングを迎えることになる。ええ? 始まって早々エンディング?
叩きつけられたエンディングをものともせずに突き進む夏さんの恋は、どこまで成長していくのか。
20代後半だろうが、妄想癖があろうが、つい応援せずにはいられないオトボケ主人公は、今日も迷惑を振りまいていく。
1話(6節〜8節)7500〜10000字程度、長編。 

●目次●

Part 1 ; Look at me !
  第1話 私の彼は   /  第2話 俺の彼女は  /  第3話 彼のセリフ  /  第4話 彼女の妄想
Part 2 ; I miss you ...
  第1話 彼の行方は  /  第2話 私の彼女は  /  第3話 彼女の彼は  /  第4話 俺の周りの人間は
Part 3 ; I need you !!
  第1話 四月は始まった / 第2話 遊園地へGO! /  第3話 六人の思惑  /  第4話 痛み止めのキス
Part 4 ; I'll hold you !!
  第1話 ホンモノは誰だ   /  第2話 君を想うゆゑに  /  第3話 恋   /  第4話 彼の気持ち

スピンオフ企画
  バレンタイン・トラップ   /

 

(1)
 散らかったリビングでゲームを始めた上野紘一(うえのこういち)と、少し離れた床の上でタブレットを見ている久芳連(くぼうれん)。
 そこにテレビはなく、二人とも耳にはイヤホンを挿している。
 とにかく、とても静かな夜。
 何も無い……唯一Wi-fi環境だけがある部屋で、無言でそっぽを向いている。
 私がいる事も、忘れちゃったんじゃないのかと疑う。
 さっきまで、火傷でドタバタしていたのに、もう何事も無かったかのよう。

 私は紘一に言われた通り、奥の鍵のかかる部屋に入り自分のカバンの荷物をぶっちゃけて見た。
 1週間は泊まれる用意をしてきたのに、こんなケガをしてしまったら居づらいなぁ。
 いや、ここは甘えるチャンス!
 せっかく仕事を辞めてまで覚悟の上で来たんだから、夜中にこっそり紘一のところへ忍び込んでみるとか。

『紘一』
『な、びっくりした。どうしたんだよ、痛むのか?』
『うん……、どうしたらいいかな』
『どうしたら……って』
『……痛いのを忘れる魔法、かけてほしいの』
『相変わらず、笑えるコトばっか言うな、夏は』
 顔を寄せた私に、紘一はクスッと笑って、寝ながら軽く私の額にキスをする。
 違うよ、そこじゃない……って、勿論患部でも無いけどさ!
 とか思っているとむくっと起きあがって、あっという間に彼の布団に押し倒されてしまった!
 いや、うそ、あっ、そんな急にっ! 
 真上から見下ろす紘一は、いつものように冷たい笑顔で言う。
『唇にキスしてくださいって言えばちゃんとキスしてやるよ』
『……ほ、ほんと?』
『ああ。ほんと?とか白々しいのは、もういい。全部終わらしちまおう。ほら、逃げるのはナシな』
 紘一の体重を軽く胸の上に感じ、彼の手で固定された顔はぐい、と顎から持ち上げられ、彼の唇がすぐそこに迫ってきて……「ゴンゴンゴン!!! なああ、起きてるでしょ??」

 あと少しで夢が叶うという瞬間、見事に妄想から目覚めさせた大きなノックの音に、殺意すら感じた。
 が、よく考えてみればその声は連。何か用事があったのに違いない。

 鍵は元からかけていない。
 連はすぐ中に入ってきた。
「どうしたの?」
「ん?」
 連はニコニコして言う。
「片手じゃ何もできないだろうから、ほら、洗顔手伝ってあげる。まずは化粧落とさないとねー」

 なんだかんだ言いながら、手際よく私をスッピンにして、……あれ……、下着姿にして、さっとブラも外して……? あれれパジャマに着替えさせてくれたけど、いいのコレ?
 全然、拒否感が無いんだけど。
 私って貞操観念が低い?
 違う、違うよ、なんかね病院で看護師さんにやってもらってる感じしかしなかったんだよねえ……、嘘じゃない、よ。うん。


 そのまま洗面所で歯磨きや洗顔を半分手伝ってもらって、垂れさがる髪を一つにまとめてくれたりして、なんだか傍にお姉さんがいるみたいな感覚が……。
「ね、やけど治るまで面倒みてくれる人が必要でしょ? しばらくここに泊まりは決定だね。ちゃんとケアしてあげる」
 そんな風に優しく言われて思わず頷いてしまった。
「ありがと……む」
 お礼を言い終わる前に、連が唇で口を塞ぐ。
 私が目をギョロつかせて彼を睨むと、連は言った。
「これくらいの報酬くださーい」

 そ、そんな可愛いこと言ったって、絶対だめ、もうそのキスって感情こもってるじゃんっ!

「こ、こ、紘一がっ……」
 私はそれだけ小声で必死で言葉を吐き出した。
「サブロー? あいつ今いないよ。急に上司に呼び出されたみたい。こんな夜中になんでだろね」
 10時。まあ夜中というほどではないけど、確かに遅い呼び出しだなぁ……いや、そんなことより、今、連と二人っきりなのですかああ!!!
「どう、あっちでもう少しゆっくりキスを楽しまない?」

 ええ???


 そこでイエスとか言えるわけないし!!
 でも右腕引っ張られて、私の部屋に連れて行かれる。
 えっ、えっ、ちょっと待って力で勝てないのに、当たり前のように部屋に入って来て、

 ウソ、内側から鍵しめちゃうの???

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(2)
『ええーっ! で、彼氏のいない間にそいつとやっちゃったんすか!!』
 四宮現紀(しのみやげんき)の声がカフェに響き渡る。
『や、やっちゃった……って……。何もしてないってばっ!!! 拒否ったよ、拒否ったけども、……多分もうちょっと連が強引だったら最後まで行っちゃってたかもしれなくて……。てことで、そうなると覚悟決めたかもしれなくて……』
 おもわず小声で答えた。全力で否定できない自分が呪わしい。
『ダメっすよ! マジで流されやすい子なんだから全く。俺がこの場でキスしても拒否できないんじゃないですか?』
『はああー?? 四宮くんに? ウケる〜〜ありえない〜〜』
『そんなこと言ってるけど、俺、結構巧いっすよ?』
『えっ』
 気付くと椅子を寄せ、すぐ傍に四宮の頬が近づいて来た。
 さっき彼が飲んでいた、コーヒーの香りが顔にかかった。
『し、しのみや……』
『嫌いじゃないすよ、夏原さんのこと。ね、俺にします?』
『えっえっでも、いや、でも、じゃなくて、何をバカなことを……!』
『夏原さんの彼氏に一番合うのは誰かな。俺だってイケてる方だと思うんですけどねえ。夏原さんの知らないコト、全部教えてあげますよ』
 しっ、知らないコトって、どんなコト?
 あんなコトくらいじゃなくて、もっと大胆なスゴイコト……アレとかコレとか使ってあんなカンジでえええ、ちょっと待って、そんな……「ご注文の品は以上でよろしかったでしょうか?」

