M of L - 夏さんの、恋する意義 -

【あらすじと目次】

●あらすじ●

若いとは言えない26歳の夏原夏は恋をした。完全なる一目惚れで主導権は常に相手の上野紘一が握っている。
それでも食らいついて来た8ヶ月後、エンディングを迎えることになる。ええ? 始まって早々エンディング?
叩きつけられたエンディングをものともせずに突き進む夏さんの恋は、どこまで成長していくのか。
20代後半だろうが、妄想癖があろうが、つい応援せずにはいられないオトボケ主人公は、今日も迷惑を振りまいていく。
1話(6節〜8節)7500〜10000字程度、長編。

 

●目次●

Part 1 ; Look at me !
  第1話 私の彼は   /  第2話 俺の彼女は  /  第3話 彼のセリフ  /  第4話 彼女の妄想
Part 2 ; I miss you ...
  第1話 彼の行方は  /  第2話 私の彼女は  /  第3話 彼女の彼は  /  第4話 俺の周りの人間は
Part 3 ; I need you !!
  第1話 四月は始まった / 第2話 遊園地へGO! /  第3話 六人の思惑  /  第4話 痛み止めのキス
Part 4 ; I'll hold you !!
  第1話 ホンモノは誰だ   /  第2話 君を想うゆゑに  /  第3話 恋   /  第4話 彼の気持ち

スピンオフ企画
  バレンタイン・トラップ   /

 

(1)
「……………………」
 無言でゲームをしているこの人は、おそらく私の彼氏と考えて良いはずの人、上野紘一(うえの・こういち)。26歳で、某一流企業の社員。
 今日は一応デートをするつもりで会いに来たのに、彼は目の前にいる私、夏原夏(かはら・なつ)の姿が見えていないらしい。
 3月になったばかりだから、まだ寒い。どこかへ出かけるのが嫌なら部屋でくつろぐのも悪くない。彼はとても……リラックスしている。ここは彼の実家のリビングだから。
 それはいいよ。デートに場所なんて……多分、関係ない。それが問題なんじゃない。
 彼に話しかけても反応しないので、辛抱強く彼がゲームをやめるのを待っていた。でも、一向にやめる気配がない。私、何をしてるんだろう。


 付き合い始めたのは去年の7月21日。
 昼休みにトンカツ屋さんでたまたま相席になり、私が一目ぼれしてしまった。その時は紘一も優しかったし、付き合わないかと言ってくれたのも彼からだった。
 当然ラブラブな日が始まるんだと思っていたのに、すぐに相手をしてもらえなくなった。
 忙しいからと言う理由で平日は連絡が無い。それだけでなく、こっちからしつこく連絡を入れないと日曜ですら会おうとしてくれない。電話もメールもラインもスカイプも盗撮も盗聴も、何もない。
 どうしてこんな可愛い彼女を放っておくの。
 もう付き合って7カ月と12日になる。
 確かに付き合ってる期間は長いけど会った回数は少ない。会話もあまりない。それを考えると仕方ないのかなあとも思うけど、もっと進展しててよくない? または、とっくに別れてても不思議じゃないよ。
 なのに中途半端な毎日が続く。お互いのプライバシーには全く触れることなく、いまだ、”実家のお茶の間”どまり。
 愛の言葉はない。
 ボディタッチもない。
 キスもない。
 当然……その先があるわけない。

 泣きそうだ。いや実際、寝る時には涙しているんだよ。

 とにかく、やっと会ってくれた今日、日曜日。2時に来いと言われたからキッカリその時間に来てみると、紘一はまだ寝ていた。そして起きて来て食事もせずにすぐに”実家のお茶の間”でゲームを始めた。
 ご飯も食べずにゲームする気だったなら、なんで私を呼んだのさ。
 でも、私からしつこく会ってほしいと言った手前、紘一に不満をぶつけられない。会いたくてたまらないのはいつも私の方。私の立場は弱い。冷たい態度も強く批判できない。

「夏ちゃん、来てくれてありがとうー」
 紘一の妹の美羽(みわ)ちゃんが笑顔で紅茶を運んでくれた。もうすぐ大学を卒業する彼女。もう、どこの男だって惚れるでしょうっていうくらい超かわいい。仕草も、話し方も、表情も、何を取ってもアイドル並み。あざといと感じる時もあるけれど、それは胸にしまっておこう。
 そんな美羽ちゃんの兄である紘一も格好良い。うん、ここは強調しておこう。私の周りの男子の中ではダントツに格好良い。
 ただ、なかなか会えないから、その顔を忘れそうになる。
<きっと疲れてるのに、無理して私のために時間を作って会ってくれたんだ……。今日は、紘一の顔をしっかり見て帰ろう>
 もう、そう考えることでしか自分を救えない。なんとかヘコまないようにするけれど、やっぱり無理。絶対無理。思わず俯いて泣いていると、紘一がスッとティシューの箱を私の前に差し出す。
 なんで、それだけなんだよっ!!!
 言葉くらいかけて。その前に泣かせないでっ。
 でも、でも……。
 今日はウザい顔されなかったから、良しとすべきだよね。

