M of L - 夏さんの、恋する意義 -

【あらすじと目次】

●あらすじ●

若いとは言えない26歳の夏原夏は恋をした。完全なる一目惚れで主導権は常に相手の上野紘一が握っている。
それでも食らいついて来た8ヶ月後、エンディングを迎えることになる。ええ? 始まって早々エンディング?
叩きつけられたエンディングをものともせずに突き進む夏さんの恋は、どこまで成長していくのか。
20代後半だろうが、妄想癖があろうが、つい応援せずにはいられないオトボケ主人公は、今日も迷惑を振りまいていく。
1話(6節〜8節)7500〜10000字程度、長編。

 

●目次●

Part 1 ; Look at me !
  第1話 私の彼は   /  第2話 俺の彼女は  /  第3話 彼のセリフ  /  第4話 彼女の妄想
Part 2 ; I miss you ...
  第1話 彼の行方は  /  第2話 私の彼女は  /  第3話 彼女の彼は  /  第4話 俺の周りの人間は
Part 3 ; I need you !!
  第1話 四月は始まった / 第2話 遊園地へGO! /  第3話 六人の思惑  /  第4話 痛み止めのキス
Part 4 ; I'll hold you !!
  第1話 ホンモノは誰だ   /  第2話 君を想うゆゑに  /  第3話 恋   /  第4話 彼の気持ち

スピンオフ企画
  バレンタイン・トラップ   /

 

(1)
 去年の初め、夏原夏(かはら・なつ)と出逢う半年ほど前の話だ。
 当時も当然ながらHR特別部所属の俺は、課長から、本社への報告担当者に任命された。何のことは無い、月に一度本社の定例会議に出席していればいいだけだ。
「上野君は本社勤務希望だろう? 今から顔を出して色んな人とコネを作っておくといいよ」
 長谷課長はそう言って笑ったが、その言葉は100%好意では無いと気付いていた。
 今まで長谷課長が担当していた月一報告に、何の前触れもなく俺を任命してくるなど、不自然すぎる。社員の後ろ暗い部分を一々論(あげつら)うのが仕事のHR特別部の職員を甘く見てもらっては困る。裏に何かあると本能的にわかるのだ。

 課長のご指名の真意がわかったのは、実際に本社に出向いてからだった。


 会議の席で隣に座った、体格のいい柔和な顔つきの男が、俺に声を掛けて来た。
「君、長谷課長のトコの上野君だろ?」
「ええ、そうですが」
 社員証をぶら下げているわけでもないのに、そんなふうに馴れ馴れしく声をかけられ、やや不機嫌に対応する。
「失礼、自分、三島(みしま)。君のことはとにかく有名だから知ってる。……有能だから、いや、全社員の羨望の的だからと言うべきかなあ〜」
 どう言い替えようようと構わないが、よくもそんな適当な言葉がぽろぽろと口から出るものだなと感心する。あと、にやにやした笑いも見ていて不快だ。
「君はもう部長に挨拶した? してないの? ヤバいよ? ソク挨拶に行かなきゃダメだよ」
 そんな事を耳打ちされた。三島の視線が、部長を指している。
 ホワイトボードの前で両脚を肩幅以上に広げて立つ。えんじ色というよりは赤に近い色のスーツを着て、資料を片手に大声で読み上げる。見た目、ラディッシュが仁王立ちしている雰囲気だ。胸を逸らせ、腹から声を出しているせいで、会議室にわんわんとその人の声が響く。
「長谷課長の奥さんだよ。ほら、うちは大企業って言われてるけど元々は同族経営だからね。創業者の会長の孫は、若くても部長。何をしようが、何を言おうが、誰も逆らわないよ。君も彼女に好かれれば本社に来れるかもしれないよ、嫌なんだろ? 今の支社での仕事」
 なんだかよく分からないが、やたらと事情通な男だった。
 めんどくさいが、上司の奥さんとなれば挨拶しないわけにはいかない。

 そして、その日以来、俺と長谷朝海(はせ・あさみ)との忌まわしい関係が始まる。
 若くて有能なイケメン、それが長谷朝海の大好物だそうだ。
 彼女の従順な下僕である夫(婿養子)によって、俺は、生贄にされた。

 月に一度、本社に出向くたび、朝海に無意味な残業を強いられる。
 無人になった社内で彼女は、自分の席の近くの床に俺を正座させる。
「偉いわねえ、上野君」
 猫なで声が頭の上から下りてくる。

 多分誰もがこの事実を知っているはずなのに、誰も助けに入ってくれない。
 深夜まで彼女と二人きり。密儀は彼女が疲れ果てるまで終わらない。

 その後、夏と付き合うことになってしまってからも、その状況はしばらく変わらなかった。
 夏には申し訳ないけれど、この時期、恋愛や女性に対してポジティブに向き合う気にはなれなかった。

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(2)
 ある日の夜中も、俺は床に正座させられて、頭に手を置かれていた。
 週末で夏のデートのお誘いメールが何通か着ていたが、それどころではない。この部長のお相手が終わったら、タクシーで帰ってソッコー寝る。
「上野君、このまま本社勤務なんてどう? ちゃんとしたポスト用意してあげるわよ」
 ぽんぽんと頭を叩かれ、俺は無言で床を見つめていた。
「下を向いてないで、私の方を見て?」
 朝海はわざと俺の目の前に来る。ゆっくりとハイヒールを脱いで床に直に座ると、ミニのタイトスカートでわざとらしく脚を開いて座る。中身が丸見えだ。白いパンツの真ん中に、黒い模様。
 いや、見ない。見たら朝海の思うつぼだ。しかし、つい、好奇心に勝てずにその黒いプリントへと目が行く。

 クワガタムシ。


 なかなかデカい。


「……今、笑ったわね」
「……いえ」
「ダメよ!!!」
 朝海は持ち前の声量で一喝する。
「いい、上野紘一、あなたは、絶対に私の前で一言も喋っちゃだめなのよ! ほら、見なさい! クワガタはクワガタでも黒いダイヤ、オオクワガタよ!!! ひれ伏しなさい!!」
 俺は苦しくなって思わず目を瞑った。


 ただただ戸惑う。長谷朝海(はせ・あさみ)は毎回、パンツにプリントをしてくるのだ。それを俺に見せつけて、何がしたいのだろう。課長も嫁のパンツくらい見てやれよ。
「次は……ブラのストラップを見なさいっ!! ほらぁ!!!西日本と東日本で発光のパターンが違う、ゲンジボタルよ!!!東の方がのんびり屋さんなのよっ!!」