「は、はいっ!」
 我に返った時、私の目の前にはアイスティーのタンブラーがドンと置かれ、運んで来た店員はもうすでにいなくなっていた。
 当然、見渡してみても四宮はまだ来ていない。待ち合わせ時間にはまだ少しある。


 い、いかん。最近、妄想の状態がよくない。
 相手が四宮だなんて、もう……誰かれ構わず見境無くなってきている……。



 15分遅れでやってきた四宮は、注文もせずに「会社行きましょうか」と私を促した。
 本当に、いつも通りの素っ気ない四宮だ。

 今朝は課長に携帯電話を返すため、会社の近くのカフェで四宮が来てくれるのを待っていた。
 いきなり辞めた翌朝に顔を出すのはちょっと気が引けるので、四宮が会社の入口まで課長を連れ出してくれることになっていた。

 これが現実、これが現実、これが現実、さっきのは……。

「夏原さんに惚れてんだなって思いますよ」
「はっ!???」
 四宮がなんだか妙に甘い顔つきで笑うので、道路の真ん中で立ち止まってしまった。
「何、何、何を言い出すっ!」
「気付かなかったんですよ、その時は。でも、惚れてなきゃあなたのこと心配したりしないし……」

 やばい、空想と現実の区別がつかなくなってきてる。
 末期だ。末期症状だ。
 こんなことになってしまった原因は、紘一が……上野紘一があまりにも冷た過ぎるから。
 冷たい態度を真正面から受け入れられない歪んだ私の精神構造が、自分自身を守ろうとして甘い妄想を作り出しているんだ!
 しかもよりによって、相手が四宮にまで及ぶなんてもう、ホント、自分を守ってるんだか崖下に突き落としてんだか、よくわからなくなってきたよ……。

「心配する、気になるってことは確実に『惚れてる』と……ん、夏原さん、聞いてます? もう、ボケッとした顔してー。ほら目の前、会社ですよ、シッカリしてくださいよー」
 いかにも不安気な顔で、四宮が私を見る。
「あ、は、は、あ、うん……」
「大丈夫かなあー」
 四宮の眉間にしわが寄る。
「課長の携帯出してください」
 彼が掌を突き出してきたので、私はカバンから八城課長の携帯電話を取り出して四宮に渡した。

「多分ねー」
 四宮は独り言を言うかのように、視線を合わせずに呟いた。
「課長は夏原さんを可愛がってましたから、今なら辞職願取り下げてくれます」
「そ、そうかな……でも……」
「そうっすよ、全部夏原さん次第なんですよ。彼氏とうまくやっていけるようになるのも、まずは仕事をちゃんとこなして、元気で頑張ってれば、なんだっていい方向へと向かうはずですから」

 四宮の言葉は意味不明だった。
 だから、私は呆然と聞いていた。

「夏原さんの彼、上野さんでしたっけ。……夏原さんが会社で頑張ってるか心配してますよ。ここは仕事投げ出して去りゆく彼を追うより、仕事頑張って彼に見直させる方向へ持っていった方がよくないですか?」

「上野さんて人、絶対夏原さんに惚れてますよ。まだ恋人同士に戻るチャンスはあります。もし夏原さんが課長の機嫌直してくれるなら、俺は夏原さんと彼氏の仲を修復してみせますよ」

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(3)
 彼氏との仲を修復……。
「四宮くん、紘一を知ってるの?」
「お会いしました。その上で、ああ、この人は夏原さんが好きなんだなと気付いたから言ってるんです」

 会った?
 そして、紘一が私を好きだと感じた?

「俺の言う通りしていれば、万事うまくいきますよ」
「四宮くん、大好き」
 私は恥ずかし気も無く、会社のビルの前で棒立ちになって四宮の顔を見つめ続けた。
「でしょうね」
 四宮は私の視線など完全にスルーだった。
「まず条件は復職、つまり課長に正式に謝ってください。でないと課長の機嫌が悪くて課内のムードも最悪なんです。それに正直みんな困惑してるし責任感じてる人多いです」
「あ……はい」
「あんな大人げないことする人いませんよ。ちゃんとみんなの気持ち考えて」
「はい……」
 返す言葉が無い。
 ……でも私は、あんまりみんなと仲良くしてもらえてなかったと思うんだけどなあ。
「ほら、課長降りてきましたよ」


 八城課長は仏頂面してビルから出て来た。
 狭いエントランスから出て立ち止まると、大袈裟にため息をついて私を睨んだ。

「これ」
 四宮は八城課長の携帯電話を、私に突きつけ、渡して来いと目で合図する。
 わかりましたよぅ。

 私は携帯電話を持って八城課長に近づき頭を下げた。
「あの、よくわからないんですけど、課長の携帯電話が間違って私の手元に……」
 八城課長は何も言わない。
 電話を差し出すと、若干の戸惑いを見せながら受け取ってくれた。
「あの、課長……」
 沈黙に押されて、なんとか切り出そうとしたけれど、その後また言葉を見失ってしまった。
 背後の四宮が、カツカツと靴音をさせて近寄って来るのがわかった。
「課長、夏原さん課長に引き留めてもらいたくて、無意識に携帯持ってでてしまったんですよ、許してやってください。ほら、本人も反省してますから」
 え、そういうことになるの?
「そうなのか?」
 いえ、違います……。

「あの、辞めたいと思ったのは嘘じゃな……」
「嘘っぽいくらい大人げないコトしてすみませんでしたって、さっきも僕に謝ってきたくらいですからねー」
「そうだったのか」
 いえ、違います……。