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(2)
 美羽ちゃんが私の顔を見て、申し訳無さそうに尋ねる。
「お兄ちゃん、優しくしてくれます?」
「えっと…………。たぶん……優しい……んじゃないかな……」
 会ってくれないし、甘えさせてもくれない。でも、どうしてかな、憎めない。やっぱり格好良いからかなっ。でへへっ。
「そうですかあ」
 美羽ちゃんが俯いたので、私は紘一には聞こえないように尋ねた。
「どうかしたの?」
「……実は、お兄ちゃんね……」


 その日も、リビングで美羽ちゃんや彼の両親と話していただけで終わる。約4時間待っていたがだめだった。
 夕飯時になったので失礼することにした。彼の家族には、ご飯食べていってと誘われたけれど辛い。辛すぎる。だって紘一は顔を上げずにまだゲームをしている。『食って帰れば?』なんて引き留めてくれることを期待しても無理。……なので丁重にお断りして彼の家を出ようとした。
 6時だった。ひとり暮らしをしているので、どこかで食べて帰ろうかなと思っていた。すると部屋の奥から紘一が玄関に出て来た。まさかのお見送り? いや違う。紘一は私の隣で靴を履く。どこかに行くみたい。
 紘一は家族に向かって言う。
「外でメシ食ってくる」
 彼の家族は驚いていたし、私もなんでだろうと不思議に思った。
 紘一は私の前を通って玄関を出ながら「行くぞ」とだけ言った。
「え゛」
 思わず口から疑問とも驚きともつかない、蛙のような声がでてしまった。

 どうも、私を車に乗せてどこかで食事をするらしい。らしいというのは、まだ彼に何も言われてないからだ。彼はいつもそんな感じ。
 でも、そんなことどうだっていい。二人で御飯を食べようと思ってくれるなんて! 超うれしいんだけど! どこへだって黙ってついていくから!

「焼肉な」
 車の中、紘一はそう呟いた。おそらく、焼き肉にするけど文句があるならさっさと降りろ、の略。
 文句なんて言うわけないでしょっ。こんな貴重な時間は逃しませんて。

 でも……そうかあ。紘一って焼肉好きなんだ。知らなかったな。知らなかったよ……。私。こんなことも知らないんだ……。
 また果てしなく落ち込む。

 紘一は焼肉店に入ると、すぐにビールを頼んだ。
 ビール飲むって、つまりそれは……。
「夏は何飲む?」
 紘一は、メニューを見ながら言う。私の顔を見てくれることも無い。
「ウーロン茶」
「ビールは?」
「……今は飲めないよ」
 私まで飲んだら、誰が運転するのよ。
「そう言えばそうだな」
 紘一は平然と運ばれてきたビールを飲み始めた。

 ク……。
 私を誘ったのは、単に運転手が必要だったってことかっ!
 そ、そんなことくらい全然へーきなんだからね。
 私は、こんなくらいじゃ負けないのだ。

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(3)
 私と紘一は同い年だ。
 よく言えば執着しない悪く言えば無関心な彼の態度からは、感情が見えなくていつも戸惑う。対人関係も希薄。特に、特に、この一番大切にすべき彼女の気持ちを考えたことがあるのかな。考える所まで期待しないから、私の顔や名前が頭によぎることはないの?

 ふと、美羽ちゃんの言葉を思い出す。
「実は、お兄ちゃんね、夏ちゃんと付き合う前までは、1カ月くらいですぐ別れちゃってたの」
「……へえー、……サイクル短いね……」
「うん。理由知らないし、振ったのか振られたのかわかんないけど」
 間違いなく振られているはず。こんなにマイペースじゃ。
「だから、夏ちゃんとはずっと続いてほしいな、と思って」
 それは……。
 私に言ったってさあ……。
「だってお兄ちゃん、今まで女の子を家に上げたこと無いんだよ?」

 それってホントかな。とても好かれているとは思えないんだけど。
 期待せずにじっと我慢する。それが紘一と付き合うコツなんだよなあ……。


 食べ終わって車に戻ると、車内には焼肉の臭いが充満した。
「くさいな」
 そう言ってから、紘一はガムを口に放り込んでいた。

 8時かあ……。
 紘一と付き合い始めて、急速に運転が上手くなっていく。そんな自分の彼女に対して、罪悪感というものは無いの?
 でも、車内の二人の距離には、わくわくする。かなり近いし、これって紘一もドキドキしてるんじゃない?
 赤信号になったので彼の様子を窺うと、……まっすぐ前しか見ていなかった。