 朝海はそうして、下着のあちこちにプリントされたものをチラッと見せては狂喜乱舞している。
 年末に6時間ほどぶっ続けで放送している特番の如く、笑う事が許されない状況だった。
 呼吸を止めて食いしばっていると、だんだんと気分が悪くなって来る。

 朝海がようやく口を閉じた頃には、ほぼ下着姿だった。あまりの激しい口上に肩で息をしている。
 彼女は黙っていれば普通に綺麗な人だと思うが、残念ながらこの趣味に没頭している最中は、露出狂の女芸人にしか見えない。下着姿で目の前に立たれても、体そのものより、その下着のプリントにしか目が行かない。
「上野紘一、あなた、HRSの為に生まれて来たような性格なんですってね?」
 入社時にそんなようなことを言われたな、あんたの夫に。
「私はそういう冷徹で温かみのカケラも無い機械のような少年を徹底的にいたぶって、私だけのカワイイM男クンに変えるのが楽しみなの!」
「…………」
 どこを見ているのか、全く見えてないのか、分からないが、俺は少年では無い。
 そういうプレイなら、然るべき場所で金を払って楽しめ。てか、M男なら長谷課長で十分じゃないか。
 俺の目をみていた朝海は恍惚の表情を浮かべて高笑いする。
「そうよーーっ。その目! そのキラキラしたクールな目が大好き! でも、今この私が、絶望するほどの『笑い』でその美しさを歪ませてみせるから!!!」
「あ?……まだ……?」
「お黙りなさいって言ってるでしょう!!!」

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(3)
 朝海をここまで歪ませたのは一体何なんだろうと思う。
 そして俺はいつまでこの仕打ちに耐えなければならないのか。
「私の脚にキスしなさい!!!」
 座っている俺の前に立ち、朝海は脚を突き出す。わざわざハイヒールを履きなおしているということは、靴にキスしろということか。そのハイヒールの先端にはテントウムシのシールが貼られていた。

 しばし考えた。
 なんで俺はこういうことにずっと耐えて来たか。
 問題を起こすことはHR特別部職員として、本意でないからだ。静かにしていれば、そのうちなんとかなる。俺が何もしなければ、しびれを切らして周囲が変わってゆく。
 こうして下着を見せつけられているだけなら、まだ構わないと思っていた。我慢していれば時間は過ぎる。
 が、キスしろというのは俺の方から動けということだよな?
 ……そうか。
 そろそろわかってもらわないといけないな。


「ンニャ!!!」
 目の前の朝海が、ポテンと床に尻もちをついた。差し出された脚を俺が引っ張り上げたせいだ。
 床に倒れて大きく目を見開いている朝海の体の上にまたがり、彼女の顔に自分の顔を近づけた。
「上野! どういうつもり!! 早く……」
「わかってます。キスでしょう?」
「えっ……」
 目障りに動く彼女の両手を掴んで、床に押し付けた。
「唇、もらっていいんですよね」
 俺が至近距離で朝海を睨むと、彼女の視線はカチッとロックされた。
「…………うっ……」
「命令しないんですか、部長」
 朝海は唇が触れ合いそうになっているのを感じて、言葉を発することができないようだった。痛くすると可哀そうなので、掴んでいた両手をすぐ放してやったが、もう動こうとしなかった。
「ああ、唇じゃ嫌なのかな……クツですか? 脚ですか?」
 俺は顔を離し、すっと体を起こして、彼女を見下ろした。
 朝海は俺の顔を凝視したまま、左右に首を振っている。
 まるで、子供がいやいやをするように、瞳がうるみ出した。
「う……上野っ……」
「はい」
 自分でも気付かぬうちに笑みを浮かべていた。
「どうしたんですか、部長。そんな泣きそうな顔しても、ダメですよ」
 真上から数秒間、じっと見ていた。彼女は顔を赤らめているだけで何も言えないでいる。
 この俺の目の高さと、床で視線を受けている朝海との間の較差(かくさ)に、全ては表されている。
「部長、いいですか? これからは私の言う通り、いい子にして下さい」
 いい子にしていれば?
 そんな風に朝海の目が問うのを、軽く無視して跪(ひざまず)き、彼女に顔を寄せた。耳にそっと囁いておく。
「わかりますね? 今後、命令するのは、私です」


 その時、人の足音がした。
 深夜のビル、もう誰も残ってはいないと思っていた。そのフロアに、背の高い細身の男の影が動く。彼は警備会社のユニフォームを着ていた。
 朝海が下着姿で床に寝ており、俺はその傍で彼女に顔を近づけていた。
 まっすぐ半裸の女性を見ながら、男はやってくる。……まずい。会社のフロアでこの状態だと、レイプ未遂を疑われても言い逃れができない。

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(4)
 仕方なく起きあがり、朝海の傍で警備員の対応を待っていると、相手はのんびりとした声を出した。
「あのー、すみません、ビルのセキュリティ会社の者ですが、いかがなされましたか?」
 まだ全身の力が抜けたように横たわっている朝海に、腰を落として尋ねている。
 よくわからないが、緊迫感は無い。
「気分悪いんですよね?」
 警備員は、何か同情的な表情を浮かべて俺と朝海を見つめた。そして床に散乱している彼女の服を拾って、言葉を発することもできない朝海に手渡した。
 呆然とする朝海に、彼は続けた。
「どうしました? 早く着た方がいいですよ。空調も切れてますし、寒いでしょう?」
 確かにそろそろ冬が近づいているせいで、昼間は暖かくても夜中は冷える。朝海も、黄色の糸で『イッテK』と刺繍した腹巻を着けていたくらいだから、寒かったのだろう。腹巻にまでギャグを仕込んでいるのだが、警備員はそれを見ても、クスリとも笑わない。
「管理職の方なら全部の鍵を持ってらっしゃるとは思うのですが、今後は当社の方で全面的に建物を管理させて頂くことになってまして……長谷部長も、ご存知ですよね」
「……う、あ、ええ」
「とりあえず、今日はビルの清掃業者も来ますので、まだご気分が悪いようでしたらこのまま寝て頂いていても構わないんですが、途中で騒音が入るか……」
「いえっ、もう、もう帰ります! 上野君、あなたもサッサと帰んなさい!」
 朝海は慌てて上着を着こみ荷物を持ってフロアを飛び出して行った。
 警備員は、彼女の後姿を見てから、俺の顔を見てニヤッと笑った。
 彼の名は久芳連(くぼう・れん)という。