 ただ……。
「私なんか、いてもいなくても一緒かなと思ってたので……」


 課長は数秒してから、溜息をついた。
「悩みを相談する相手がいなかったのか」

 いえ、そういう深刻なことでもなかったんですけど……と反論しようとしたけれど、四宮が怖い目で私を見て来たので、黙って頷くことにした。
「なら、私に一言言ってくれれば……。配慮が足りなくて申し訳なかったな」
「い、い、い、いえ、いえ、そういう……」
「そうですよ、夏原さんより先に謝る必要ないですよ。さ、課長にちゃんと頭下げて、辞職願取り下げてくださいって言いなさい、ほら」
 四宮に肘でつつかれた。痛い。なんかムカつく。
「昨日の辞職願は、まだキャンセルできますか……?」
「うん、まだ私が持ってる。昨日は……夏原は休みにしてある」
「あ……そうですか……」
「事情はわかったから、今週は休んで来週から普通に出社して来なさい。みんなには私から伝えておく」
「す、みませんでした……ありがとうございます」

 深く頭を下げる私の横で、なぜか四宮も頭を下げていた。



「『休暇願』が通ってよかったすね」
 四宮が笑う。
 彼は私を駅まで送るように課長に言われたと言っていたが、多分、仕事が嫌でブラブラしたいだけのはずだ。

「あの携帯電話って、わざと四宮くんが課長から借りて来たとかじゃないよね……」
「借りて来た?……違う違う。課長はマジで気付いてないよ。全部俺一人の犯行です」
「もー……」
 私を会社に戻すキッカケにしては、強引すぎる手段だけど、四宮らしいと言えば、らしいかも。
「なんでそうまでして私を復職させたかったのよ」
 その問いに、四宮はうんざりした表情を浮かべた。
「職場のあんなギスギスした空気は耐えられないからっすよ。夏原さんほど鈍感なら楽でしょうけどー。ほら、いわゆる軟骨みたいな人でしょ、夏原さんは」
「ナンコツ?!」
「ギスギスしたもんのクッションになれる人。彼氏にも、そういうクッションが必要なんじゃないすかねえー」
「う……」

 褒められてるのかけなされてるのかわからない。
 でも、紘一との仲を修復してくれるって言うなら、それなら、なんだって我慢できる。


「で、夏原さんには、今から大切な相手と逢ってもらいたいんですよね」

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(4)
「柳井(やない)まおりさんです」
 そう言って四宮が紹介してくれたのは、50センチ四方のプラスチックの透明な箱に入った、木くずだった。
「え?」


 私は駅前にあるハムスターカフェ・輪舞曲(ロンド)に居た。
「これが、柳井……まおりさん……?」
 木くずがかすかにぽこぽこ動いている。どうやら彼女、その下で寝ているようだった。
 じっと見つめていてもどうしようもないので顔を上げると、四宮と仲良さそうに話す店員が私に微笑みかけた。
「まおりさん今ぁ、お昼寝の時間なので、ごめんなさーい」
「ええ、眠い時間でしょうね」
 そう応えるしかない。
 四宮はコソコソとその店員の耳元で何か話しては、笑っている。
「四宮くん、そこでイチャイチャしてないで、これどういうことか説明してよ」
「トラップですよ。いや、エサかな」
「トラップ(罠)?」
 四宮はニヤリと笑った。

「調べたところによると、上野紘一氏には妹がいるでしょう、最愛の妹が」
 ……。
 最愛なのかどうかわからないけど、確かに妹の美羽ちゃんはいますよ。
「その子をまおりさんでうまく釣るんですよ。こっちに協力してもらえるように情報を流してもらうとか。まおりさんの愛らしさはハムスター界でもトップクラス。誰でも一目で恋に落ちるはずですから、妹がまおりさんに会いたい一心で夏原さんに協力するのは必至です」

 四宮の意識はまおりさんより、この店員さんに釣られているようにしか見えないけれど、大丈夫だろうか。
「わたくし、まおりさんの通訳の、柳井まりで〜す。よろしくお願いしま〜す」
「あ、要するに所有者さんですか」
「違います。まおりさんはレジェンドなので通訳ナシでも成立するんですけどぉ、一応、『おなかすいたぁ〜』とか分かりやすく伝えてあげると、よりグッドなので妹さんのハート射止めるお手伝いをさせて頂きまぁーす」

 なんだろう……不安だ。
 巷に溢れる猫カフェとか動物を扱う店の店員とは全然違う系統のニオイがするけど、大丈夫だろうか。
 いや、その前に美羽ちゃんがまおりさんに夢中になるのか。
 夢中になったとして、聞き出すに値するような、強力な紘一攻略情報を持っているだろうか。

 それにもし、私が久芳連に毎日のように唇を奪われている状況を知っても、協力してくれるだろうか。
 キスだけで終わってなくて、素っ裸も見られているし、下着とか手際よく外されちゃったりしてるし、えっとその先は……あ、ちょっと記憶にモザイクかかって思い出せない……。
 危険なところに行く前に我に返って逃げる私を、連がもし強引に追いかけてくる男だったら、今頃もう連の彼女になっちゃってるよねぇ……。

 これで平気な顔して紘一が好きとか思ってる私って、やっぱり平和ボケした軟骨なんだろうか。

「あっ、まおりさんが顔をっ」
 上ずったような可愛いアニメキャラ声が、私の頭の上を駆けた。
 客が一斉にこちらを向く。
 この『柳井まり』って子に会いに来てるでしょ、どの人も。みんなハムスターなんか見て無いし。客みんな男だし!

 でも私は、まおりさんにちょっと興味がある。レジェンドらしいから。

 ぽそ、と木くず(正確にはウッドチップと言うらしい)から顔を出したまおりさんの、黒い瞳と小さな顔。


 か、可愛い〜〜〜〜。
 なにこのカワイさ。卑怯じゃない? 一瞬で人の身も心も持ってく卑劣極まりない、悪魔の毛玉だわ!
 言葉で的確に描写できないのは作者の不勉強のせいだけじゃないわよきっと。
「まおりさんは、ロボロフスキーの生後38日目になりますぅ〜」
 妖精でしょ? 優しい人にしか見えない森の精霊の間違いでしょ?


