M of L - 夏さんの、恋する意義 -

【あらすじと目次】

●あらすじ●

若いとは言えない26歳の夏原夏は恋をした。完全なる一目惚れで主導権は常に相手の上野紘一が握っている。
それでも食らいついて来た8ヶ月後、エンディングを迎えることになる。ええ? 始まって早々エンディング?
叩きつけられたエンディングをものともせずに突き進む夏さんの恋は、どこまで成長していくのか。
20代後半だろうが、妄想癖があろうが、つい応援せずにはいられないオトボケ主人公は、今日も迷惑を振りまいていく。
1話(6節〜8節)7500〜10000字程度、長編。

 

●目次●

Part 1 ; Look at me !
  第1話 私の彼は   /  第2話 俺の彼女は  /  第3話 彼のセリフ  /  第4話 彼女の妄想
Part 2 ; I miss you ...
  第1話 彼の行方は  /  第2話 私の彼女は  /  第3話 彼女の彼は  /  第4話 俺の周りの人間は
Part 3 ; I need you !!
  第1話 四月は始まった / 第2話 遊園地へGO! /  第3話 六人の思惑  /  第4話 痛み止めのキス
Part 4 ; I'll hold you !!
  第1話 ホンモノは誰だ   /  第2話 君を想うゆゑに  /  第3話 恋   /  第4話 彼の気持ち

スピンオフ企画
  バレンタイン・トラップ   /

 

(1)
 まさか突然うちに来ると言い出すなんて、思わないでしょ。……絶対、思わないって。
 紘一は何考えてるんだろう。今日は割と優しいし、咄嗟に来てって言っちゃったけど、どうしよう。これからどういう展開……?
 だけど、さっきのパジャマのこと、もう最悪だよー。ホントになんとも思われてないのかな。紘一がここに来たのも、そんな気全然ないのかもしれない、と思い始めると悲しすぎる。困ったな、紘一が何考えてるのか、誰か教えてよ……。
 私がうろたえている間に、彼はお風呂から出て来た。

 うを……! こ、これはっ……
 !!!!!!
 パジャマを着てるけど……前のボタンは開けてるって……。なに、その見せつけ方っ!!
 問題なく、上半身、引き締まってます! あれは……服着てると全然わからない、抱きしめられて初めて分かる感じの……。
 それにめちゃくちゃ灼けているわけでもないけど、決して白くはない肌。鍛えてるかスポーツやってるか、そんな感じ……ってことは、ゲームばっかりやってたわけじゃ……ないん……だ……。
 そういうの、8カ月と3日付き合ってたけど全然知らなかった。それくらい、会ってた回数が少なかったってことか。こんなに紘一のこと知らなかったなんてショックだ……。私は何を見てたんだろ。

 髪をタオルで拭いていた紘一は、私の視線に気付いたようで、なんとなくムッとしていた。……恥ずかしいのかな。
 そして何を思ったのか、そのままホカホカの体で私の前にやってきた。座っていた私の目線に合わせるように屈む。
 風呂上がりの体温が伝わるほどに接近された。車の中どころの距離じゃない。思わず彼との距離を取ろうと体を退く。……怖いわけじゃないんだけど。
 紘一は私の態度を気にする様子も無く、不機嫌そうにつぶやいた。
「俺のどこが好きなんだよ」
 ちょ、ちょっと待って。今、この距離で、またその質問っ!?
 近い、近い、近いってば……。

 彼は私が横座りしている太股の傍に膝をつく。のけ反ってみても体の距離が殆ど無くて、髪のしずくが私のひざにぽたぽた落ちて服を濡らしていく。
 私に、……ど、どうしろと!
 紘一は私の口元に視線を向けている。まさかまた、臭いじゃ……無いよね? さっきちゃんとハミガキしたし。
 それに、完全にそういうんじゃない目をしてる。いつもの厳しい視線じゃなくて……。
 ……こんなの……ウソでしょ? 紘一らしくない……。
 焦っていると、紘一の右手が目の前をよぎった。
 そのまま、高い体温を保った手が、私の耳の後ろから後頭部までを包んでいた。
 紘一の視線が、私の唇から目へと移る。じっと、漆黒の瞳で見つめられた。
 次の瞬間、いきなり頭を引き寄せられ、その綺麗な顔が間近に迫ってきた。
 くぅ、く、唇がッ!!……。