 実を言うと、一目見た時からこの警備員が、久芳連だということに気付いていた。
 しかし、俺たちが知り合いかというとそうでは無い。
 このダサい警備員のユニフォームを着ていても、モデルのように決まる男はそうそういない。たった一度写真で見ただけの相手だとしても、忘れるはずがなかった。

「長谷部長、マジ困った人だよねえ。あなただけじゃないんだよ、被害に遭ってる男子社員は」
 朝海の姿が消えてから、連はニコッと笑った。
 自分の顔より少し高い位置に連の顔があった。男でも見惚れる顔だ。深夜だっていうのに、髭一本見当たらない。
「……わかってて、助けに来てくれたのか。ありがとう……」
 俺は視線を連の胸に移動させた。久芳連という名の入った社員証がはめ込んである。セキュリティー会社だけに、個人の確認は重要らしい。写真のほかに、名前や年齢、所属、資格などしっかり印刷されている。
「失礼しました久芳連です……」
 連は関係性を思い出したのか、急に真顔になって頭を下げた。
「いや、別に同い年だし、失礼とか、丁寧語はナシで。その上こっちは助けてもらってる」
「……タメ?」
 連はすぐ笑顔になった。

 俺は久芳連についてある程度の事は知っているが、相手は俺のことに気付いていないようだ。思わずホッとする。名前や身元が分かるようなもの……社員証なんかをぶら下げる習慣が、わが社に無くてよかった。

「……え、と、社員サンは、本社(ここ)勤務の人じゃないんだよね?」
 社員サン、と遠慮がちに呼ばれて俺は苦笑いした。
「社員サンじゃなくて、上野……」
 そこまで言ってから絶句する。本名は名乗れないので、慌てて下手な嘘を吐いた。
「上野……サブローだから、呼び捨てで構わないよ」
「わかった。じゃあサブローって呼ぶね、俺は連で。実は、この会社と俺の部屋、超近いんだけど、明日休みでしょ、寄ってく? 襲わないって約束するなら」
「襲うかよ。……一応……彼女はいるんだ」


 ただ俺の妹、上野美羽(うえの・みわ)が連の住所を知ったらマズい。
 確実に襲いに行くだろう。

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(5)
 俺の妹である上野美羽(うえの・みわ)は、人から愛されるコツを熟知している。一言二言話をすれば、大抵の男なら、すぐ惚れさせることができる。何か言えば100%反感を買う兄とは真逆のタイプだ。
 ただ、その能力はすごいと思うが、天性の人たらしとは違う。ちゃっかり、都合良く態度を変えてコントロールしている所に、非常に問題がある。特に、好きな男のためには手段を選ばないし、惚れさせるだけでなく、自意識過剰な行動も災いを成している。
 美羽が在学中に惚れた男のケースでも家族中が右往左往した。
 まだ知り合って2週間しか経っていないというのに、相手の男の部屋に押しかけ居座り、帰ってこない。
 父が相手の男に文句を言いに行った。しかし、相手の男は、
『僕は美羽さんの大学の卒業生です。美羽さんとは、一度だけ大学の飲み会で同席しただけですし、こちらとしても居座られるのは迷惑なので、早く連れて帰ってください』
とかなり迷惑そうに訴えて来たという。
 普通なら可愛い娘を盲目的に庇うのが親というものだが、家族はみな、美羽の性格を知っている。美羽ならあり得ない話では無い。結局父は頭を下げて美羽を連れて帰って来た。
 美羽は自分の行動を棚に上げて、怒りまくっていた。
「私、連と結婚する気だったのに!」
 相手は俺と同じ年齢の、久芳連(くぼう・れん)。当時23歳。その飲み会の時の写真を美羽に見せてもらったが、女かと見紛うほどの綺麗な男だった。

 俺も妹も両親からは整った容姿を与えてもらったが、自分としては全く感謝していなかった。外見で集って来るような相手は中身など見ていない。中身を見てくれない相手とは、長く付き合えない。そういう意味で、変に冷めていた。
 ただ、美羽の場合は違っていた。
 長く付き合えない所までは同じだが、そこから何とかして愛情を探し出そうと足掻いていた。美羽は俺と違ってかなり攻撃的で、愛情に貪欲なやつだった。
 執着する、と言うべきか。
 ストーカー体質と言うべきか。


 俺が連と本社で偶然出逢い、仲良くなったとしても、本名を言えない理由がここにある。
 美羽の起こした『居座り事件』に関して、被害者である連は、加害者とその父としか接触しておらず、兄である俺との面識はない。
 犯罪加害者(いや、犯罪一歩手前)の家族として、ここは連にどういう態度を取るべきか。美羽の口から俺の名前くらいは聞いているかもしれないので、上野紘一と言えず、なんとなく上野三郎になっている。
 ここで、大事なのは、俺が正体を隠す理由だ。
 謝罪するのが嫌とかいうのではなく、連が怯えないためなのだ。超強引でどこまでも突き進む美羽とのことがトラウマになっている可能性がある。俺だって血が繋がっていなければ、こういう自分優先人間とは関わり合いたくない。
 俺と一緒にいれば、いつか美羽が出没するのでは、という不安を与えてしまいかねない。

 HR特別部でも逸材と言われるほどの性格の上野紘一が、こんな感情を持つのは、周囲には意外だろう。しかし事実、連を友人として、失くしたくないと思っていた。アホな妹ごときで失うなんて考えられない。