 こうして私は四宮にハムスターの可愛らしさを教えてもらった……のではなく、作戦の指揮を取ってもらい、上野紘一攻略への道を歩むことになったのであーる。



 でも、攻略どころの話ではなくなっていた。

 紘一の部屋に帰ってみると、リビングで横たわる紘一の姿を見つけた。
 昨夜敷いた布団にスーツ姿のままで眠っていて、強いタバコの臭いと、女性のつける香水の匂いをまとわせていた。

 どこかで嗅いだことのある香水だった。
 ああ、これは、昨日の朝乗せてもらったロールスロイスの中で吸い続けた空気。

 五条優姫(ごじょうゆき)さんのつけてた香水と一緒だ。

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(5)
 三島光一(みしまこういち)という人だって、五条さんの近くにいたから、同じようにこの香水の匂いを移されていたはずだったけど、こんなに強くは感じなかったなあ。
 それは単に外で会っていたからであって、家の中で異質な香りを感じると、強く匂っているように思えるだけなんだと思う。

 見た所、紘一の顔や首元には口紅の跡とか、……キスマークとか無いし、ちょっとシャツのボタンとネクタイは緩められているけど、ベルトも外さず着衣の乱れってやつはほとんどない。
 間近で見ても、匂い以外に五条さんの痕跡は無く、紘一の呼吸からはアルコールの匂いも無い。
 ただ嫌煙家の紘一の髪や服に染みついたタバコの臭いは、会社とは別の場所へ行っていた証拠だと思う。
 ずっと二人で、夜通し何をしてたんだろう。

『俺が誰と付き合おうと俺の勝手だろ。それとも何か、俺に彼女ができたら夏に紹介しなくちゃいけないのか?』
『ち、違うよ……違う……』
『バカ、また泣くのか』
『だって……。好きなんだもん、紘一がほかの誰かと付き合うなんて、考えたくない……』
 紘一は私の頭をクシャッとなでると、
『冗談だよ。ちゃんと夏っていう彼女がいるのに、浮気するほど暇じゃない。ていうより、俺はそういう酷いことを平気でするようなゲスな人間は、立場上許せないんでね』
と笑った。
『そうだよね、紘一はまだ私の彼氏だよね?』
『当たり前だろ。俺は夏の肌の匂いが一番好きなんだ……』
『えっ、ばかっ、まだそういう関係じゃ……』
『いつそういう関係になってくれるんだよ、今からでもいいか?』

「そ、そんな……いいよっ。いいけど……えっと今日の下着が……」
「下着がどうした?」

 気付くと心の声が外に漏れていて、目の前で眠っていたはずの紘一がパッチリ目を開けて私を見ていた。
 その顔と顔の距離が30センチほど。
 間近でじっと見つめられて思わずこっちも固まってしまった。
「夏、おまえは事件現場の鑑識か? 何でこんな近くでじっと観察してくれてんだよ」
「あ、ご、ごめん……」
「念仏でも唱えてたのか?」
 ね、念仏の中に『下着』って言葉は多分出てこないと思う。


 私は少し体を起こして、ふてくされ気味に呟いた。
「朝もいなかったよね。香水とタバコの匂いさせて昼帰りですか?」
 う、我ながらすごい女の子っぽい嫉妬の言葉を吐いてしまった。
 嫌だ、自分はこんなことくらいで動じないはずだったのに。
 彼氏の行動をチェックしてイライラするような女にはならないつもりだったのに。
 ていうか、もう細かい計画とかどうでもよくなってきた。
 いい加減、彼氏なのかそうじゃないのか、そこんとこハッキリさ………………

「夜通し接待だよ」
 ボソッと紘一は言ってから、目を閉じた。
 疲労が表情に浮かんでいた。

「五条商事との契約で、うちの長谷(はせ)部長がうまく折り合いつけられなくてさ。急きょ呼ばれて、なだめ役っていうか殆ど傍で見てただけ。酒すら一口も口にできない状態。三島もいたから嘘だと思うなら訊けばいいよ」

「あ、そうなんだ……。……お仕事デスカ……お疲れさまでした……」
「うん。寝ていい?」
「は、はい」
「夏」
「は、はい」
「火傷の具合は?」

 急に訊かれて、左の腕をカーディガン越しに触れた。
 ピリッとする感覚と、じんじんする感覚。でも昨夜よりは随分マシになった。脚の方は、腕より火傷の具合が軽かったから殆ど痛みは無い。
「大丈夫。もう痛くないよ」
「じゃあ、これ、いらないか?」
 紘一は半分目を開け、スーツの上着のポケットから小さな箱を取り出して、私の目の前に差し出した。その箱から察するに、チューブタイプの軟膏。火傷に効くという文字が外箱に刻まれている。
「…………ありがとう……」

 私の火傷なんて、ワセリンで十分だって言いながら、気にしてくれてたんだ。
 やっぱり、優しいじゃん。
 付き合えないと突き放してる私のことですら放っておけなかったのか。
 めんどくさいとか思いながら仕事帰りに薬局へ寄ってくれたんだろーな。
 ただ、ただ、普通に優しい人じゃん。

 なんでその優しさを無理に隠すのかな?

 私が紘一をクールだという固定観念で見てるから、照れくさくてできないのかな。
 それとも、ただ、私に好かれたくないから?
 これ以上まとわりつかれたくないから?

 教えてほしいよ。

「紘一、私はどうすれば彼女でいられるの?」

「嫌いじゃないって言ってくれたよね? 王子様だとか変な妄想とかやめれば、ちゃんと向き合ってくれるの? それとも、彼女になんてもう絶対になれないの?」

 私はもう一度紘一の顔の間近に寄り、その半分閉じかかった目を見つめた。
 彼の唇が薄く開く。
 また冷たい言葉で、私を笑うの?

 でも、その時の紘一は違っていた。
 掠れた声で呟いた。

「訊くけど、本当に俺なんかでいいの?」

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(6)
 上野紘一(うえのこういち)は疲れているせいか、柔らかい笑みを浮かべているように見えた。
 目はとろんと眠そうに垂れて、唇は相変わらず何か言いたげに開いている。
 本当に、ってどうして訊くの?
 私が誰にしようか迷ってると、そう思ってるの?

「紘一……」
「ん?」
「あの……」
 私は横たわる彼の顔に自分の顔を近づけた。
 結構、体勢はキツイけど、今ならキスできるかも。
 そうだよ、キスしてもらうばっかりじゃなくて、こっちから奪っちゃえばいいんだよ!

 でも、キスはできなかった。

 キスする前に、紘一の体の上に倒れ込んでいた。
 だって、
 彼が私の体を引き寄せたから。

 私の体重がドンッと彼の胸の上に落ちて、微かに息を吐く紘一。
「お、重いな」
「ご、ごめんっ!!」

 そっちから引き寄せたくせに! 引き寄せたくせにっ!!

 そのくせ、慌てて起きあがろうとする私を、なぜか離してくれない。
「こ、こういち……」
「ほら、がんばれ。俺は片腕だし、疲れてるし、眠いし、正直、力が出て無いからすぐ抜けられるはず」

 ジタバタ足掻いてみた。
 でも、口で言うほど軽い力で抑え込まれているようには思えない。

 結構、しっかり抱きしめられている。


 ふと気付いた。
 なんで逃げる必要がある?
 フォールを取られたって、痛くもかゆくもない、いやむしろそのシチュエーション、待ち望んでいたではないか!!!