 咄嗟に私はそれを避けてしまった。ほぼ無意識。向き合っていた顔を少し横にずらしていた。
 すると、紘一はスッと手を離す。
 曲げていた背中を伸ばして体を起こし、私の少し上の高さからニヤッと笑った。
「夏も風呂入って来いよ」
 あまりのことに、しばらく答えられず目を見開いてしまっていた私は、やっと我に返ってガクガクと頷いた。
「う、うん。入って来る」
 慌てて立ちあがり、下着やパジャマを取りに行く。

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(2)
 タオルにボディシャンプーをつけて泡立てながら、ぼんやり考え込んでいた。
 私はこういうの初めてじゃないし、それどころか多分同じ年代の子よりは経験が多いと思っている。付き合った人数だって……。
 なのに、どうしてこんなにドキドキして戸惑っているんだろう。
 だって、だって、紘一、全然いつもと違くない? さっきも、私が逃げなかったら、キスするつもりだったのかな。風呂入って来いって、どういう意味……。
 ……やっぱり、そのつもりで私の部屋に来たって考えていいよね……。

 そーだよねーっ!! 絶対あるよねー!!

 こ、これは覚悟しないとダメだ。多分最低でもキスくらいはあるはず。ううん、そんなんじゃ終わるわけないよね、大人の男と女なんだし。どうしよう、どうしよう。ますますドキドキして、お風呂から出たら、うそ、どうしよう、ええっ、何言おう、うわあ、どんな顔しよう……。

『夏、今まで冷たくしてごめん。好きだからつい、虐めたくなるんだよ……。ほんとはずっと、抱きしめたくて……』
『そんな、だって、私好かれてるって実感がなくて』
『何言ってんだよ、俺がどれほど夏のこと大切にしてきたと思ってんだよ。わかんないのかよ』
『大切……?』
『当たり前だろ。じゃなきゃ、こんなに待ったりしないよ。夏が本当に俺を見てくれるまで待ってたのに……』
『紘一……』
『夏……』
 そして、私たちはぎゅっとお互いを抱きしめ合って熱いキスをし……
「おい、夏」
 風呂場の扉の向こうで紘一の声がした。
「2時間近く経ってるぞ」
「あっ、そうなんだっ! ごめん……。お風呂好きだから、気付かなかったー……」
 ……いえ、お風呂とは別の世界に行ってました。


 お風呂から上がると、思った通り彼はテーブルの前でスマートホンを触っていた。2時間あったら、さぞかしゲームに集中できただろうな。
 紘一の髪は良い感じに乾いて、彼の顔にかかっている。
 ほとんど少年。こんな、こんなナチュラルな紘一見たことないし! しっとりした髪、そしてほわっとした雰囲気。一緒に暮らしたら、きっとこういう顔を毎晩見れることになって……。
 紘一は私が出て来たことに気付いて、顔を上げた。
「待たせんなよ」

 …………なんで、なんで言った後にうつむくのぉっ……?! ほんとに、この人紘一??
 そんな、少女漫画に出てくるツンデレの男の子みたいな赤面しちゃうセリフ、ますます、らしくないんだけどー!! 嬉しい!! こんないいムード初めて! 待たせんなって、もう、何を待ってたのよ! それなら、

 待ってないでお風呂に入って来てよーーー!!

 もしかして私が考えた筋書きもまんざら空想ではないってこと? 幸せすぎて天国に直行しちゃうかもぉぉ……。

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(3)
 そんなデレデレ状態の私を見ていた紘一は、スマートホンをテーブルに置いて言った。
「ビールもらったから」
 ああ、紘一ほろ酔いなんだ。ちょっとエッチな気分になってるかも。……どこまでも期待が消えないっていうか、溢れてる。
 紘一に見つめられた。
「おい、突っ立ってないで髪拭かないと、風邪ひくぞ」

 じーん。感動中ですー。
 今日は言葉がぜんっぜん優しい。
 私の体を気遣ってくれるなんて、今まで一度もなかったのに……。

 私がドライヤーで髪を乾かしてから部屋に戻ると、紘一はテーブルに伏せていた。どうやら眠っているようだった。11時を過ぎていた。
 仕事帰りだし眠くなるのは仕方ない。さっきまで待っていてくれたんだから、それだけでもうれしいし。
 やっぱり今日は何もないんだろうな。


 ずっと期待してたことなのに、いざとなると、なんだかちょっとホッとしている自分がいる。まともに愛の言葉を囁かれたこそも無いのに、いきなりキスや……それ以上なんて急展開すぎるよね。
 明日から、少し優しくなってくれる紘一がいれば、それでいい。そして、だんだんと近くなって行く方が自然だから。


 私が近づくと気配に気付いた紘一が目を覚ました。スマートホンを手に取り、そこに表示される時計を見ている。
「ごめんね、もう寝るでしょ?」
「いや、話、したいから」
 紘一は体を起こしてテーブルに肘をついた。
「話?」
 彼は軽く頷いた。あまり視線を合わせない。
「なに?」
 私はテーブルを挟んで紘一の前に座ると、笑顔で彼に尋ねた。
 紘一も少し微笑んでいる。
 え、なになに……。待って、やっぱり心の準備が……。
 私が焦っていると、紘一は笑うのをやめた。
 そして彼はサラッと言った。
「別れようか」

 え? 今、なんて?

