SWEET-SOUR-SWEET

【あらすじと目次】

●あらすじ●

自意識が低いせいで他人が自分の事をどう思っているか、あまり気にならない遠藤陽己。
おかげで、あからさまに愛情表現している古川貴奈子の気持ちにも全く気付かない。
はたして、鈍感で無神経な善人と揶揄される遠藤は、貴奈子の気持ちにに応えることができるのか。
甘くて酸っぱい柑橘系ラブストーリー。
主人公は20代後半 販売店主任。1話2500字程度、31話約80000字、長編。
(2016年発表、2017年一部改稿)

 

●目次●

#1 それは伝説 / #2 必然的事故 / #3 自己管理の問題 / #4 療養中なんですけど /
#5 意味不明 / #6 さらに意味不明 / #7 水の泡 / #8 奸計をめぐらす /
#9 意外と気付かない/ #10 貴奈子の決心/ #11 長さに負けないために/ #12 それは一体誰のこと?/
#13 結婚観の相違 / #14 大きな誤解 / #15 飲めない二人 / #16 泥酔の思考回路 /
#17 背けたのは心 / #18 夢も希望も混乱中 / #19 記憶に無くとも感情は甦る / #20 責めた理由/
#21 推測は疑念を呼ぶ/ #22 押さずに引いてみる/ #23 瞳はどこを見ている?/ #24 もう届かない/
#25 サヨナラは突然 / #26 告白の跡 / #27 sweetな夜 / #28 sourな一日 /
#29 sweetな朝 / #30 君との時間 / #31 新たな日常


(3月17日 木曜日 午前1時半)

 3人は遠藤を介抱しながら、居酒屋を後にした。酔いつぶれている遠藤をマンションまで送らねばならない。もう電車もないことだし、3人とも遠藤の部屋に泊めてもらうつもりだった。

「こんなになるまでのめり込むほど、キナコっていい女だっけ?」
 コマチが首を傾げた。
 ボーダーがふっと笑った。
「ま、そりゃ、相性だろ。遠藤さんにはキナコがちょうどいいんだよ」
 それでもコマチはやはり首を傾げていた。
 オザも、
「オレらまで疑われるなんて思ってもみなかったわ。宣戦布告されるかと思った」
と、納得がいかない顔で呟いた。
「恋愛感情なんて持ってたら、遠藤さんとキナコの応援なんかしねーっつんだよ」
「でも、遠藤さんも一応確認して、不安解消したかったんじゃないか?」
「なんかボーダー、やけに遠藤さんの肩持つなあ」
「だってオレらにも責任あるだろ。遠藤さんがキナコのせいで体壊したらどうすんだ」
 ああ、と2人は頷いた。
「今度は遠藤さんの応援かあ。忙しいなあ。バイトやめるんだけどなあ」
 コマチは笑って言った。
「キナコは矯正しようがないけど、少しは遠藤さんのけなげな気持ちを教えてやらねーと」
 3人はそんな話をしながら、殆ど意識の無い遠藤をマンションに連れ帰った。
 そこで思わぬものを見た。
 貴奈子が遠藤の部屋のドアの前で座り込んでいた。

「遠藤さん!」
 貴奈子は、目を閉じてボーダーの背中に体を預けている遠藤に気付いて、走り寄った。彼女は3人のことなどまるで眼中にないようで、遠藤に抱き着いた。
 遠藤はうっすら目を開けたが「あれ?」と言ったきり、また目を閉じた。
「遠藤さん」
 貴奈子は泣きそうな顔で遠藤を見つめていた。
 ボーダーはコマチに遠藤のカバンの中を探るように言った。すぐにコマチは部屋の鍵らしいものを見つけ、貴奈子に渡した。
 貴奈子は渡された鍵でドアを開け、固定してから3人を見た。彼女の表情は緊張で強張っている。
「大丈夫だって。ちょっと飲み過ぎただけだし」
 オザが言っても不安そうに頷くだけだった。
 ボーダーは遠藤を背負ったまま部屋に入ると、ベッドまで連れて行った。
 貴奈子はそのベッドの元で、泣き出しそうな顔のまま遠藤を見つめていた。
 少し戸惑っていた3人だったが、「あとはよろしく」とだけ言い、連れだって部屋を出た。

「タクシーで帰るかあ」
「オレんち来る? 親今日いないし」
「おー、じゃ、そうしよう」
 3人はそう言った後、少し沈黙した。
 そして、とうとうコマチが言った。
「遠藤さんの気持ちがわかったような気がする。付き合い出すと女って変わるな」
 オザも溜息をついた。
「うん、あそこまで愛情注がれたらなあ……。オレ、もうアイツのこと、ガキとか言えなくなるわ」
 ボーダーも笑って、
「なんていうか、不可抗力ってやつだな」
と言った。


 ベッドに横たわり服を着たまま眠る遠藤を、貴奈子はじっと見つめていた。
「このままで寝るの? 遠藤さん」
 呟いて遠藤の髪を撫でた。
「お願いだから、あんまり飲まないでください。心配……」
 ふと、遠藤が少しだけ目を開け、貴奈子を見た。一瞬笑ったように見えたが、すぐ苦い顔をして、体を起こした。
「はあ……苦し……」
 そう言ってベッドから足を下ろし、貴奈子の前で俯いて座っていた。
「遠藤さん?」
 そのまま彼は服を脱ぎ始めた。
 下着以外すべてを脱いだ遠藤は、ぼんやりと目の前の貴奈子の顔を見上げた。