「紘一、どこか行こうよ」
 まだ8時だよ?
「こんな臭いさせて、どこ行くんだよ」
 確かにそうなんだけどさ。臭いなんて気にならない場所だってあるでしょ。
「……私の部屋とか……」
 そう言うと、彼はしばらく黙ってから溜息をついた。
「なんで」
 思わずぐっと言葉を飲み込む。
 なんで……?
 それをわざわざ説明する必要があるかな。
「い、……一緒に、いたいから……」
 私は恐る恐る口にした。
「だから、なんで」
 静かに問う紘一を凝視する。目が暗いよ。全くと言っていいほど顔に感情が浮かんでいないんだけど。

 そんな彼の寂し気な表情を見て思う。
 紘一はどんな時も感情的にならない。一流企業に勤めてる人だから、頭が良くて冷静なだけだと思っていた。
 でも……もしかすると孤独なんじゃ……。彼は冷たいけど、実は寂しがり屋で、わざと突き放して私の気を引こうとして『夏はなんで俺の気持ちに気付かないのかな』なんて言いながら、ちょっと上目遣いで子どものように睨んだりして、私が『だって紘一って何も言ってくれないし……』と言うと『夏と俺はお友達じゃねーよ!』『え、ちょっと待って紘一……』抵抗しても強引に彼に抱きすくめられて……
「夏、信号、青」
 隣でだるそうな、単語だけの紘一の声がした。
 外国人に道を尋ねられて、なんとか応える日本人の英会話並み。

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(4)
 紘一の何時にも増して冷たい態度に動揺し、運転できず、車を公園の近くの歩道脇に止めた。
 すると紘一は、かなりウザそうな顔をした。
「何で停めた」
 さっさと帰れと? このまま紘一の家に彼を送っていって車を返してから、独り電車で帰れって? よくも女の子にそういうことをさせるなといつも思う。
 でももう、それでいいから、すこしくらい寄り道しようよ。それくらいはしたっていいはずだよ!

 私は運転席の窓を全開にした。もうヤケだ。
 真冬のような冷気が一気に車内に入り込む。
「何やってんだよ」
 頭のてっぺんをペシッと叩かれた。
「……だってさぁ……」
 つい不満の声を上げると、紘一はチッと舌打ちした。
 だって……。寒ければ、温かい場所に行きたくなるでしょ?! 冬はもう終わっちゃったんだよ?? いつ肌を寄せ合うっていうのよ。露出の多い季節より、震えながら抱き合う、みたいな、隠してこそ盛り上がる、みたいな、そういう色気がわかんないかな……。でも紘一になら、言ってくれればいつだって全部をさらけ出す覚悟はできてるんだから、なんでそこで遠慮しちゃうかな。『ほら、隠してないで全部脱いじゃえよ』とか言って、強引にセーターを引き上げてくれたら私もこの手を……
「だってさぁ……?」
 紘一にギロリと睨まれて思わず竦んでしまった。
「だってさぁって、なんなんだよ。言えよ」
 なん……。そ、そんな怖い顔する?
 私は尖らせた唇を一文字にしてから、ギュッと噛みしめた。
「だって……」
「なんだ、ほら、言ってみろ。言えるもんなら言ってみろよ」
 大量にアルコールを摂取している紘一だけど、そのせいで危ないお兄さん風に変貌しているわけではない。あくまでも口調は穏やか。それこそが、底冷えのするような声色になる。
 私が答えないでいると、紘一はまた舌打ちする。
 ……このまま黙っていても状況は良くならない。……仕方がない。
「ねえ……私、ほんとに紘一の彼女なの?」
 つ、ついに言ってしまった。どうしよう、激怒されるかも!
 ある程度の暴言は予想していたけれど、紘一はもっと恐ろしいことを口にした。
「彼女に昇格したいのか?」
 紘一は冷ややかに笑う。
「……はい???」

 どういう意味よ。じゃあ、今の私は何なの? ……疑問に思ったけれど訊けない。怖い。怖すぎる。

「なーんてな」
 紘一は私から目をそらして、窓の外を向いた。そしてそのまま呟く。
「夏は、俺の彼女に向いてないな」

 向いてない?
 紘一の彼女になるのには向き不向きがあるの? 紘一に好かれているとかじゃなくて?
 それはこの前、課長に、
『夏原(かはら)がプロジェクトリーダー? 無理無理。人には向き不向きってやつがあるんだよ。夏原にはそういう指導者的な素質が全くない』
と笑われた、あの向き不向きですか? 紘一の彼女になる素質が全くないということですか。
 確かに私にはリーダー的素質は無いのかもしれない。マサミはリーダーを任されたことがあるけど、あの子は、ベッドでも私が彼をリードするのよ、とか言ってたな。私だったら紘一が相手だとどうなるんだろうって想像してみて、やっぱり私が紘一の服を脱がせて、なんてありえないて言うか……それもいいけ…………
「おい、夏、聞いてるか?」

「えっ……?」
 私が驚いて隣の紘一に顔を向けると、眉根を寄せてこっちを見ていた。
「やっぱり聞いてなかったのか」
 彼はまた舌打ちした。

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(5)
 紘一はシートベルトを外すと、体を私の方に向けた。そして手を伸ばし、私の顎の左の付け根辺りをぐっと引き上げた。そこはアゴじゃないです。エラです。
「俺のどこが好きなんだよ」
 普通なら愛の問いかけに聞えるはずのその言葉。でも、これは完全に尋問。睨みつけられてる。エラクイをされて、舌打ちされて、目の前に顔を寄せられた。
 ……でも、怖さより違う感情が先に立つ。
 目を奪われる。キレイ。カッコ良すぎる。紘一の顔はいつ見ても溜息がでる。
「言えよ。まあ、言わなくても大体わかるけどな」
 そうだよね、私の気持ち……わかるよね、伝わってるよね?
 紘一の全部が好きだよー!!