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(6)
 冬でも平日の夜は殆ど連とテニスをして過ごしていた。
 うちの会社は屋外のテニスコートを持っていて、社員やその家族は24時間施設を利用できる。連は社員じゃないが、俺さえ社員証を見せれば利用可能だった。こんな寒い夜中にストイックに体を動かそうと思う連は、今思えば悩んでいたのかもしれない。
「サブローはクリスマス彼女と過ごすの?」
「いや。会社のパーティーに出席」
 真っ暗な空の下で、パコーンパコーンというボールの弾ける音がした。
「うそじゃん、そんなの無いじゃん。あったら俺も出勤だよ」
「支社の方だよ。本社関係無い」
「おおざっぱな嘘だなぁ……なんでそんなに隠したがるの? 可愛い彼女がいるんでしょ?」
 ラケットを振り切った後、連は姿勢を伸ばして、コートの外へ出た。ネット傍のベンチに腰掛けると、水を飲みながら俺を見ていた。
 連からの球を打ち返さずに掴んで、溜息をついた。やつの視線はベンチで一息つけという意味だろうが、正直、あまり夏の話は突っ込まれたくない。相手に話題を振るしかない。
「そういう連は、クリスマス彼女と一緒なんだろ?」
「彼女なんていないよ。けっこー長いこと、片想いなんだよね」
 こんな連ほどのいい男を平気で放置している女がいるのか。美羽が知ったら激怒じゃ済まないな。
 美羽は、結婚まで考えたという連に失恋してから今まで、ほかの男に夢中になった様子はなかった。まだ連の事を好きなんだろうと、俺は思っている。
「おまえ、理想高すぎんじゃないのか?」
 俺が言うと、連は笑っていた。
「それがさ、どうも最初の自己紹介が悪かったみたいでさ」
 彼は屈託のない笑顔で、サラッと理由を言ったが、耳で一度聴いた位では到底理解できる話ではなかった。
「悪い、もう一回言ってくれ」
「えー、もう一回? サブロー頭良いくせに……」
「……意味がよくわからなかった」
 連はしょうがないなと言いながら、もう一度同じ話を口にした。

「だからね、最初に会った時に『れん』の字はどんな字を書くんだって聞かれたんだよ。
………………
『普通の【れん=連】だよ。親が【さざなみ】って言う字がかっこ良いねって事で【れん=漣】に決まりかけてたんだけど、字の意味が【涙を流す】になってて、【レン】だけに【シツレン】して泣いちゃうのかもねえって言い出して……。じゃあ失恋しないように、普通の【れん=連】にしようか、っていうことで【れん=連】になったんだよ』

『そうかあ、失恋しないように【れん=恋】になったんだー』

『ん? うん、でも失恋しっぱなしだけどね』
………………
っていう、やりとりがあって、俺の名前をその子は【れん=恋】だと思ってて、俺自身のこともずっと女だと思ってるわけ」


 …………【れん】ばかりが続いて、字を想像するのに時間を要した。
 イマイチ理由に納得できなかったが、それより、今の状況の方が不思議だった。
「つまりだ、彼女に女だと誤解されたままでずっと……女友達を演じてるのか」
「まあ、そういうことかなー」
「なんで」
「傍にいたかったんだよ」
「その状態で嬉しいか」
「嬉しいよ」
 この久芳連という男のけなげさが、ナチュラル過ぎて、とても相手に伝わるとは思えない。でも、彼も口で言うほど気楽な感覚ではないはずだ。
「大丈夫。彼女の部屋に泊まったり、キスしたりしても、怪しまれないし」
 無邪気に言うが、それは犯罪に近くないか? でもまあ、そうやってささやかに発散してるんだな、男の本能から考えるととんでもなく哀れだ。
「相手は完全に女だと思ってるんだな。どうするんだよ。いつまでもこのままってわけにいかないだろ。俺にできることがあれば……」
「うん……その子今彼氏に夢中だから……しばらくこのままだよ。もし別れたら……その時は!って思ってる」
「そうか。その時は応援するから、頑張れよ」
「……でも」
 連は、苦笑して言葉を付け加えた。
「彼女が、あんなに好きな彼と別れるなんて、ありえないかな。ていうか、別れないで幸せになってほしいとも思うんだよ」

 この久芳連の人の良さに、唖然とする。

「そんなんでどうするんだ!! さっさとその男から奪い取って、おまえが幸せにしてやれよ!!」 
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(1)
 最近、本社で久芳連(くぼう・れん)と話していると、食いつくようにこっちを眺める女子社員の姿を見かける。
 人付き合いが最大級に悪い上野紘一(うえの・こういち)が同じ男とべったり一緒にいるのは、確かに、彼女らの妄想のネタになるのかもしれない。何しろ相手は美人過ぎる警備員として有名だ。
 しかし、これだけははっきり言っておく。
 ちゃんとした理由があるんだ。


 実は先日、父に久芳連の話をした。
 父も当然、いい年の娘がしでかした非常識な事件のことを忘れているはずがない。俺が今その相手と一緒に仕事していると教えると、やはり驚いていた。父は、連の当時の住所を、メモとして残していた。
 そのメモ用紙を見ながら、思わずうめいてしまった。それはまさに、連の現住所だった。
「ここ、あいつ、今も住んでる。本社の近くだ……」
「……おまえと久芳君が……同じ会社で仕事か……」
 父は低く呟いて頷いていた。
 この人のこのポーズに油断してはならない。見た目は戦国武将が策を練っているように見えるが、実際は殆ど聞き流して何も考えていない事が多い。
「いや、父さん、しっかりしてくれ! 連が当時から住所を変えて無いってことは、美羽は連の居場所を知ってることになるぞ」
「ああ、知ってるだろうな。確か前に、合鍵を作ったとか、監視カメラから見えない位置を確認したとか……」
 立ち眩みがした。

「マジか父さん。親ならそこでなぜ黙ってる。放置してどうする。美羽が二十歳を過ぎようと、あんたはアレの親なんだからな。分かってるだろうな、責任とれよ」
 父親は黙り込んだ。
 まったく……。何年だ? 事件を起こしたのは美羽が大学1年の5月だから、もう4年近くか。そんな長い間、美羽は連をストーキングし続けていたことになる。
 父は深イイ声で言う。
「紘一、これは美羽だけの問題じゃない。私だけの問題でもない。家族全体の問題だ。そして今、久芳君に一番近いのはおまえだ。きっと、妹に代わって贖罪しなさいという事なんだよ。わかるな、対応を間違えるなよ、何を言われても、誠心誠意応えるんだ」
 開いた口が塞がらない。加害者が被害者をクレーマー扱いか。
 目を瞑って何度も頷く武将……のようなカラクリ人形め。