 動きを止めた私に気付いた紘一は、ゆっくり腕の力を抜いた。
 少し体を浮かせると、そこには紘一の無抵抗な体が横たわっている。
 チャンス!
 大丈夫だよねっ、これは妄想の一部じゃないよね?

 だって、紘一が瞳をゆっくり瞬かせて、じっと私の目を見つめている。いつもは漆黒の物言わぬ瞳が、今は森の深い緑のような優しい色をしているように見える。気のせいかな。
『待ってるんだけど、するの? しないの?』
 そんな風に問われてる気がした。

 もう火傷の痛みなんて、蚊に刺されたくらいなもんで、感覚が飛んでいる。
 掌の中の薬の箱さえ握りつぶしてしまいそうなくらいに緊張している。
 少しずつ、まるで花の匂いでも嗅ぐように、紘一へと顔を寄せる。

 自分の体重を支える腕が震えている。
 決して怖いからじゃなくて、無理な姿勢で近寄るから。
 ああ、もどかしい。抱き着いてもいいかな。
 火傷をしていない右手は体を支え、左手はおずおずと紘一の髪から頬を撫でてみた。

 何も言わずにただ、私を見ている紘一。
 口の端が少し上がる。
『キスくらいでビビってんの?』
 そんな風に笑ってる気がする。

「夏……」
 その唇が、私の名前を呼んだ。
「紘一……」

 い、い、い、いっただきまーーーーーーす!!!!!


 コォォォォォーー。

 背後で異質な音がした。
 びっくりして振り返ると、洗面の奥から水の流れる音が聞えて来ているのだと知る。

 まさか………………。

 2秒後バタンという音がして、トイレから人が出てくる気配がした。
 思わず跳び上がって姿勢を直し、紘一の隣でトイレ方向に向かって正座。
「いやー、なんか腹の調子が悪い〜」


 く、久芳連(くぼうれん)と同居していることをすっかり忘れていた。


「あれ? 夏帰って来てたんだ。それにしても火傷した左脚、大丈夫なの? 正座なんかしちゃって……」
 近寄って来る連に不思議そうに言われ、なんだか急にすねから足の甲にかけての痛みがヒリヒリと戻ってきた。
「だ、だ、大丈夫なんだよ、もう平気なの」
 慌てて返事をすると、傍で寝ていた紘一が私と連に背中を向けるようにして、横を向いた。

 そして、さっきまでの柔らかい雰囲気とは打って変わった冷たい声を出す。

「そ、だから火傷なんてワセリンで治るんだよ。もう手当の必要無い。全部身の回りのこと自分でやらせろ。いや、それよりもう居座らせずに今すぐ家に帰したらどうだ」


 氷の矢が私の胸をグッサーと刺した。

「どうする? 夏」

 連までが、そんなことを!

「き………………」
 私は歯を食いしばって、お腹に力を入れて大きな声を出した。
「休暇は一週間ありますから、まだここにいます!」 
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(1)
 平日の真昼、私、夏原夏(かはらなつ)と、背中を向けて寝ている上野紘一(うえのこういち)と、不思議そうに佇む久芳連(くぼうれん)がそこに居た。
 一週間居座り宣言をした直後、紘一がボソッと呟いた。
「それじゃ美羽とおんなじだな」

「え、どうして?」
 驚いて聞き返しても、紘一は勿論、連までもが複雑な顔をして説明をしてくれない。
 私のしていることは、紘一へのストーキングですかっ!
 ちがうよ、違うはず。
 だって。
 さっきは、私のこと、引き寄せたくせに……。


 ちょうどその時、ポロロ、ポロロという電子音が微かに聞こえてきた。
 音に気づいた連が、思い出したように、棚にぽんと載せてあった携帯電話を取り上げた。
「はい、もしもしー」
 連は普通にリビングを出て通話を始めた。

 その様子を見ながら、疑問が頭をよぎる。
「あれ、連の携帯は確か……」
 美羽ちゃんが持ってて、しかも壊れてるはずだけど。

 そんな私の心の問いに答えるように、紘一が背中を向けたまま呟いた。
「今朝ドアポストに入ってたんだって。盗ったヤツが同じ機械を買ってSIMだけ差し替えたんだろ。本体に保存してる写真なんかのデータはなかったらしいからな」
 そこまで言って、ため息をつく。
「意味わかんねえし、気持ち悪いし、どんなアプリを仕込まれてるかわからないからいきなり使うのはやめとけって言ったんだ。……否定してるけど、どうせ犯人は美羽ってトコだろ」
「あ、そ、そうなの?」
 思わずドアの陰にいる連を二度見してしまった。
 連はどこまでも美羽ちゃんを庇ってるんだな……。

「夏が救わなければ連はこのまま美羽に押し切られるかも知れないな。いいのか? 連を不幸に突き落すことになるかもしれないぞ」
「ひ、ひどい言い方やめてよ。でも、救うってどうするの?」
「望み通りに彼女になってやれば?」
「…………」
 紘一の言葉がまたまた胸に突き刺さり、今度はザックリと割いて行った。


 私が紘一を好きだと知ってて、なんでそういうことが平気で言えるんだろうか。
 いや、それ以前に、私と連を付き合わせたかったら、徹底的に私を自分に寄せ付けなければいいじゃない。なのに中途半端に、思わせぶりな瞳で見たりして、あれ、私のこと好きなのかも、とか、もう私のこと受け入れてるんじゃないの、とか、それ以上に既に私と連のことで嫉妬してて、
『なんだよ、夏が煮え切らない態度してんのがムカつくんだ。悪いか』
『だって、紘一って近寄れないから』
『怯えて近寄って来ないくせに……もっとこっちへ』
『きゃあっ、紘一っ!…………』

「ていうか、連との付き合いの方が、俺より長いんだろ? そのまま付き合うのが自然だろ」

 私はボケッとした顔のまま、こちらを見つめる紘一と相対していた。
 いかん、妄想から覚めるまえに何か言われてもすぐ理解できない。

 紘一は言った。
「俺としては、連が不幸になるのは耐えがたい」

「じゃ、じゃあ、私なら不幸になっても構わないって言うのっ!」
 思わず反論した。でも更なる正論を受ける。
「連と付き合っても、不幸にはならないだろ」
「そ、そ、それは……」
 確かにそうだけど。