 彼が話す度、さわやかなミントの香りの息が感じられた。
 紘一の指が喉に当たってくすぐったい。ちょっと待って、ヤバイですっ。

「夏……」
 目の前にある紘一の顔。そして、ためらいがちに私の名を呼ぶ。彼の視線が私の口元に移り、瞼を一瞬だけ動かした。
 えっ、えっ、そうなの? やっぱりそういう展開なの? 今夜は期待しちゃってもいいのかなっ?!
 紘一は目を細めた。
 そんな悩まし気な顔をする紘一は見たことが無い!
 待ちに待ってたこの瞬間。今日でプラトニックは卒業かもー! 結構時間はかかりましたが、これからは彼と手をつなぎ同じ道を歩いていくこととなりました。二人で力を合わせ、支えてくださる方々に……
「マジで焼肉くさい。顔で煙を受けてたのか?」

 ……顔が……くさい……。

「そ、そ、そ、……」
 それは、焼肉食べたんだから、不可避ですよねーーー!!

 紘一はもう何度目かわからない舌打ちをしてから、私のエラにひっかけていた手を引いた。
「いい加減にしろ。さっさと車を出せ」
「わ、わ、わ」
 あまりの彼の態度に、言葉にならない言葉、声にならない声が口から漏れた。
 私の顔を見ていた紘一は、すぐに視線を逸らして俯き、そして目を伏せた。
「運転できないんなら、代わろうか」
「だ、だ、ダメッ」
 やっぱり私に呆れているんだろう。免停になりたいはずはないし、これは……本気で怒る前触れかもしれない。

 無視されたことはあっても、怒りをぶつけられたことは今まで一度も無い。静かな人が本気で怒ったらどうなるのかわからない。ここは謝っておいたほうがいいかも……。私は……特に悪いことはしてないと思うけど。
「ごめんね」
 私はチラと紘一を見た。
 すると彼は顔を上げた。睨まれるのかと思ったら、苦い表情をしていた。
「またか」
 それは、謝って当然なのになんでいつも気付くのが遅いんだ進歩しろバカ、という意味かな。
「う、うん……。ごめん……」
「いいから謝ってないで、運転しろ」
「あ、はい」
 よかった。さほど怒ってない。少しは怒ってるかもしれないけど、そこには触れないで運転しよう。きっとそうすれば機嫌は直るはず。

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(6)
 彼の家に着き、車を駐車場に停めた。エンジンを切ったけれど、紘一はなぜか降りようとしなかった。
「着いたよ」
「ああ、着いたな」
 淡々と返すけど、紘一は動かない。え、どうしたらいいの???
 彼は視線を助手席の窓の外に向けていた。
「夏は、仕事うまくいってんのか」
 意外な質問に戸惑う。そんなこと考えてくれてたの? 冷たいフリして優しさを小出しにするなんて、ハートわしづかみされちゃってますっ! ちょっと卑怯すぎません?!
「うんうん、順調だよー。今度プロジェクトリーダーにならないかって課長に言われてさー……なんていう日も来るかなって考えたりしてます……」
 化粧品なんて扱ってるから女子社員多いし、なんか意地悪とかあるからストレスたまってちょっと限界に近いけど、でも、そんなことは言えない。だって辞めたいなんて弱音吐いたら、また舌打ちされそう。
「何の仕事だっけ」
「え?」
「会社は知ってるけど、何やってんだっけ」
「え?」
 何……って。……ニ、三度、言ってますよ。
「……販売企画の立案とか……」
「へえ」

 ……紘一の頭は、私との会話のキャッシュを、その日のうちに消去しているようですね。
 それじゃあこの会話は無駄ですよね。 ずっと窓の外を見たままだし、わざわざ時間を取ってまでする必要ありませんよね?
 でも……。
 一秒でも長く一緒にいれるのは嬉しいっていうか、紘一が帰らないのも私と2人きりでこの狭い密室で一緒にいる時間を長引かせたいっていうことかもしれなくて、それって、私の何を求めてるのか訊いてみたいんだけど、そしたら紘一は答えるより先に私の肩を引き寄せたり……
「で、夏、なんで帰らないんだ?」
 突然振り返って尋ねる紘一に、一気に現実に引き戻された。
 ……今、なんで帰らない、って訊いた?
「帰れよ」
 促された。
 ……帰れって促されたよ……。