 紘一は私のベッドから勝手に布団を取り体に巻き付け、そのままポテンと床に寝転がって目を閉じた。

 その、……その言葉だけで寝ちゃうの……?!

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(4)
 ありえーる?
 いえいえ、アリエナーイでしょ。
 私は、眠ろうとしている紘一の体を布団の上から揺さぶった。
「紘一、紘一!!!」
 彼は目を開けると、私を睨んだ。
「なんだよ」
「な、な、な」
 なんだよじゃないでしょー!!
「寝ないでよ、寝ないで、ちゃんと説明してよ!」
 紘一はめんどくさそうに体を起こした。
「何? 何を言えばいい」
「理由、理由、理由」
「1回でわかる」
 無意識に彼の手を引っ張って、必死で彼に訴えかけた。
 彼は私の手を引き離してから布団を掴んで、それを私の体に巻きつけた。まるで遊びに行く子どもに上着を着させる親のように、しっかりと包み込まれた。
「冷たすぎる」
 紘一は私の手を見ている。
 恋愛感情とは違う気遣いを向けられて、泣きそうになった。

「その話、明日でよくないか」
「ええっ!」
 私はぶるぶると顔を左右に振り続けた。
「無理、このまま眠れるわけないしっ」
「んー……」
 紘一は初めて思い至ったかのように私の顔を見た。
「まだ寒いのか?」
「ちがっ! そういう意味で言ってるんじゃないの!」
 跳ねそうになるくらい悔しくて大きな声を上げた。とぼけてるのは分かってるんだから! 
 しかし、紘一は立ち上がる。
「布団どこ? 取って来る」
「まっ……待って、寒いんじゃないって。だいたい布団これしか無いし!」
 思わず止めようと前に立つと、行く手を塞がれた彼は小さくため息をついた。
「布団無いなら、人を泊めんなよ」
 紘一に舌打ちされて、絶句した。
「そんなことなら、話だけしてさっさと帰ったのに」
 そして、彼は「まだ電車あるな」と呟いた。

 布団があるとか、無いとか、そんな……。
 ぽろぽろ涙がこぼれる。
「布団、あるよ……あるから……」
 自分の服を取ろうと手を伸ばす紘一の、そのパジャマの袖をぎゅっと引っ張った。すると、ようやく彼は手を止めて振り返ってくれた。
 私の肩からは布団が滑り落ちていた。紘一は、泣いている私を黙って見ていた。
 泣くなバカ。きっと、そんな類の事を言われるだろうと思っていた。
 女の涙にオロオロするような人じゃない。実際に、私は彼の前でなんども泣いているけれど、優しい言葉なんてかけてもらったことが無い。むしろ、いつもウザそうな顔をする。

 無表情のまま、紘一は口を開いた。
「理由は、夏が好きなように考えろ」
 そんな事を平気で言う紘一に驚く。
「……好きなようにって……」
 さらにその後の彼の言葉にもっと驚いた。
「適当でいいんだよ」

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(5)
 適当……。
「……適当ってどういうこと?」
「まんまだよ」
 彼の表情は変わらない。
「どうしても尤もらしい理由が必要なら、仕事が忙しいから、にするか?」
 尤もらしいって何? それじゃ、本当の理由じゃないでしょ?
 私は何も考えられなくてやっぱり顔を横に振る。
「だから……夏の好きな理由でいいんだよ」
 意味がわからない。
「私が理由を考える、って……。おかしいでしょ……」
「そう言われてもな……」
 紘一は視線を落としてしまった。困っているみたいだった。
 でもでも、私の方が困るよ!
「隠さないでよっ!! 私の悪いとこ、ちゃんと言ってよ! すぐ、直すから!!」
 必死で訴える私を見て、彼は「またか」と呟き、呆れたような顔をした。