「違うよ。紘一と一緒に居られないことが、不幸なの」


 紘一は黙り込んで目元を顰めると、どこか恨めしそうに私を見つめた。

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(2)
「ごめーん!」
 急に明るい声がして連が電話を終えて私たちのところへ戻ってきた。
「兄貴から電話だった。近くまで来たから、ここに寄るってきかなくてさ。顔だけ見たらすぐ追い返すから」
 連の言葉に、紘一がむっくりと起きあがった。
「いいよ、気にしないでゆっくりしてってもらえよ」
「だめだめ、あの人、普段ものすごくハイテンションだから、紘一の一番嫌いなタイプだよ」
 連は笑って言った。


 連のお兄さんの久芳賢(くぼうけん)。
 実は私は見かけたことはあるけど、またお会いしたことはない。
 何を隠そう、昔は巡査、今は地方の署の内勤をやってるという、立派な警察関係者。
 その巡査時代には、紘一との接点もあったと、三島光一(みしまこういち)は言ってたけど……。


 連は、私を見て付け足す。
「しかも、美人に目が無いから、夏を見たら惚れちゃうかも」
「えっ」
 私は美人と言われて、ちょっと嬉し気な反応をしてしまった。
 しかし、すぐに紘一と目が合って、笑えなくなった。
「夏、喜んでるのか。もしかして、好きになってもらえるなら誰でもいいのか」
「違う違う違うーーーっ」
 弁解しようとしたその時、玄関のチャイムが静かに響いた。



「やば。もう来ちゃったよー」
 連が苦笑しながら玄関へ行く。
 私もソロソロと立ちあがり彼の後をついていった。
 複雑な表情の紘一も同じく私の隣を歩く。

 ん、この距離。
 紘一の左腕が私の右肩にピッタリ寄せられてるような気が……。
 今まで一緒に歩いてた時より一番近い。そりゃ家の中だからだろうけど。

 もしかして、私、雄ライオンのテリトリー内のメスと化してない?
 ほかの雄から守ろうとされてない???
 か、考えすぎ?
 ……かもしれないけど、思わず顔がにやける。


 連がドアを開けると、そこにはガッチリとした体格の、大柄な男性が立っていた。
「よおお、ひさしぶり〜!」
 どうぞおはいり下さいも言ってないのに、扉を開けられた瞬間に、両手を上げて中に入ろうとする。
「ま、待て兄貴!」
 連が必死で兄の体を外へ押し戻そうとするが、兄に連れがいるのを知ると、その力がふと抜けたようだった。
「あ、あれ? 一人で来たんじゃなかったの?」
 心なしか声が震えている。

 私も紘一も、連の後ろに立っていたので、デカいお兄さんの隣に誰がいるかまでは確認できなかった。
 連のお兄さんが説明する。
「うん、さっき電話した時までは一人だったんだけどな、マンションの前でこの人に会って、仲良くなったんだよー!」

 マンションの前で会っただけで、すぐ仲良くなった? この超短時間で?
 私は連の『社交性』や『良い人度合』よりも、さらに上を行くタイプの人間がいるとは考えられなかったが、実際はいた、ということになる。
「お前の知り合いだろ、連」
「え、う、うん……」

 連がじりじりと後ずさりして、私と紘一を部屋へと押し戻す。
 あれほど玄関で追い返すと言っていた連が、後退してくるとは思いもよらなかった。
 紘一が一歩連の前に出て「はぁ?!」と声を上げた。
「美羽、なんでおまえここにいる!」

 賢の隣に立っていたのは、紘一の妹の上野美羽(うえのみわ)だった。

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(3)
「なんでって言われても、このお兄さんが、上野&久芳の部屋の郵便受けを見てる風だったから、声かけたのよ」
 美羽ちゃんはしれっとした顔で答えた。
 久芳賢は、
「そ、で、連の友達だって言うから連れて来たんだよ。偶然、こんな美人に会えるなんて俺は今日はラッキーだよー」
と、上機嫌だった。

 ただ、その美人がマンションの近くにいるのは、決して珍しくはなく、偶然会えたと思うのは間違いなんだけど、そこは訂正すると話がややこしくなる。なにしろ犯罪が絡んでくるわけだから。


「上野です」
 紘一は賢さんに向き合って、軽く会釈をしてから、
「こいつ俺の妹ですが、絶縁中なので部屋の中へは入れられません。久芳さんだけどうぞ」
と、真顔で応対していた。
 しかし、美羽ちゃんはズカズカと部屋に入って来ようとした。
「絶縁とかしてないじゃん! 例えお兄ちゃんがどう言おうと、私は連に逢いに来たんだからいいのよ! 嫌ならお兄ちゃんが部屋を出て行けば?」

 一触即発の兄妹の睨み合いの間に入った、久芳兄弟は、
「「まぁ、まぁ、まぁ」」
と声を揃えて、二人を宥めていた。


「兄妹と兄弟で、どう、仲良く花見に行かないかな! そこもここも満開だよ! 平日の昼だし、オヤジも少な目で気持ちいいよ!!」
 賢さんが豪快に笑って、連を部屋の外に引きずりだした。

 いやいや、一番オヤジのあなたが言うかな、と私は思ったが、連と紘一は彼についていくようだった。
「行くの紘一? 意外……」
「夏は部屋にいろ。幸い存在に気付かれてない」
 紘一は小声で私に言った。
「俺は美羽がいる限り、こいつらの動向を監視せざるをえない」
 ものすごい責任感を背負っているみたいだった。

「でも、紘一が行くなら私も行きたい。一緒にお花見したい!」
「バッカ、能天気だな」

 こうして、私を含めた5人がぞろぞろと春の公園に向かって歩き出した。

「おお!! そこの彼女は上野くんの奥さん? これまた美人だねええ!」
 賢さんがついに最後尾の私に気付いて大声を上げた。
「奥さんて!」
 連が慌てて訂正する。
 すると美羽ちゃんが「未来の奥さんよね」と、ちょっと嬉しい事を言う。にへらにへら。
「笑うな」
 紘一に一喝され、私は表情を強張らせて黙って後ろをついていくことにした。

「いやー、それにしても小さい頃は知ってるけど、上野くんはまっすぐイケメンに育ったねえ! 妹さんも美人だし、彼女さんも美人だし、ここ俺たち兄弟も入れて美男美女率高くねえ!?」
「そ、そんな恥ずかしい事言うなよっ」
 連が小さい声で言い返す。

「しばらく地方にいてね。もう何年ぶりかでこっちに帰って来れたんで、嬉しくって連にすぐ電話したんだよ! 引っ越し先が前の部屋と近くてわかりやすかったわ!」
 ハイテンションを維持したまま、賢さんは大声で、紘一に向かって言った。
「あはは、上野くんには迷惑でしかないか! 休んでるところいきなり押し掛けて、その上、強引に付き合わせて悪いねえー!」