「なんでっ……て」
 思わず口をついて言葉が出た。
「そんな当たり前なこと訊く?……私は、紘一が好きで一緒にいるんだよ……?」
 わからないなんておかしいよ。
 紘一はその問いに間髪を入れずに言い返してきた。
「だから、さっき訊いただろ。俺のどこが好きなんだって。夏は、答えなかったよな?」
「訊く方がおかしい!!」
「なんで」
「だから!!」
 なんでって訊かないでってば!!
「全部好きなんだよ!」

 いくら私が熱くなっても、紘一は冷めた目をしていた。

「へえ。それは知らなかったな」

 またそんなことを言う……。
 アクセス拒否してやろうかなっ! できないけど。 
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(1)
 リビングで悶々としてるのは、夏原夏(かはら・なつ)、某有名化粧品メーカーの社員。
 俺がゲームをしている間、ボケッとした顔で紅茶を飲んでいる。
 寒いから外に出たくない、なんて一言も言ってないのに、実家でゲームに没頭する男を相手に何を考えてんだろう。
 かれこれ 4時間 だ。
 普通なら帰ると思うけどな。いい加減にしてくれないと、こっちの方が辛くなる。ゲーム漬けにさせるなよ。

 夏は自己認識ができない。現状認識能力も低い。その上、妄想癖がある。
 印象としてはもっと控えめでおとなしいタイプだと思っていた。
 全然違う。
 結構な頻度で理性を失うし自己嫌悪に陥ったり自虐的になる。それだけでもイラッとくるのに、些細なことで舞い上がって手が付けられない。
 もう、疲れた。

 夏のレベルを把握できなかった俺が悪いと言われればそうだ。今となっては、最初に気付きませんでした、では済まない。
 半年付き合っているが、この激しい起伏には悩まされ続けている。ん? 半年……かな? よく覚えて無い。とりあえず最近の俺にしてみれば長い。
 夏は自分の彼氏の上野紘一(うえの・こういち)がどういう人間かよく知らない。それなのに、無邪気に二次元にのめり込むやつのような目で俺を見ている。
 なぜ彼氏が、こんな、ほぼ無視状態を続けているのか、理由を知りたくないのか。まあ、訊かれても答えないけど。


 俺は入社してすぐ、ある部署に配属された。
 4年経った今もそこで淡々と与えられた仕事をこなしている。
 この部署にいる誰もが、遅かれ早かれ『休養届』『異動願』『休職願』『退職願』を順番に書くことになる。

 業務内容を一言で言えば、学生時代に誰もがウザいと思っていた、クラス委員長や風紀委員、生活指導の教師ようなものだ。
 とにかく一流でありたがるこの会社は、社員に高い理想を押し付ける。
 美男美女が、爽やかに、にこやかに、スマートに、業務に従事する職場……。そんな、どこの世界にも存在するわけがない空間を作り上げようとしている。
 社訓だかなんだか知らないが、たまに社内報で呼びかける程度でいいはずだ。なのに、なぜか社長直轄部門として各支店に専任の社員を数名配置している。その部署では入社したての平社員が、管理職並みの権限を持つ。
 なんでこんな無意味な部署を作り上げるんだ。
 もっとほかに予算を回せよ。

「田中君、徹マンで酒飲んで課長の悪口言う元気があるなら、課の雰囲気のために笑うくらいしなさい。そんなだから、40近くなっても課長代理なんだよ?」
 田中サンが『死ね!』という視線を向けてくる。
 そりゃそうだろう。
 俺が何か言うたび、大抵の人間が『ウエノ、コロス』と非公式で呟く。

 入社試験の最後で何かおかしな問題を解かされるなと思っていたら、どうやらこの部署の適性試験だったらしい。
 社員全員の生活状況を把握して改善させるために、記憶力と忍耐力、社員を統制できる右寄り思想、分析力、冷徹さを併せ持った、どう考えても人に好かれない人間を選抜する試験。
 入社後、自分の配属された部署の業務内容を知ってから、所属長の長谷(はせ)課長に、
「まさに君のような人材を探してたんだよ!」
と言われた。
 今後どうやって生きて行こうかと思った。

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(2)
 配属されることが決まった途端、” 島流し ” だの ” 流刑 ” だのと言われ、クソ扱いされた。
 俺は、既に4年も服役している。

 要するに、嫌われ者の溜まり場、それがHR(ヒューマン・リソース)特別部だった。
 なんでも特別とつければいいもんじゃない。


 それは去年の夏頃のことだった。
 同僚の二人とストレス解消によく飲みに行くが、やつらはかなり荒(すさ)んだ考え方をするようになっていた。
 HR特別部に配属されて数か月で目が座っている。そして常時、半笑いになっていった。
 かなり危ない。そんな精神状態でどうする。4年いてもさほど変わらない俺の立場はどうなる。