 そして彼はすぐに俯き、あろうことか声を殺して笑い始めた。

 !!!
 このシリアスな場面で、なに、それ!
「なんで笑うの!」
 ぜったい考えられないっ!
「いや、なんでもない」
「なんでもないのに笑う人いないっ! バカだと思ってるんでしょ!」
 紘一は肯定も否定もしなかった。ニヤッと笑っているだけだ。勿論、謝ることも無い。
「ホントの理由、言おうか?」
 彼はまだニヤニヤと笑っていた。
「う、う、うん……」
 なんで笑いながらなのかはわからないが、それでも本当の理由を話してくれるという。かなり緊張する。というか、やっぱりちゃんとした理由があるってことじゃないかあー……。
 笑顔の消えた後の緩い瞳で、紘一は言う。
「俺は夏の彼氏に向いてないんだよ」

 愕然としてその言葉を聞いていた。

 紘一は前にも似たような言葉を口にした。
『夏は、俺の彼女に向いてないな』
 確かそう言われた。
 でも今のは主語が……立場が入れ替わってるよね。同じ意味じゃないよ。前に言われた言葉の方が、まだ納得できるよ。
 紘一は言った後、ようやくその場に腰を下ろした。帰るのをやめてくれたようだった。
 彼は立ったままの私を見上げたかと思うと、この腕を引っ張って強引に隣に座らせる。
「で、どうすればいい?  一緒に眠るか? 一緒に朝まで話すか?」
 そんなことを、すぐ傍で尋ねられた。
「ちょ、ちょっと待って……。その前に、向いてないって……私は、私は……」
 すると、彼はまた笑い出した。
「ホントの理由言えって言ったのは夏だろ」

 ……フツーに笑ってるよ……。
 なんでなのよ……。
 その穏やかな表情は、これから別れようとしている相手に向けるものかな。

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(6)
 紘一は、ベッドの縁に背を持たせかけていた。私は彼の隣に座ってはいるものの、やっぱり悲しくなってきた。
「向いてないなんていう理由は理由にならない。ちゃんと話をして、ちゃんと……」
 まだ話している途中なのに、彼は「わかった」と言った。言葉を遮られた。
「じゃあ、” 朝まで話す ” 方でいいな?」

「……うん……」
 それで、いいよ。
 こんな気持ちのまま隣で眠るなんて……切なすぎる。

 

 傍に座っていると、手が触れてドキドキした。
 ちがう、ドキドキしている場合じゃない! 別れようって言われてるのに……。
 混乱しているさなか、急に、彼の手が私の手を持ち上げた。
 ええっ! このタイミングで、紘一が私の手を、手を……。
「やっぱり冷たいな。冷え性なのか?」
 …………冷え性って……。

 呆然とする私を気にすることも無く、彼は軽くこの手を握った。

 それは、ただ、温められてるの?
 ……かわいそうだから、……なのかな。


 紘一のセリフも行動も謎だらけだ。
 だから、その全ての意味を知るまで諦められない。
 好かれているとは思えないけど、憎まれているとも思えないから。

 ちゃんと話し合えば、うまくいくんじゃないのかな。
 分かり合えると思うよ。

 ヨシ!

 朝までに気持ちを変えさせてみせる。
 絶対寝させないんだから。

 この紘一の温かい手が勇気をくれる。きっと上手くいく。

 別れ話を撤回させるのはどうしたらいい?
 どう言うのが、効果的かな……。

 紘一の腕に触れる。
 やっぱりあったかい。

 今はもたれ掛かっても、振り払われないみたい……。
 やさしい……。

 あったかい……。

 寝させない……。

 寝ない……。


 寝……。




 


 目を開けると朝だった。

 お約束どおり、そこに紘一の姿はなかった。 
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(1)
  風呂から上がってふと気付けば、夏に体をじっと見られていた。
 感情の全てを素直に顔に出すから、どうしていいかわからなくなる。俺を見る目が、まさに肉食動物だ。
 その表情……。
 やっぱり安易に部屋に来たのはマズかったな。
 冗談なんて言わず、最後まで無視すればよかった。別れ話なんてどこでだってできる。部屋まで来る必要はなかったし、風呂に入る必要も無い。全然、無い。
 冷静に対処していたはずが、いつのまにかペースを乱されている。そして、それをうまく修復できない自分が情けない。

 そもそも、夏の視点で考えてみれば、俺にこだわる必要はない。
 彼女はこの見た目と冷たさだけに惹かれて喜んでいた。俺の全部が好きだなんて、よく言えたもんだなと思う。半年も付き合ったんだから、ちょっとくらい中身にも興味を持っていいはずなのに……決して入って来ようとはせずに、表面だけで満足している。
 この視線を見れば明らかだ。
 その正直さが許せない。ほら、ヨダレふけ……。ムカつく……。