 紘一は笑いながら、
「確かにドア開けた瞬間の勢いは、口のきけるゾンビかと思いました」
と毒づいていた。
 しかしそんな事を言われても、気の良い久芳家の長男らしく、賢さんは豪快に笑っていた。
「上野くんの口の悪さは変わって無いなー」
「生まれつきは治りませんよ」

 紘一の表情を見ていると、懐かしいとか久しぶりという感じはなく、多分連のお兄さんの事はあまり記憶に無いのだと思う。
 それでもあれだけの悪態をつくことができるということは、悪気は無い、のかもしれない。
 とはいえ、まったく、対人関係を構築できない理由がわかるってものよ。
 だからこそ、久芳兄弟のような、おおらか系の人としか付き合えないんだわ。


 ん?
 ちょっと待て、それじゃ、私は?
 イチイチ傷ついてちゃだめっていうか、今までの紘一の冷たい言葉も、特に気にする必要なかったのかな。

 紘一を攻略する方法が、なんとなく、うっすら…………見えて来た気がする。

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(4)
 久芳兄弟、上野兄妹と私という、5人が辿り着いた桜の公園は、昨日行ったピザマンショーとは反対方向だった。大きな池もあり、展望台もあり、完全に観光用に植樹された桜が見られる場所だった、
 平日の昼間であろうが、人は溢れていた。
 これこそがお花見。酒に酔った奇声も聞えてくる。

「案外オヤジ多いなあ……」
 久芳連(くぼうれん)の兄、賢(けん)は人の多さにぼやいていた。
 きっと会社を引退したオジサマ方は、昼間はヒマなのだろう。
 むしろ若い世代が、こんなところで遊んでいる方がおかしいのだ。

 そんな賑やかな場所で、どこか空いているスペースを探していた時、上野紘一が「あ」と呟いた。
 私は傍にいたので、その小さな声を聞き洩らさなかった。
「どうかしたの?」
「いや、めんどくさい事になったな」
 紘一が視線で指す方向を見てみると、知っている人間がいた。

「あ! 三島さんと、……えっと、五条さん……五条優姫(ごじょうゆき)さん?」
「優姫さん知ってるのか? まあいいや。あと五条の社長と、うちの長谷(はせ)部長もいる。まずいな、解散したはずなのに、まだ接待続いてんのか。見つかりたくないな」
 そういう時ほど、相手の視線にしっかり捕まってしまうもので、紘一も案の定、女性の上司らしい人に名前を呼ばれた。

 かわいそうに。
 そう思っていたら、紘一が私の右手を掴んで引っ張って、上司たちの元へと連れて行く。

 えっ、えっ、これは恋人アピールの手つなぎ? それとも連行して晒し者?
 私と紘一は、久芳兄弟と美羽ちゃんの3人とは別行動になってしまった。


 なにかしら上司が赤い顔をしてわめいていると思っていたら、どうやら私の存在に怒り心頭の様子なのだとわかった。
「手を繋いでるその子は誰! ちょっとは自分の立場を考えなさい!」

 周囲が騒然としているので、少しくらい上司が騒いだところで目立ちはしない。
 傍に居た五条社長らしきシニアの男性は、まだ樹にもたれかかって眠っている。
 そして五条優姫さんも、ビニールシートの上で座って眠っている様子だった。
 なんと、体半分は完全に三島光一(みしまこういち)に預けられ、幸せそうな顔で熟睡している。

 その三島さんは紘一と私を見て、何とも言えない苦い顔をしていた。

 紘一は、桜の樹の下の酔っ払い4人の前で立ち止まると、繋いだ手を離した。
「お疲れさまです」
「ちょっとコッチ来なさい!」
 ヒステリックに叫ぶ上司の足元は、お酒のせいでフラフラしている。
 ちょっと太り気味の丸みを帯びた上半身を細い脚が支えているので、パッと見、ラディッシュにつまようじを挿して立たせているように見えた。

 私をそのままにして、紘一は上司の元へと靴を脱いでシートを上がっていった。
 上司になんだかんだ言われている様子を、三島さんが振り返ってじっと見つめていた。しかし、ものの10秒ほどで振り返ると、私の顔を見上げて苦い顔のまま言うのだ。
「だからね……上野君と一緒に居ても、幸せにはなれませんよ?」
「ど、どういう意味ですかっ」
「理由は昨日言ったでしょう。性格が合わないんだから、ここは諦めて久芳連にしておくのがベストです」

 私は悔しかった。
「そんなの、わからないじゃないですか……」

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(5)
「そうです。そんなの勝手に決めないでください」

 突如、私の意見に賛成してくれる人の声がした。
「自由にさせてください……」
 三島さんの肩に頭を置いたまま、寝入っているはずの人の口からだった。

 三島さんは、その五条優姫さんの言葉を聞いて、思わず彼女の顔を覗き込んでいた。
 優姫さんはゆっくりと目を開けて、そのまま三島さんと至近距離で見つめ合っている。

 やばい、これは、完全の恋人同士のムード。
 私がここにいるのは、超オジャマ状態じゃないかぁぁっ!
 そうだったの? やっぱり三島さんと優姫さんてそういう関係だったの!!!

「私は、ずっと、ずっと、ずーっと、三島さんに担当しててほしい!」
 あの奥ゆかしい雰囲気の優姫さんらしからぬ大きな声で、はっきり相手に訴えかけた。
 その言葉を受けて、三島さんは眉間に皺を寄せたままだ。
 ただ、具合の悪い事に、その声が紘一や上司や社長の耳にまで届いてしまったから、大問題になってしまったようだった。

 三島さんは優姫さんの体をそっと起こして距離を取り、相対していた。
 そこへ、ラディッシュ上司と社長と紘一がやって来て、二人を問いただす様な目で見つめた。
「まさかの三島君、業務命令を無視する気? あなたは支社勤務なのよっ!」
 上司は、紘一に向けていた怒りを、今度は三島さんに向けている。
 しかし、それに返答したのは三島さんではなく、優姫さんだった。
「三島さんは関係ありません! これは私の気持ちです! 陰気で配慮もなく、会話にウィットの欠片もない上野さんより、三島さんの方が断然素敵。担当してほしいのは三島さんだけ。結婚するのも三島さんじゃないと嫌です!」

 酔った勢いというのは恐ろしいもの。
 まだ顔の赤い優姫さんは、本当に自分の発言に責任が持てるのかしらと心配するくらいハッキリ意見を言い、ついでに上野紘一をディスっていた。
 しかし、言われた紘一より、上司や三島さんの方が顔面蒼白になっていた。