「美人限定、一番落としやすい子は誰だと思う?」
 そんなことを言い出すなんて、かなり追い詰められている証拠だ。どこかで発散させないとレイプ事件でも起こすんじゃないか? マズいな。共犯者として新聞に載りたくない。

 ある日、やつらは ” カハラナツ ” という名前を口にした。

 ” カハラナツ ” の会社は俺の会社の真向かいのビルにあるらしい。
 男たちは、車道を挟んで見えるその景色をいつもチェックする。自分が通う高校は共学なのに、校内の女子より、隣の女子高の制服を着ている子が気になるような感覚なんだろう。
 綺麗な子、可愛い子、着飾ったお嬢様風の子たちが次々とそのビルへと入って行く。やつらはその中の一人を指して噂をしていた。

 同僚たちは、” 比較的簡単に仲良くなれそうな女子ベスト10 ” というランキングをつくって俺に見せてきた。
「どう思う? 夏原夏が、ちょうどイイだろ?」
 ちょうどイイ、なんてことをゲスい顔で言う。そしてその理由をいちいち説明する。
 男がいないに違いない。根拠……見た感じ。
 欲求不満に違いない。根拠……見た感じ。
 騙しやすいに違いない。根拠……直感。

 限りなく短絡的な犯罪を起こしやすい視点。その根拠は幼稚園児以下。


 そのランキングを目にした当日、夏とトンカツ屋で相席になってしまった。昼休みのことだった。

 なんとなく嫌な予感がした。
 普段社食を利用している俺が、外に食べに出るのは珍しい。しかも混んだ店内でたまたま相席になるなんて……。まさか、同僚の犯罪を未然に防げ、ということじゃないだろうな。

 それまで夏 に全く興味が無かった俺は、これが例の仲良くなれそうランキング1位か、くらいにしか思っていなかった。
 その程度だったのに。

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(3)
 暑苦しい真夏にひとりトンカツ。色気ゼロ。この綺麗な顔に庶民的な生活臭は似合わないのに、自覚が無いのか? もったいないな。
 同僚たちの直感も、もしかすると間違っていないのかもしれない。ひねくれたHR特別部の才能は、こういう所で発揮されるってことだな。

 何歳なんだろう、二十歳くらいか?
 近くで見ると、化粧品メーカーの社員とは思えない。メイクは薄いし綺麗な肌をしている。食事が不味くなるような、けだるい香水をまとわせていることもない。
 薄い半袖のセーターがほわっと体を包んでいるが、かなりの立体感。ロリ系美人顔でスタイルが良いとなれば、好きなやつにはたまらないだろうな。
 ただ、……雰囲気的に、どこか残念な感じが漂っている。気のせいか?
 そんなことをぼんやりと考えていた。

 すると、どうも彼女の様子がおかしいことに気付いた。
 黙ったまま箸を止め、赤い顔でじっと俺を見つめている。
「お昼休憩、ですか?」
 訊かれたので「はい」と答えた。
「会社がこの近く……ってことですよね?」
「?……そうだけど」
 訊かなくても分かりそうなことを口にしたあと、彼女はボソボソと呟いた。
「えっと……っ、あのぉ…………」
「……え?」
 まだ半分も食べていないが、彼女の態度に俺も思わず箸を止めていた。
「つき……あっている人……いま……すか……」
「…………は?」

 心臓の音が聞こえてきそうなほど首筋まで真っ赤だった。
 この数分でそこまで血行を良くして大丈夫かと、体のことが心配になる。今ここで倒れられると困る。午後からの勤務に遅刻してしまう。
 もう顔を見ないようにして食事をした。黙って食べていると、彼女は元気の無い声を出す。
「あの……やっぱり、あれですよね。こんなこと突然訊かれても、困りますよね……あは」
 確かに困るし、かなり変なやつだ。
 性格や考えていることなんて何も分からない男を相手に、いきなりそんな事を訊く神経がわからない。それとも、何か裏があるのか。別に俺を誘ってもなんら得にはならないと思うけどな。

 この不自然すぎるやつは、もしかすると俺を前から知っていたのか? と考えてから、それは無いなと思い直した。
 店に入って近くを通った時も、俺に気付いて態度を変えるなんて様子はなかったし、相席になってもリアクションが無いというか、夢中で飯を掻き込んでいた。
 騙そうとしているようには見えない。この態度をそのままの意味で受け取っていいということになる。
 その時ふと、頭の中をよぎるメッセージがあった。

 同僚の犯罪を未然に防げ……。

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(4)
 いやいやいや。
 俺にそこまでの義務はない。知らんふりをしてやり過ごそう。誰に責められることでも無いだろ。
 それなのに、やつらの荒んで病んだ状態を考えると、なんとなく落ち着かなかった。
 きっとこんなにのぼせやすい人間だとわかれば、その気にさせるのは簡単だ。腐り切っているやつらは手段を択ばず嬉々として落としにかかるだろう。そして多分、この無防備な美人は、落とそうと思えば簡単に落ちそうだ。