 それでも、俺は家族から犯罪者を出したくはなかった(いやもう、犯罪者以外の何物でもないが)。美羽の行為をこれ以上黙って見ているわけにはいかない。いや、もう何があっても、絶対に連の周囲100メートル以内に近寄らせてはならない。
 ああ、この責任……。どう考えても自分のキャパを上回っている。今回はめんどくさいなんて言ってられないが、なんでいつも、俺はこういう役回りなんだ。
 以前もHR特別部の同僚の犯罪防止のために手に負えない責任を背負った覚えがあるが、その件は今、………………一旦忘れよう…………あまり考えたくない。
 とにかく連の負担を考えるとできるだけ近くで監視、いや見守らねばならない。そういうわけで、連と一緒にいる時間がやたらと多くなるのだ。

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(2)
 三月頭の本社での月例会議で例の三島光一(みしま・こういち)に極秘情報を持ちかけられた時思わず笑みがこぼれた。
「なんだなんだ、クールな氷の王子も本社勤務が決定すると可愛い顔をして笑うじゃないか」

 その時、来月から本社勤務という文字が頭の上で飛び跳ねていたが、必死で心を落ち着けた。
 これで俺は悪夢のHR特別部とはおさらばだ。
 それに本社勤務になれば実家を出て独り暮らし。連の近くに住むことができる。万一美羽が連に危害を加えようとしても、すぐかけつけて現場を押さえることが……。いや、俺は刑事じゃない、ただ傷害事件を未然に……。……未然に防ぐって……また、思い出したくないフレーズだな。

「三島情報がどこから来るのかは知らないですが、かなり正確らしいんでね」
 できるだけ感情を見せないように微笑った。
 この、社内で『おしゃクソ三島』と呼ばれる男に隙を見せるとろくなことが無い。ここ数か月の会議だけの付き合いでも、十分わかる。とぼけた口調と自慢げな笑いが鼻につく。
「そうだよ。自分にはふっとーいパイプがあるからね。その太いパイプで四月からは夏ちゃんを喜ばせてあげよー……」
「待て、三島君」
 話を止める俺を、奴はにやにやと笑って見ていた。
「話が見えない」
「だからふっといパイプで」
「夏原さんの名前がなぜ出てくるのかがわからない」
 ハチミツでも食べた後のように舌をペロリと出すと、三島は真顔で言う。
「このまえ支社のヤツらに『あるランキング』を写真付きで見せてもらったんだ……。というのも、四月から自分は、君とトレードで支社勤務になるから、一応そういう情報は必要だろ? まあ、そういうことで、つまりは、君の残していくだろうお荷物は、自分が引き継ぐ予定なんだよねえ」
 粛々と進む会議の最中、俺は大きな咳払いをした。そして、一度息を呑み込んで、冷静に答えた。
「荷物? 何の事かな? 立つ鳥は跡を濁さないもんですよ」
 こいつ、夏と俺に関する情報をどこまで握っているんだ。脅しか、嫌味か。どうせ鎌をかけて弱みでも握ろうってことだろう。実際に夏に手を出すなんてことは、ないはず……。
「あら、そーかあ」
 それきり三島は黙り、定例会議は終わってしまった。三島の姿はあっという間に見えなくなった。クマみたいな背格好をしているが、完全な古だぬきだ。

 ふと見ると、携帯電話に夏原夏(かはら・なつ)からメールが入っていた。
<土曜と日曜ィェ━━v(o´∀`o)v━━ィッ★会いに行っていいのは、どーっちだ!?゚.+:。((((o・ω・)o))) ゚.+:。ドキドキ♪ どっちでもいいし、両方でもいいよーん d(@^∇゚)/♪ >
 相変わらず絵文字・ 顔文字だらけの、能天気なメールだった。ここ最近無視し続けていたが、さっきの三島の言葉が、頭のどこかにひっかかっていた。
<日曜。昼2時以降なら>
 とりあえずは会っておこう。転勤となると、この棚に上げていた問題にも、近日中に取り掛からなければならなくなった。

 翌日の土曜は、支社の近くで長谷課長と個人的に会っていた。
 支社から本社に異動になることを確認するためだったが、支社のイチ課長クラスではそんな情報は耳に入っていなかったようだ。朝海という『会長の孫』を嫁にもらっているのにもかかわらず、だ。
「よかったな5年目で本社の係長か。嫁サンに上野君を頼むよって言っておいたんだよ。いやーよかった。君はHRSにいると、気持ちが塞いでしまうだろう?」
 違うな。俺はただの生贄だったはず、と内心思う。
 生贄ではあったが、長谷朝海の月イチペットからは連のおかげで脱出できた。
 別に野望なんて持ってはいないが、朝海のことは、何かあった時に利用させてもらおうと思っている。

「これを機に結婚もいいぞ。社宅は無いが、家賃を補助してくれるマンションがあって、結構広いんだよ。独りで住むには勿体ないから、どう、一緒に住むような人はいないの?」
「はは。そうですねえ……」

 勿論一緒に住む相手は連に決まってる。俺はなんとしても、美羽の犯行を阻止するんだ。

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(3)
 翌日曜。3月5日、午後2時にはきっちり夏原夏(かはら・なつ)が実家にやってきた。
 俺がゲームをしている傍で、美羽と何か話をしていた。美羽がいつも誰にでも言う、「お兄ちゃんと長く付き合ってね」というセリフ、本音は「このウザい兄貴を早く連れていってよ」という事なんだろうが、誰が実家から出て行くものか……と、この前まで思っていた。
 しかし、今回は出て行ってやる。
 しかも一番美羽が嫌がる場所へ。連の傍へな。

 夏の部屋と今度の新しいマンションの距離は車だと1時間以上かかる。渋滞が絡めば3時間。そして彼女は車を持っていない。別の県になってしまったため、電車を乗り継ぎタクシーで移動などと考えると、何かと不便だ。今までのように、電車で15分の距離に、俺と夏の部屋があるという状況ではない。
 だから、夏とは転勤を機に会わないのがベスト。
 わかってはいるが、それをいつ言えばいいのか、どう言うのがいいのか、頭を悩ます。距離というのは、結局理由になるようでならないため、下手な言い方をして逆に炎を燃やされても困る。

 焼肉を食べに行っても、切り出すことはできず、こうして駐車場まで来ても言葉を探している状態。
 まあ、夏は俺に対して見た目と冷たさ以外何も期待していないのだから、ほかの男に乗り換えるのも結構スムーズに行くだろう。もともと好きで付き合ったわけでもない関係だ。このまま付き合い続けるなんていう選択肢、そんなものはないんだ。
 それなのに、ほんの少しだけ誰かの言葉に影響されていた。

 三島光一(みしま・こういち)は夏と会った時、何と言うだろう。
 ……気付いてないのかい? 君は上野君に置いていかれた、不用のお荷物なんだよ……
 持っていかなかった荷物か。まあ、確かにどこへ行くとも教えずに姿を消すと、そう言われるだろうな。
 でも、夏を荷物扱いするのは失礼だ。きっと俺がいなくなってもこの場所で頑張るだろう。仕事があるんだから。
 仕事について尋ねると、夏は嬉しそうに笑っていた。楽しいらしい。プロジェクトリーダーになったとかならないとか、無邪気に話す。正直羨ましい。好きだと思える仕事なら、続けた方が良い。
 やりがいのある楽しい職場があるんだから、俺を追いかける必要はないし、ということはつまり、……行き先を言う必要も無い……ってことになるだろう?