 なんだかわからないけど、これ、なんか仕事と関係のある話だよね。
 ただの恋愛話じゃないみたいだよねっ。
 紘一と優姫さんて、会社がらみで婚約でもさせられそうな感じだったのかな…………。

 もう、なんで、私をこんな場所に連れてくるのよお〜〜〜。


 沈黙が流れる中、紘一が口を開いた。
「私は帰ります。皆さんで後は宜しく対処をお願いします。何か変更があるようでしたらまたご連絡ください」
 ほかの誰もが返事する間もないうちに、紘一はスタスタとシートを出て来た。
 そして当たり前のように私の右手を取って、もと来た道を帰っていく。



「わけわかんないだろ、わかんなくていいから」
 歩きながら、紘一がボソリと言った。
「じゃあ、どうしてあの場に私を連れて行ったの?」
「それは……」
 一瞬、間があったので私は期待して、紘一の言葉を待っていた。

「溺れる者は藁をも掴むってヤツだな」
「ええ?」
 意味がわからんぞっ!

 職場の人に呼ばれて、焦って私の手を掴んじゃったってことかな。
 つまんないなー。私は藁だったのか。

「でも、女の人は強いね」
 紘一が、自分を扱(こ)き下ろした優姫さんを褒めていた。
「酔いが醒めた時、大変だろうけど」
 そう言って笑う紘一の横顔を見て、私は思わず頬が熱くなるのを感じた。
 酷い事を言われても、どんなことがあっても、いつも動じない静かな人。


 体の中の血が全部、この人を好きだと言ってる気がした。
 心臓は、この人のために動いているような気がした。


「おい、夏」
「はい」
「顔が真っ赤だけど倒れんなよ? 一旦座るか?」
「……大丈夫」
「酒はまだ飲んで無いよな。またいつものアレか?」


 私は、さっきの優姫さんが三島さんにべったり甘えていたシーンを想い出していた。

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(6)
 そのまま私と紘一は公園を回ったけれど、久芳兄弟プラス美羽ちゃんを見つけることができなかった。
「どこいったんだ、あいつら。携帯も出ないし」
 紘一は立ち止まり、時計を見ながら言った。
「2時半だな、メシどうする? まだ食ってないだろ。俺は腹減って無いけど」
「自分の分だけなら、帰って作ろうかな」
「え、昨日火傷したくせに?」
「……う、大丈夫だよ」
「湯を沸かすだけで火傷したくせに?」
 あいかわらず、淡々と質問を返すが、内容はかなり辛辣。

 じゃあ、帰るか、と紘一は言った。
「これだけ探しても見つからないんだからしょうがない。帰ってさっさと寝たいし」
「うん」
 頷きながら、私はぼんやりと、
<部屋に二人きりの状態でも普通に寝れるんだなあ>
と考えていた。


 帰宅して、リビングに敷いた自分の布団の上であぐらをかいていた紘一は、部屋に散らかったゴミを拾い集めていた私を目で追っていた。
「掃除しなくていいよ。連がやるだろ、綺麗好きだし」
「私だって掃除くらい……」
 ていうか、連は紘一の奥さん扱いなのね。

 紘一はふう、とため息をついた。
「夏はマジで一週間ここにいるのか? 男2人の部屋に」

 私は拾い集めていたものを、ゆっくりと床に置いた。

 男2人の部屋というより、よく考えてみて! 今が二人っきりだという事実を!!
「帰れないもん。中途半端で納得できないから」
「『俺と付き合って下さい』以外の答えじゃ、帰る気ないだろ?」
「う、……」
 うん、まあ。
 それが一番理想かなあ。

 ただ、説得力のある答えを出してくれたら『少し時間を置こう』でも、『もうほかに好きな子がいるから、ごめん』でも、納得できないわけじゃないよ。



「じゃあ、はっきり言うけどさ」
 紘一は立ち上がり、私の傍へやってきた。思わず、その綺麗な顔を見上げる。
「本社勤務が決まった時に、その勤務に関する条件が明示されてた。将来、五条商事をうちの傘下にするために婿養子に入ること……って」

 部屋の中は窓の外の光がカーテン越しに漏れ入って来る程度で、うっすら暗い。春の曇り空では、広いリビングを隅々まで照らすほどの明るさはなかったから。
 そんな部屋の中では、紘一の顔も少し寂し気に見える。

「その頃、夏と付き合ってたけど、俺はその条件に反発はしなかった。今時、社命で人と付き合うなんて信じられないだろうけど、そういうこと考えるの、うちの上司は好きなんだよな。子供っぽいんだ」
「あの、怒ってた人……」
「そう、長谷部長ね。会長の娘だからやりたい放題さ」

 紘一がなぜか、必要以上に壁際の私に覆いかぶさるように近づいて来た。
「今日の感じじゃ優姫さんにフラれたみたいで、業務命令遂行できずって感じだな。まあ、俺も嫌だったから、強引に夏をあの場に連れて行ったのかもしれない」

 溺れる者は藁をも掴む。
 紘一は本社の仕事……優姫さんと付き合うことから逃れたくて、私の手を掴んだのかな。

「とはいえ、支社でやってた仕事から解放されたくて、俺はそういう条件付きの本社勤務でも受け入れた。そんな男で、夏はいいのか? これから先も、仕事が1番で彼女の事は2番とか3番とかになる」


 だけどさあ……。
 昨日は携帯の通じない私を心配して探し回ってくれたでしょ? あれは、仕事を放りだして来てくれたんじゃなかったのかな。

 私を見つめる紘一の目に、なんとかわかってもらおうと訴えた。

「何番でもいいよ。私は紘一のこと1番に考えてるから大丈夫……。我慢だって慣れてるし、っていうか全然平気だし、待ってることだって幸せでね……ほら、妄想癖あるから傍にいてくれなくても、紘一のことはいつも傍に……感じてて……私は……」

 最後まで言おうとしたけれど、勝手に涙が出てきて、続けられなくなった。
 なんでだろ、あれ、なんで涙が出るのかな。
 何よりも紘一のことを失くしたくないって、必死になってるだけなのに、泣いてしまったら逆効果。

 紘一の事を、私は誰よりもわかってるの。すぐに泣くと、嫌われてしまうことも知ってるの。
 ただ、必死になればなるほど、紘一は私を嫌いになってしまうような不安がいっぱいで……。


 ぼやけた視界の中、紘一の手が近づいてくるのがわかった。

 彼の冷たい指はそっと、この頬にこぼれる涙をぬぐってくれた。


Part4 第3話に続く≫  
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