 俺のどこが好きなんだ?
 見た目です、って正直に言え。それしか興味ありません、って白状しろ。
 偶像化できないように、強引に……。

 しかし、怯えた顔で見事に拒否られた。
 ……意味がわからない。
 なんで俺を部屋に入れようと思ったんだ。


 夏が長い風呂に入っている間、ずっと考えていた。
 どうしてこういう状況になったのか。
 付き合い始めてからずっと、彼女の様子を見ながら適当な対応を探していた。しかし、とうとう見つからなかった。
『まともに相手をしてくれない彼氏なら、いつか向こうが関心を示さなくなるだろう』
 そう高を括っていたのがそもそもの間違いだった。

 夏は今も、風呂の中で確実に妄想中だ。
 そんな妄想にイチイチ反応するのもめんどくさかったので放置していたが、さすがにこのままでは終われない。彼女が自分から別れたいと思うような良い方法は無いもんかな。

 強引に突き放すことで、酷い男だと罵られるのが怖いわけじゃない。むしろ、最初から最後まで冷たいフリをしていたけれど、実は良い人だったんじゃないか……なんて妄想されることを恐れる。美化されて、未練を残されてはたまったもんじゃない。
 ちゃんと現実を見れば、上野紘一がどこまで最低な男かわかりそうなものなのに。
 遠すぎて見失っているのか、それとも近すぎてぼやけて実体が見えていないのか、彼女の巨大な妄想が合わないレンズとなって視界を妨げている。

 気が重い。
 同僚たちから守るために付き合い始めたのに、自分が傷つけては元も子もない。多少は嫌な気持ちにさせたとしても、ひどい傷痕は残さずにすむような、そんな方法を探してみたが……。
 ついに見つからなかった。
 この戦況で勝利するためのストラテジーが、全く思い浮かばなかった。
 今更ながら逃げてきた自分を嫌悪する。これじゃ、新学期前に大量の宿題がのしかかって呆然とする小学生並みだろ。
 そんなことを考え、ビールを口にする。不味い。

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(2)
 2時間ほど経ったので、そろそろ妄想から覚めてもらおうと思い、入浴中の夏に声をかけた。すると夏からの返答は呆れたものだった。” 風呂 ” が好きだと言い訳している。
 あのな。
 それは、" 部屋で待たせている彼氏 " なんかより " 風呂 " の方が好き、という意味に取られてしまうんだぞ? ちゃんと考えてから話せよ。パジャマの事といい……。
 ダメ出ししたいことが山ほどある。もう少し上手く応対しないと、この先困るぞ。


 そうして夏は、のぼせ気味の顔で風呂からあがってきた。
 なんだその、ぽわんとした表情は。どこまで別世界を彷徨って来たんだ。
 ほんっとうにめんどくさい。
 こんな気持ちにさせるな。
 ただ、きちんとパジャマを着て立っているだけの夏に、立ち直れないほど萎えたこの状態。
 なんで俺が俯かなくちゃいけないんだ。


 この詰まるような息苦しさは後悔以外の何物でもない。あの時どうして、” 付き合う ” なんていう解決策しか頭に浮かばなかったのか。
 行動の根っこに使命感みたいなくだらないもんがあったせいで、うまく先が読めずにミスってしまった。慣れない親切なんてするもんじゃないな。
 立ち直れないほどヘコんでいるのに、全く気付く様子のない夏。
 ふて寝してやる。


 ぼんやりと耳だけで夏の気配を窺う。
 静かだな。何事も無くてホッとしている、そんな所か。
 顔をあげて時間を確認した。そろそろ腹を決めよう。
「話、したいから」
 そう言うと夏の顔がパッと赤くなった。何か甘いものを期待しているらしい。
 やっぱり、言うしかないんだな。ほかに手は無いんだな

「別れようか」
 言った後で体から力が抜けた。

 その最終的な一言で、自分自身が回復できそうにないダメージを受けていた。
 こんな簡単な言葉を伝えるだけなのに、なんで言った後もサッパリしないのか。疲れは溜まる一方だ。
 頼むから眠らせてくれ。そう思っても、彼女は事細かに事情を説明されたいらしい。誰か助けてくれ。

 冷たい手で引っ張り起こされた。
 やっぱりこのまま寝させてくれというのは無理らしい。適当に理由をつけて帰ってしまおうと思った。
 もう言うべきことは言ってしまったし、それ以上の補足説明はできない。
 それなのに、夏が泣く。めんどくさい……。なんで泣く? そこまでして俺に執着する意味が分からない。