 四月からは本社勤務。その事実は三月が終わりに近づくにつれて、次第に俺の頭の中で大きなイベントになってゆく。勿論、本社勤務は嬉しいのだが、そこへ行くまでにクリアしておかねばならない課題がある。
 まずは、住む場所の問題。
 こちらは社宅ではなく家賃補助が出るというだけの、私的なマンションなので、基本誰と住もうが会社に文句を言われることがない。三月半ばには2LDKという物件を借りた。引っ越しは月末に行う。荷物も少ないので、業者などは呼ばずに、自分の車で十分そうだ。
 久芳連(くぼう・れん)もまた荷物は少ないらしく、彼の今の現住所からほど近いマンションに、すぐ荷物を運び始めた。月末になる前に、さっさと終わらせたようだった。
「いいのかな! 広いし綺麗だよね!」
 いい、いい。あの危険な部屋からはさっさと出た方がいい。それでなくても、いつ美羽が現れるかわからないと言うのに。
 表札は当然、上野、久芳の連名だが、これも『UENO / KUBO』として、配達する人が伝票と照らし合わせてなんとか分かる程度の簡素なものにした。漢字やフルネームは厳禁だった。
 とにかく、連が気分よく新しいマンションに居てくれるので、その点は、引っ越し前の俺も随分安心していた。

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(4)
 次の難問は、全く別れの気配を感じることのできない夏との問題。
 一応、彼女の部屋まで行って、もう付き合いは終わりなんだということだけは宣言した。それが精一杯だった。
 よく考えてみれば部屋まで行く必要はなかった。ただ、最後だというプレッシャーが判断を誤らせたんだろうと思う。理由も上手く説明できないまま逃げて来たような状況だった。
 せっかく役目を終えることが出来たというのに気持ちが晴れることは無く、ただ頭も体も全部がだるい、そんな気持ちだった。

 そして月末の会社の会議で、ランキング女王に集るカスどもを一蹴。
 しかしこの支社から去る身の上としては、これらのカスどもがゾンビのごとく何度も夏原夏に襲い掛かるのではないかと思うと、
「は? 別れてませんよ」
 くらいの事は言っておかねば、収拾がつかない気がした。こんな軍隊蟻の群れの中にキリギリス夏ちゃんを放り込んだまま、知らん顔をする……そんなことはさすがにできなかった。
 夏が自力でまともな男を探すまでは、幻でも彼氏という人間の影があった方がいい。支社の人間は俺がずっと夏と付き合ってきたことを知っているから、そんな言葉でも抑止力にはなるだろう。
 問題は三島光一だけだ。


 社内の挨拶も終わった三月の最終週、昼は仕事の引き継ぎ、夜は自宅の引っ越し作業をしていた。
 家で荷物をダンボールに詰めていると、思った通り美羽が興味津々という顔で近寄ってきた。
「お兄ちゃん引っ越しするの? どこへ? 転職とか?」
「まーな」
「ちゃんと教えてよ」
「全部終わったらな」
 美羽に知られるわけにはいかない。
「誰かと一緒に住むの? 夏ちゃんとか?」
 思わずテンションが下がり、手が止まった。
「違う」
「どうして? 断られたの? お兄ちゃん冷たいから、嫌われたんじゃないの?!」
「うるさい。夏は……いいんだよ、彼女とかいう、そういうレベルの……」
 ボソボソと適当にごまかしたが、妹とはいえ女は恐ろしい。俺の目の前にやってきて尋ねる。
「大丈夫、お兄ちゃん。私が夏ちゃんを説得してあげるよ。もうプロポーズしちゃえば?……」
「いい、いい、夏はもっとほかにいい男が……」
「だって、お兄ちゃんあんなに夏ちゃんのこと気に入ってたのに……」
 言われて、ギョッとして美羽を凝視した。
 すると美羽は、悪魔のような微笑みで俺を見ていた。
「けっこー、好きだったでしょ?」
「…………な?」
 冗談でも絶句するような事を言い出すなよ。
「……やっぱり、そうだったの、紘一……」
 ほら、母さんまで誤解して心配そうな目で見てるじゃないか。
「傷心旅行のかわりに、傷心引っ越しなのね……」
「違う、昇進だ。傷心でも焦心でもない!」

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(5)
「じゃあ何かあったら電話してくれよ」
 俺は母親だけにこっそり住所を教え、美羽には伝えなかった。
「えー、私にも場所教えて、遊びに行きたい!」
「まだ散らかってるから。いや、もう……一緒に住んでるヤツがいるから」
「えーっ!!! 新しい彼女!!?」
「違う。あ、引っ越しの件と転勤の件、夏には絶対何も言うなよ」
 それだけ言って、急いで車に荷物を積み込んで、再度玄関に戻ってきた。行く前に顔を見てからと思ったのが大きな間違いだった。
「やっぱり紘一、フラれたのね。確かに夏ちゃんへのあの態度じゃ当然の結果だと思うけど」
 母親がどこか蔑んだ目で俺を見た。美羽は逆に嬉しそうにはしゃぐ。
「これだけ必死で口止めするなんて、よっぽど夏ちゃんと顔合わせるのが辛いんじゃないー? 相手の男に勝てなくて情けなくってぇ〜」
「だからと言って、黙って逃げてくなんて、めめしいわねえ。まあ、夏ちゃんも男ができたんなら、紘一なんてもう興味ないでしょうけど……」
 これは血のつながった家族の言う言葉か。勝手に失恋したことにして、それをネタに盛り上がるとは。
 放っておくと何を言われるか分かったものじゃない。俺の性格がねじ曲がったのは、確実にこいつら家族のせいだ。
「おい、いい加減にしてくれ、もう行くからなっ」
 ちょうど反論しようとした時、家族の前で、連から電話がかかってきた。
「あ、もしもし。……俺は今実家だよ。ちょうど最後の荷物積んで……」
 スマートホンを耳にあて、一瞬美羽に背を向けた。

 パシッ!!