 隙だらけのターゲットを、このままにしていていいのか……。
 俺には全く関係なかったのに、目の前でこんな顔をされると嫌な気持ちになる。何かあった時、俺にも責任の一端があるような気がしてきた。
 どうなんだ? いや、本当に犯罪が起こる可能性なんて低い。考えすぎだろ、多分。
 仕事柄、嫌われるのには慣れていて誰にどう思われても気にならない。恨まれたって別に構わない。
 そう結論を出してから、食事を終えて立ちあがった。
 彼女は途中から食事ができなかったらしく、残したまま無言で俺を見上げていた。
 泣きそうな、恨めしそうな目で見つめてくる。

「……何?」
 訊いてみたが何も言わない。

 まるで捨て猫のように視線だけで訴えてくる。
 見捨てられたら死んでしまうと言わんばかりだ。
 なんなんだよ。ほんのひとかけらしか無い良心を、ピンポイントで責めてくるなよ。

 その時俺は、夏に対して何の感情も持っていなかったわけだから、当然、彼女に関する予備知識なんて持っていなかった。どんな人間か知らなかった。
 なのに。

 夏の、見知らぬ人間への無警戒を、もう責められなくなった。
 突然湧いた同情と後ろめたさだけで、深い考えも無いまま無責任な言葉を吐くなんて……。自分でも信じられない。
「店の前のスタバにいるから、話があるならそこで聞くけど」
 ……あの異常な部署の業務でも過酷だとは思わないのに、そんな自分のセリフで、ストレス性じんましんが出そうだった。

 声を掛けてしまった限りは、もう引き返せない。犯罪を犯しそうな男たちが近づいて来たら身を守れと忠告したところで、どうせこんな性格じゃ……無理だな。
 ああ、めんどくさい。



「はあ? 夏原夏と付き合うことになった? ありえねえし!」
 同僚二人は、深海にいる、まだ未知の毒魚のような目をしていた。想定できた反応だ。軽く流す。

 ここまですればもう十分だろうと思っていた。
 夏との付き合いを長引かせる必要なんてない。1、2カ月の間、付き合っている状態を続ければそれでいい。
 俺が夏と別れたとしても、もう二人は彼女に手を出さない。先を越されたとなれば触手は動かないはずだ。ほかにも可愛い子は山ほどいる。

 プライドではなくコンプレックスの問題だな。普通の男なら、知り合いと関係があったと推測できる女は避ける。自分の身近なやつと比較されていることを想像すると、何かと複雑だからな。
 それでも、その女を好きで好きでたまらないという男は行動に出るかもしれない。あと比べられることで屈辱を期待するマゾ、恋人の過去にこだわらない変人、そしてあっち方面に揺るがない自信を持っているやつ。
 でも二人はどれにも当てはまらない。
 これで、人並みの防衛本能を持ち合わせていない夏も、犯罪被害者にならずに済んだ。そして、俺の部署から犯罪者は出なかった。
 めでたしめでたし。


 半年前、夏と付き合い始めたのは、そういう状況、そういう理由からだ。
 もう、盾としての、俺の役目は終わっている。

 予定では、とっくに彼女から解放されているはずだった。

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(5)
 見事なまでに計算が外れた。予定が狂いまくっている。
 あれから何カ月だ? どんなに冷たくしても夏は必死でついてくる。
 自分の彼女に対して、こんな、

” 強い作物を作るため、水や肥料を少ししか与えずに栽培するという手法を生み出した、前衛的農業経営者</font> ”

のような態度で接する男と、よく我慢して付き合っていられるもんだなと不思議に思う。
 俺が付き合ってきた相手は、ほっとくと大抵ひと月ほどで怒って別れると言い出す。顔だけで彼氏を選んだ子なんて、結局そんなもんだと思っていた。
 でも夏はどうやら抵抗が無いらしい。というより、それを望んでいる傾向がある。” 水を少ししか与えられずに育てられる ” という状態に。

 たまに与えられる水で幸せになれる系の人間だ。

 要するに、冷たくしたのは逆効果だったわけだ。


 金曜の夜、仕事が終わったから食事しようよと、いつにもまして、しつこくメールがあった。
 付き合い出したのが夏頃だから……もう春だし……。あ、半年過ぎてるな。そして最後に会ってから……どれくらい経つ? ちょっと放置しすぎか。
 まずいな。こんなこと、いつまでも続けられない。
 今夜こそ、キッチリ話をしておかないと。3月もそろそろ終わる。
 逃げてられない。もうリミットだ。

「ね、ね、ラーメン食べに行こうよ!! 行列ができるんだよ!」
 会った途端、満面の笑みで夏は言う。ラーメンが食いたいのか、行列が見たいのか、デートを長引かせたいのか。
 とりあえず、夏は今日も必死。そのパワーは尽きることが無さそうだ。
 夏の提案に「いいよ」と同意すると、それだけで嬉しかったらしくベタベタと甘えて来た。決して優しいと取れる言葉じゃ無いのに、なんでそこまで喜ぶのか。そのメカニズムがよくわからない。
 めんどくさいのでそれ以上考えるのはやめた。