 でも、それを言うなら、俺も意味の分からないことをしている。
 俺は夏に執着はしていなかったが、無関係だと思っていたわけでも無かった。
 だから、彼女に押し切られるという形でなんとなく会ってしまう。そしてその度に、イライラしていた。
 もしかすると、俺は、彼女を上手くコントロールする方法を探していたのかもしれない。
 そしてそれができないことが、負けだと思っていたんだ。
 まったく意味がわからない。
 そんな自分に嫌気がさした。いつからこんな人間になったんだろう。
「理由は夏が好きなように考えろ」
 情けなさ過ぎて説明できない。もう、どうとでも取ってくれ。

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(3)
 俺の言い方がマズかったのは分かっている。
 別れるのに明確な理由を言わないなんて不自然だ。
 でも、ここまで別れずに長引かせた後で、一体どんな理由を言えば信じてもらえる? 何を言っても『じゃあどうして今まで?』と言われるに決まっている。

 そんな、微妙に沈鬱な雰囲気をぶち破る勢いで、夏が例の自虐を繰り出してきた。
「隠さないでよっ!! 私の悪いとこ、ちゃんと言ってよ! すぐ、直すから!!」
 またか。
 いつも自分が悪いと勝手に決めて謝ってくる。もう、呆れるを通り越して笑えて来た。
 夏はプンプン怒っている。
 顔も首筋も真っ赤だ。
 この眼前の光景はいつかと同じ。血行を良くしすぎて倒れないか、心配になる。

 夏と一緒にいるのも今夜で最後なんだなと思うと、少しは優しくした方がいいのかと考える。それとも夏なら冷たくされる方を望むのか。
 どちらが正解なのか、複雑すぎてよくわからない。今夜は考えすぎて疲れた。

 一応、別れることを伝えたせいで、肩の荷が下りた。
「で、どうすればいい? 一緒に眠るか? 一緒に朝まで話すか?」
 一晩一緒にいたとしても大したことは起こらないと分かっていたから軽く訊いてしまったが、考えてみればキスを迫った程度で怯えられたんだったな。
 肉食系の妄想をしたり、お姫様のような態度を取ったり、夏の脳内は不思議だな。
 不思議、というか、客観的に見れば退屈しない。あくまで距離があればそういう風に見ることもできる、という話だけどな。

 夏の手を握り締める。
 冷たい。
 しばらく掌で包んでいても、冷たいままだ。俺の体温は伝わらない。そんなところまで夏らしく、人に影響されることがない。
 夏が、くたっと体を寄せて来たのでその顔を覗き込んだ。唖然として見つめてしまう。彼女は既に熟睡していた。
 朝まで話すことを選択したんじゃなかったのか。まだその手も温まらないうちに、もう寝るのか。

 夏は気持ちよさそうに寝息をたてている。
 こんなに近くにいても、俺は緊張すらしてもらえないらしい。もしくは3D認識されていないのかもしれない。
 いや、単に眠いという生理的欲求が強いだけか? 自己防衛本能欠落の究極の形か?

 夏の感情、夏の脳内、夏の生態、その全てが、熱帯雨林のようにうっそうとしている。
 改めて思う。
 分析という形でしか相手と対峙できない俺は、絶対に夏の彼氏には向いてない。

 それにしても……。これじゃ、まるで電車の中だな。
 肩にかなりの重みを感じる。
 無下に押し返せないまま時間が過ぎて行く。


「おい、夏」
 名前を呼んでも起きない。
「朝だし起きろ。もう帰るからな?」
 頬を軽く叩いても起きない。
 仕方がないので座席ゴッコはやめて、彼女の重い体をベッドの縁へと預ける。その快眠を横目で見て舌打ちした。
 今は、彼女は眠っているんだから舌打ちなんてする必要が無いのに、もう癖になっている。

 その時、夏は何を夢見ていたのか、俺の手を振りほどこうとした。
 おかげで初めて気付いた。
 俺はずっと、夏の手を握ったままだった。
 結構強い力で。


 正直、今までの事を全て納得いくように説明しろと言われても、何を伝えていいかわからなかった。だから、夏が眠ってしまったこの状況は、まさに好都合だった。
「悪いな、夏」
 色々とハッキリしなくて申し訳ないとは思うが、話をする間もなく眠った夏も悪いんだからな。
 今、こうしてぼんやり夏の顔を見てるのは、なんとなく情が移ったってやつ。
 化粧していないから、まるで子どもが寝てるみたいだ。いつもはパッチリ開いているまぶたを閉じていると、睫の長さがはっきり分かるな。
 そうか、こういう顔して眠るのか……。