 思わぬ事に呆然とした。
 美羽が俺の持っていた電話を手で叩き落としたのだ。
 玄関マットに落ちたスマートホンは、大きな通話の画面が上になり、『久芳連』という文字をクッキリと浮かび上がらせていた。
「…………誰と話してるのかと思ってー…………」
 美羽の目が、アンドロイドのように発光した気がした。


 俺は慌ててスマートホンを拾いあげ、何事も無かったように話を始めた。
『どしたの?』
「いや、ゴメン、なんでもない。おまえ、まだ仕事?」
 俺は母や妹の強烈な視線を背に受けたまま、急いで玄関を出た。
『そう今夜は残業で遅くなるよ。あと、さっき彼女から電話があってさ、成り行き上、明日飲みに行くことになったよ……』
「……ってことは、明日は遅いのか、それともまた切ないお泊まりか?」
『うん、多分泊まる……』
 連の寂しそうな声に、俺は思わず喝を入れたくなった。
「しっかりしろ、連。彼氏の話なんかさせるな。いいか、ちゃんと男として気持ちを伝えて、最終的にキッチリ押し倒して来い」
 そう言うと、連はふふっと笑った後、明るい声を出した。
『わかった。サブローが言うなら頑張ってみるよー』


 電話を終えて、車の運転席のドアを開けようとすると、後ろから美羽に服を引っ張られた。
「お兄ちゃん」
「なんだよ」
「このまま、私に知らん顔して行くつもり?」
 美羽の言いたいことは分からなくはないが、元々はおまえが悪いんだ。
「なんで連と電話してるの? いつから……? いつも……会ってるの?」
「……連とは仕事仲間だし、気も合う。だから、一緒に遊んだし……これからは一緒に住むんだよ」
 どうせ隠してもバレるなら、宣言するしかない。
「連にはちゃんと好きな相手がいるんだ、美羽が連に近寄るのを俺は許さないからな」

 美羽は不意に泣きそうな顔をしたが、泣かずに俯きぐっと食いしばっていた。
「バカ。お兄ちゃんに私の気持ちはわかんないよ!」
「わからねーな。だいたい『おまえの気持ちがわかるよ』なんて言う奴、いい加減過ぎるだろ。ろくな奴じゃない」
「そんなことない!」
 美羽は尖らせた唇の先を、少し震わせて言った。
「連は、心からそう言ってくれるよ」

「お兄ちゃんはね、私だけじゃない。誰の気持ちもわかんないよ!! だから夏ちゃんに振られるんだよ」

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(6)
 妹、上野美羽(うえの・みわ)に根拠のない誹謗中傷を受けた翌日、3月最終の金曜日のこと。支社の方には出社せず、休みをもらった。その代わりに明日の土曜は本社に顔を出すようにとのことだった。
 本社への初出勤は通常なら月曜だが、明日土曜は4月1日で役員が顔を揃えるらしく、出社せざるをえなくなった。
 ちなみに、本社から支社へと異動になった三島光一(みしま・こういち)は、今日金曜が支社への初出勤らしい。夏原夏(かはら・なつ)に会ってないことだけを祈る。

 そんな明日の事もあり、部屋での開梱作業はさっさと切り上げ、風呂にゆっくり入って早めに寝ようと思った。最近荷物整理ばかりで若干腰が痛い。布団に横になると上を向けずに横になってエビのように布団にくるまった。
 そうなると、疲れも手伝って、あっという間に眠りについた。

 午前2時。
 枕元に置いていたスマホが震えていた。
 完全に眠っていた俺は、無意識にスマホを遠ざけようとして手を伸ばした。しかし、光る画面が目に入った瞬間、思わず手が止まり、画面を見つめた。
 《 夏原 夏 》
 画面表示を見てガバッと体を起こした。夏がこんな時間に電話してくるって、何だ、一体何があった???
 慌てて電話に出ると、酒に酔った男の声がした。


 電話を切った後、胃の下、臍の奥あたりが、クックックッと筋肉が強張るように力が入った。
 俺はスマートホンを放り投げかけて、慌てて自分の手を自分で掴んで止めた。
 こんな時間に、『男と一緒にいます』アピールか。
 しばらくスマートホンを握って、自分の中の感情を分析しようとしていた。
 俺が夏にしたことは褒められることじゃないから、これくらいの当てつけや仕返しがあったって、仕方ないさ。そう、想定内だ、いくらでも歓迎する。早く男をつくればいいじゃないか。見つかってよかったじゃ………………。


 溜息が一つ出た。
 そして、その後、自然に舌打ちが出た。


 俺から夏に電話をしたのは、多分これが初めてだった。
 夏は、俺が何を言っても黙っていた。最後に、ごめんと謝っただけだ。
 謝られてしまえば、俺にはもう何も言えない。あからさまにぶつけた嫉妬のやり場に困る。
 相手の男が「元カレはもうかけてくるな」と言った。
 その通りだ。

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(7)
 その最悪な気分で眠れない時に、連から電話があった。
『サブロー、振られちゃったよ』
「そーか。迎えに行こうか?」
『大丈夫、遠いし、タクシーで帰るよ。勝手に鍵開けて入るから、そのまま寝ててね』
 時計を見ると3時半だった。寝てろと言われても、なかなか眠りにつけなかった。

 玄関で物音がしたので布団の上に起きあがり、電気を付けた。ドアを開けて入ってきた連はいつもとかわらずにこにこしていたが、どことなくしょんぼりしているのが分かる。
「……おかえり」
「うん。なんだ、起きてたの? 気にしなくてよかったのに……。あ、それとも彼女とのことで辛いことでもあった?」
「え?」
「なんか、眠いとか疲れてるとかとは違う、……寂しそうな顔してるよ?」
「バカだな……」
 今は人のことより自分のことを気にしていればいいのに。
 連が俺の傍まで来て、背中をポンと叩いた。
「元気だしてよ」
 驚いて連を振り返った。
 彼はただ笑みを浮かべて当たり前のように言う。
「明日仕事なのに、まだ寝ないの? それなら俺も付き合う。嫌な事があったんなら全部言っちゃってよー!」

 辛い事をグチりたいのは、連なんじゃないのか。
 自分の事より先に相手の感情を読んでしまうやつ。
 思い返せば、俺は何も言ってないのに、いつも連に心配されていたような気がする。
 人の気持ちが分かるというのは、当たり前にできることなのか?