 ラーメンを食べ終わったのは7時。大して行列はできていなかったので思ったより早い。
「ねー。うちに来ない?」
 今日は俺の機嫌がいいと思ったのか、簡単にそういう言葉を口にする。これで何度目だろう。ずっと断り続けているのに、まだ分かってくれない。

 そういえば焼肉食った後にも部屋に誘われたな。
 あの全くムードの無い状態で、……立派だとしか言いようがない。今日も”ギョウザ”と”とんこつラーメン”の後だが、夏は恥ずかしくないらしい。
 それ以前に、俺が誘いにのるはずがないとのんびり構えている所がある。
 夏の余裕の表情を見ると、なんとなくイラッとする。

 前頭葉あたりで、カチャと、何か外れたような音がした。

「今から行くってことは、泊まっていいのか?」
 散々誘っておきながら、彼女は俺の言葉に驚愕の表情を浮かべた。
 まあ、そうなるだろうな。
「……マジに取るな。行くわけないだろ」
「ううん、来てよっ!! 来てよぅー」
 そう言いながらも、夏は緊張気味に唇を震わせている。
 ……どうして欲しいんだ。表情と言葉が真逆だ。
「なんで?」
 わざわざ行く必要はない。話をする場所はどこだっていい。
「なんでって! また言う!!」
「理由を言え」
「そ、そんなっ……」
 今度は頬まで震わせ始めた。見ていられない。
「だって、い、い、一緒にいた……」
「わかった。じゃあ」
 俺は時計を見た。
 まあ、まだ早いから……。

 考えていると、夏が小さな声を出した。
「……泊まっていって、ほしいな……」
 そう言う夏の顔を見る。
 単にビビって様子を見ているだけの上目遣い。
 それを、誘惑に使う術を、早く身に付けろ。

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(6)
 夏の部屋は、お世辞にも片付いているとは言えなかった。
「ごめんっ……今、片付けるから」
「気にしなくていいよ」
 そう言うと、彼女はロボットのように動きを止め、顔を強張らせて俺を見つめる。
 なんだその態度は。
 普通の口調で応えただけで、そこまで極端に不安になるもんか? イヤミか?

「ハンガーは? 皺になるから、脱ぎたい」
「ぬ、脱ぐの?」
 眉をひそめて俺を見る夏に、何か変なことを言ったのかとじっと彼女を見返した。
 すると、顔を赤くして夏が呟く。
「……ズボンも……?」
「脱ぐかっ」
 アホか。なんでいきなりズボン脱ぐんだよ。
「でも、ズボンが皺になるとお母さんが大変っていうか、アイロンとかクリーニング屋さんとか、えっとよくわからないけど、シワシワになったら、えと……」
「わかった」
 俺は上着を脱ぎながら言った。
「着替えがあるんなら借りる」
 部屋を片付けてもいないのに、着替えが用意してあったら怖い。
「うん」
 夏はニコニコしていた。
 そして、本当に男物のパジャマを出してきたので、その感覚におどろく。
 しかも使われた感がハンパじゃない。
 困惑しながらそれを受け取り、手に持ったまま見つめていると、夏が「気にしないでね。わざわざ買ったわけじゃないから」と笑う。
 信じられない。


「……前の男のか」
 さすがに動揺して声が上ずった。
 夏はそう言われて初めて、自分のしていることに気付いたらしい。
「あ……」
 今頃顔色を変えたって遅いんだよ。
「ま、別にいいけど」
 平気そうに言ってやると、夏は『がーん』という字が頭の上に見えるくらいに、ショックを受けていた。
 やっと自分で自分の首を絞めていた事に気付いたらしい。
「ちょっとは気にして欲しい……な……」
 わかりやすくヘコんでいる。

 もしこのパジャマが……この態度が……演出だとしたら進歩したなと思う。でも、夏は嘘がつけない。本当の気持ちしか顔に出さない。
 そういう素直過ぎる部分が、逆に残酷だと思うのは俺だけか?

 ズボンのベルトに手をかけると、夏にガン見された。その様子だと後ろを向くつもりはないらしい。ここでは脱げない。
「紘一……」
 俺が手を止めたのを見て、夏が言う。
「それパジャマだよ? 着る前に、お風呂入ってきたらいいのに」
 彼女の目が若干笑っているように見えて、ゾッとした。

 本当に泊めるつもりなんだな……。

「そうだな」
「うん……」

 俺は夏に促され、狭いバスルームにパジャマを持って入って気が付いた。
 替えの下着がない。

 でも我慢するしかないか。
 夏に買って来いとは言えない。
 きっとまた部屋に残っている、誰のかわからない物を渡されるのがオチだ。

第3話に続く≫ 
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