 さて、放置して帰ろう。
 夏はきっと、無意識にそれを望んでるだろうからな。

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(4)
 その後の土日、つまり昨日、一昨日に、夏から何度かメールが来ていた。ただ、俺が返信しないのはいつものことだ。
 メールの内容からすると別れたくないようだが、寝てしまったのは夏の方なので、あまり強い態度に出られないらしい。絵文字も控えめでどことなく遠慮気味だった。
 夏の場合、返事がなくても不安にならないように鍛えておいただけあって、むやみに電話してくることはない。あんな別れ方にしては、なかなか静かな状況だ。
 そして今日は3月最終週の月曜。

 この会社はHR特別部(通称HRS)なる妙な部署があるだけでなく、月曜には奇妙な朝会を行う。
 ” 美男美女が、爽やかに、にこやかに、スマートに、業務に従事する職場 ” を実現させるためには、そこに ” ストレス ” をのさばらせてはならないという発想の下に生まれたらしい。
『新しい週を気持ちよくスタートさせよう。自由参加の30分の会で気分をリフレッシュ!』
 そんな耳ざわりの良いフレーズで飾られている朝会だが、内容もノリも小学校の学級会とほぼ同じ。学校教育の延長線上に社員育成の機軸を見出そうとする、この会社の幼稚さにはほとほと呆れる。

「HRSの、特に上野君の指摘する範囲は、余りにもプライベートに踏み込み過ぎていると思います。僕は交際相手のことまでとやかく言われたくありません……」
「上野君の言動は個人の名誉を著しく傷つけています。私は元々太りやすい体質なんです。決して毎晩飲み歩いているわけではないんです」
 ありとあらゆる部署の連中が顔を出し、ここぞとばかりに文句を並べたてる。とても自由参加の朝会とは思えぬほどの活況ぶり。
 この朝会に中立的立場の進行係はいない。言いたい人間が言いたいことを言う。まさに、ストレス解消にうってつけだ。
 しかし、普段から一番ストレスをため込んでいるHR特別部の人間にとっては、ここは発散の場所ではない。それどころか糾弾され弾劾され続ける、いたたまれないステージになっている。
 おかげで、HR特別部からこの朝会に参加する人間は、いつも俺を除いてほかにいない。

 何度も同じことを訴えられ、そのたび同じ返答をする。
「プライベートな内容も、結果的にパブリックな部分に影響しているから、指摘せざるを得ないんだよ」
 その返答に対し、十倍の異議が返って来る。
「それなら、人前で言わなくて良いでしょう!」
「悪意しか感じませんけど!」
「わざとムカつく言い方してますよね?!」

 会議室の中、集中砲火を浴びて黙り込んだ俺を、皆が固唾を呑んで見守っている。何か言えばすぐに叩き潰すと言わんばかりに目を剥いている。
「率直に言ってるだけ。『わざと』なんて言うのは性格に被害妄想的な歪みを感じる」

「はああ〜??」
「私たちが悪いって言いたいのー!」
「一番性格が悪いのは誰だよ!」
「今すぐ消えろ!」

 今週は決算月の締めくくりだからだと思うが、苛立ち具合が見事だ。数分間怒号が鳴りやまなかった。
「ご不満はよくわかるんだけど」
 俺が言うと、嘘つくな、とか、真摯に反省しろ、だとかいうヤジが飛び交う。
「まあまあ、お静かに。今日は皆さんに吉報を持って来たので聴いてくださいよ」
 言いながら笑いをかみ殺した。ふだん無表情なせいか、微かに笑っただけなのに、面白いように辺りが静まり返る。
「私は四月から本社勤務になります」
 俺は異動の希望が通ったことを報告した。

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(5)
 数秒の沈黙の後、がっくりと項垂れる姿が多数あった。幾つもの溜息が続く。その後にようやく呟きが聞えて来た。
「そうか……」
「とりあえず、上野さえいなくなれば平和だ……」
「永い永い戦いが終わったな……」
 会議室がお通夜のようにしんみりとする。それは、当然、俺の転出を悲しんでいるんじゃない。人間は真の喜びに直面すると、体の力が抜けるもんだ。

 その心境は俺だって同じ。
 巨大なストレスだった夏から、先週ついに解放された。そしてこの職場の雰囲気からも今週で解放される。数日後の四月が待ち遠しい。

 朝からそういう気分だったせいで、いつもなら何も考えずに参加するこの朝会に、今日はかなり前向きな気分で参加した。
 そんな有頂天具合が思わぬ不運を呼びよせたのかもしれない。