「連、実は言わなくちゃいけないことがある」
「うん……」
 連は俺の真剣な表情に驚いたのか、数歩後ずさって戸惑った顔を向けた。
「上野美羽って……覚えてる……よな?」
「えっ……あ……」
 うっすら口を開けて言葉を失う連の顔から、血の気が引いたように見えた。彼は抱えていたカバンを床に落とした。

「俺、あいつの……兄貴でさ。あいつは連の周囲でストーカーっぽい事をしていたというか、はっきり言えば、勝手に部屋に入ったりとか……」

 こんな話、元々冗談では済まされなかったんだ。騙したり、コソコソせず、もっと早く伝え、連に謝罪すべきだった。
「あいつのしてきたことに対して本当に申し訳ないと思ってるから……連には早く好きな子と付き合って幸せになってもらいたいんだ。そのために、俺は精一杯協力する。何でも言ってくれ。何でもするから。連が幸せになってくれれば、美羽も諦めがつくだろうし……」

 連は俺の話を聴いている間、落ちた自分のカバンから飛び出た中身を、うつろな目で見つめていた。
「悪かったな、今まで黙ってて……」
「ううん。大丈夫、話してくれてありがとう……」
「おい、連……大丈夫か?」
「う、うん、うん、大丈夫……」
「おまえ……震えてない?」
「い、いやあ、あの……だって……」
 連の顔は今にも嘔吐しそうなほどに青ざめていた。

 やっぱり犯罪は犯罪だ、許されることじゃない。美羽だけじゃなく、その怒りは俺に向けられてるんだ。それは当然だ。
 もう声を掛けることもできず、連の様子を見守っていると、彼はさっき見た恐ろしい夢の話でもするかのように言った。
「いつもさ、部屋に帰ると手作りっぽいお弁当が置いてあったんだよ」
「は??」
「おかえりなさいって、メモがあるんだよ。でも……そのメモを書いた人に心当たりが無いから、これ、誰の?って……思うと……こ、こ……こ、怖くてさ……」

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(8)
「!……こ、怖い、そりゃ、怖いよな」
 俺は明らかに連が震えているのを見て、思わず近寄った。さすってやろうかと思ったが、その時ふと連が視線を上げた。恐怖の色が、その時、和らいでいた。
「でも、……今聴いてよかったよ。安心した。だって、それを書いてたのは、……お弁当を作ってくれてたのは、美羽さんだったってこと……だよね?」
「え?」
 連が笑っているのを見て、俺は息を呑んだ。
「だって、誰かわからないのは怖いけど、美羽さんなら……大丈夫だよ。悪い子じゃないから……」

 俺は、ええええええ??とため息のような悲鳴のような声を漏らした。
 一体、美羽のどこが『悪い子じゃない』んだよ。連は坊主か。徳を積んだ坊主なのか。そんな感じじゃ、マジで美羽に食われるぞ。
「……連、人が良すぎだ。……怒っていいんだぞ」
 なんだったら通報したって、起訴したって、損害賠償請求したっていいくらいだぞ。
「ううん、良かった。ありがとうサブロー。ずっと悩んでたんだけど、解決したよ。今度からは、せっかくお兄ちゃんもいるんだし、美羽さんもこっそり入って来ないで、普通に遊びに来てねって、言っておいてよ」

 呆れた。
 連がここまで大海原のように広い心の持ち主とは思わなかった。宇宙クラスかもしれない。俺は責められるどころか、怪奇現象の原因を教えたことで、感謝までされてしまった。
 連はカバンの中身を整理し終わると、パジャマだけを手に持って立ちあがった。
「さ、もう寝よう、サブロー……」
「ああ……そのサブローなんだけど」
 布団の上に座っていた俺は、思わず連の着替えの様子をじっと見つめていた。
「美羽のことがあって、連が俺の名前知ってるかもしれないから本名言えずに今まで……」
「そーか。じゃあ、上野三郎じゃないの? なんて名前?」
 連がニコニコと、笑顔で俺を見た。パジャマの前ボタンを丁寧に留めている。
 そんな彼の姿を見ながら、嫌な予感がした。

 散乱するダンボール箱を端へ寄せ、広いリビングの中央に布団を二組敷いていた。
 布団の上でパジャマに着替え終わって立つ連と、布団の上に座って彼を見上げている俺。

「名前は、上野紘一だよ」
「上野紘一かー。……上野紘一かー、……。上野紘一」
 連はゆっくりと布団の上に座った。掛け布団を持ったまま、考えている。

 固まってしまった連に、仕方がないので声を掛ける。
「連、訊きたい事があるんだが、訊いていいかな。今、とてもじゃないが眠れそうにないんだ」
「うんいいよ。俺も、今、眠気が飛んだってゆーか、目の前真っ暗になりかけた……」
 …………そうだろうな。

「連が着てるそのパジャマって……5年間片想い中の『彼女』の部屋にあったやつかな……」
「そう、お泊りセットとして『彼女』の部屋に常備してたやつを持って帰って来た」
「あー……。確かに、見たことあるっていうか……1回着たことが……」
 口の中が異常に乾く。

「サブロー、俺からもちょっとお願いがあるっていうかさ、実は、上野紘一っていう名前、ちょっと呼びづらいっていうか、泣きそうになるっていうかー」
「あ、そう?」
「このままずっと、サブローって呼んでていいかな」
「ああ、いいよ」


「あ、それから、さっき『元カレはもう電話するな』って言っちゃって、ごめんね……」
 連はそう言って、くるりと背を向けて寝てしまった。


 連は良いやつだが、俺との相性は残念ながらあまり良く無さそうだった。
 まるで新婚初夜に浮気が発覚した夫婦のように、気まずかった。これから先、平和な同居は成立するんだろうか。
 同居を解消するには、金も時間も労力もいろいろと無駄になる。もし、この同居に割り込みたいやつがいるなら、今なら大歓迎だ。

 歓迎して、いいのか? 


Part3に続く≫
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