 何年か先輩の男子社員が、俺の目の前で不意に呟いた。
「転勤か……。それが理由で上野君は、彼女と別れるのか」

 一瞬、意味が分からず呆然とその人の顔を見つめた。その人は俺の視線が痛かったらしく、困惑気味に付け足す。
「さっき……始業前、うちのビルの前で夏原さんから聞いたんだよ。君たち別れるんだろ?」

 ちょっと待て。
 会社が近いし、会って話をするくらいはまあ……ありえないわけじゃないか。え、あるのか……? あったのか……? 俺が知らないだけで? 今まで何度も??
 そうだ……。そうだよ、ずっと、あの事が引っかかってたんだ。
 なんで夏は俺の彼女なのに、例のランキングの女王の座にいまだに君臨してるんだ。
 同僚二人の遊びで作られたはずのランキングが更新されつつ社内を独り歩きしているだけでなく、この支社の男子社員の指標になっているだろう。違うのか?

「なんでそういう話題になるんだろうな」
 俺の強い口調に、相手は明らかに動揺し慌てて訴える。
「話し掛けてきたのは夏原さんの方からだからな! 僕はほぼほぼ初対面だし……」
「夏原さんがそんなことを突然話し出した、とでも言いたいのかな」
「その通りだよ。夏原さんは君に振られる理由がよく分からないとかなんとか……。上野君、そういうことはちゃんと伝えた方がいいんじゃないかな……」
 視線を逸らされ、早口で言い訳された。
 この男は俺の彼女だと知ってて夏に近づけるほどメンタルは強く無いな。それに、わざわざ俺に言う必要もないしな。たまたま会って話しただけか。
 ということは、だ。
 親しくもない人間にそういうことを平気で相談できるのか、夏は。……フザケんなよ。

 その話を適当に終わらせようとした時、周囲の変化に気付いた。

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(6)
 そうだったのか?……
 夏原夏と上野は今、何の関係も無いってよ。
 じゃあ、彼氏いないんだな……。
 へえぇぇ……いないんだ……。
 へえぇぇぇぇ…………。

 そんな風にひそひそと囁く声が聞こえてきた。

 この状態は……。

 いや……冷静になってよく考えてみろ。
 別に、今日からは誰が夏と付き合おうと構わないはずだ。夏にとって、今までのホログラムのような男を忘れて新しい恋をスタートさせるいい機会だ。どうぞご自由に、と言いたい。
 ご自由にどころか、できるだけ早く新しい彼氏を作ってほしいと願う。ランキングなんかに飛びつく野獣どもが犯罪を起こさないための抑止力として、俺の去った後、しっかりした彼氏が必要だ。下劣な男ども……そう、HR特別部の同僚たちのような犯罪者的な目で見る外道から守ってくれる男が必要なんだ。

 どの男だ。夏を守れるだけの器量のあるやつはどこにいる?

 会議室の男子社員の顔を見渡した。
 ニヤニヤと野卑な笑みを浮かべている。口元はだらしなく、目つきもいやらしい。

 普通の男が、……まともな男がいない。
 いない……。


どいつもこいつも……犯罪者予備軍に見える。



 俺はその時、やっと状況を悟った。
 夏の周囲にまともな男がいない。
 それを知っていて、俺はこのまま無視し、夏を放置し、去ることができるのか。
 いやできない。もしできていたら、最初から付き合ってなんかいない。

 敵だと認識すらしていなかった雑兵に囲まれて、俺は身動きできずにいた。
 生態を見定めることに長けたHR特別部職員の特質が、完全に仇となっている。
 ゲスな男どもが、まさか、結果的に夏の援軍になってしまうとは……。



 おどおどしている先輩をもう一度見て、すぐに姿勢を正した。
「夏原さんがそんな事を? じゃあ、彼氏になれるんじゃないかと期待する人が出てくると可哀そうだし、はっきり言っておかないとな」

 男たちの強い視線を感じた。会議室はまた、不気味な静けさに包まれている。
 最低さで言えば、この中では俺が一番マシだろう。

「そもそもレベルが違うんだよ。ここにいる男性社員レベルじゃ、夏原さんに話し掛ける資格も無いな」
 何のレベルかは各自勝手に想像すればいい。
 その結果、殺害予告が二倍や三倍になったところで、痛くも痒くもない。


「とにかく……」
 腹を決めて視線を上げた。
「振ったとか振られたとかいう話は誤解なので……軽々しく夏原さんに近寄らないようにお願いします」

 その場に戦慄が走っていた。
 俺が頭を下げる姿は、そうそう見られるものじゃないだろうからな。
 まあ、置き土産みたいなもんだ。

「彼女には、私がいるので」

 その公言に反発する者はいない。

 これは、自爆に等しい。


Part2に続く≫ 
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