(同日 午前6時)

 遠藤は柔らかな香りに包まれていることをずっとどこかで意識していた。朝目覚めた時にその香りに気付き、そして体のしびれに気付いた。
 酒を飲んだ翌朝は目覚めるのが早い。尿意もあるし、多分眠りが浅いのだと思われた。
 何時だろうなと遠藤は起きようとしたが、体が動かなかった。
 重い。
 しびれている左腕にずっしりと重みを感じる。いや、感じる前にもう見つけてしまっていた。その重みの正体を。
 遠藤の隣で貴奈子が寝ている。彼の腕枕で、その体をぴたりと彼に寄せていた。腕の中で眠るその安らかな顔を見て呆然自失する。思わず右手で自分の体を確かめた。
 いつもはシャツとジャージで寝るのに、何も着ていない。下着だけだ。どうして?
 そして、部屋に帰りついたことも、ベッドに寝ていることも記憶にない。なぜ貴奈子がここにいるのかも全く憶えていない。
 遠藤は緊張しながら、自由な右手で、布団を少しだけ上げて中を覗いた。貴奈子はシャツを着ていた。
 ほっと胸をなでおろす。よかった。酔って無意識に、なんてことがあったら言い訳できない。
 それにしてもトイレに行きたいのに、貴奈子を抱いている左手をどうしよう。

 貴奈子の寝顔を見ていた。安心しきっている。
 しかし、尿意と共にちょっとした衝動があって困っていた。だからこそ、早くトイレに行きたいのに。起こすしかないのか。貴奈子の顔に掛かる長い髪をそっと右手ですくった。
 柔らかい頬に触れて、息をのんだ。目覚めぬまま小さく伸びをする彼女の首筋を見て、目を逸らした。
 しかし、ますます貴奈子は遠藤の首元に顔を寄せ、密着してくる。
 ダメだ。起こす! もうそれしかない。
「貴奈子……」
 そう呼び掛けて、思わずうめきそうになった。
 なんで俺、今彼女のことを下の名前で呼んだ? しかも呼び捨て。ありえないんだけど。
「あ、おはよ、陽己」
 な、なんでそう呼ぶ?
 サアーッと血の気が引いて行く。しかも、かすかに彼女にそう呼ばれた憶えがあるような……。勘違いであってほしい。もう尿意なんてどこかに吹き飛んでいた。
 何も言えずにじっと彼女の顔を見つめていると、ふと慣れたかんじで首の後ろに手を回され、笑顔でキスされた。
 この、とんでもなく自然な優しいキスは、何を意味する?
 でも、訊けない。絶対訊けない。
「ごめん、トイレ……」
「うん」
 貴奈子は遠藤が腕を抜く時、体を起こしてくれた。そして気付いた。そのシャツ、俺のシャツだよね。
 ドギマギしながらベッドから降りようとした時、床に散乱する自分の服と貴奈子の服が目に入った。

 そ、そうか。そうなんだな、そういうことだったんだよな……。

 あー、もう。
 なんで俺、そんな大事な記憶失くすんだろう。



 
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 付き合って二日で。
 記憶もなく。
 そんなこと許されるはずがない。
 もう一生、酒は飲まない。

 用を足した後、シャワーを浴びる元気もなく洗面で呆然と鏡を見ていた。力の入らない手で歯ブラシを握り、口にくわえたとき、遠藤の後ろを貴奈子が通った。
「シャワー借りていい?」
「う、ん」
 思わず、彼女がバスルームへと向かう後ろ姿を見ていた。長く引きずって歩いているのは、いつも寝る時に着ている自分のジャージ。シャツも自分が持っているものの中でも気に入ってるもの。
 俺が手渡したとしか考えられない。
 もういまさら戸惑っていても始まらない。わかってはいるが自分の酒癖の悪さに辟易する。申し訳なくて謝りたい所だが、そんなことすれば傷つけるだけだ。
 洗顔を終えて、遠藤は床に散らばった自分の服を見た。情けない気持ちで上着を拾ってハンガーにかけた。貴奈子の服も拾い、ベッドの上に乗せた。
 それにしても。
 遠藤はなんとなく気になってベッドの傍のゴミ箱を覗いた。それらしい形跡がない。ティシューボックスも、普通にテーブルの上に置いてあり、ベッドから手が届くとは思えない。
 んん? わからなくなってきた。でも訊くことができないことに変わりはない。
 ふとシャワーの音がやんで、少ししてから貴奈子が部屋に戻ってきた。
「バスタオル勝手に使った」
「いいよ」
 素肌にバスタオルを巻いただけの状態で、目の前に立たれ、遠藤は思わず目を背けた。しかし、わざわざその視界に入ってきて、彼女が訊く。
「ねえ、陽己、きのうのこと憶えてる? どうせまた忘れてるよねえ?」
 無邪気に笑う。忘れられてもよかったのかと訊きたくなる。
「わ、忘れてたら怒るだろ」
「怒らないよ。白状しちゃいなー」
 なんて軽いノリなんだ。こっちは真剣に悩んでいるのに。それにしても、さっきからなんか、彼女の口調に違和感を感じる。
「忘れて……ないって」
「ふうーん」
 貴奈子はベッドの上に置かれた自分の服を見ながら言った。
「ウソツキ」
 言われて、遠藤はその違和感が、敬語が消えたせいだと気づいた。タメ口だ。しかも彼女だけじゃない。自分も、気づかぬうちにぞんざいな口調になってる。
 貴奈子は服を持ってまたバスルームの方へと戻っていった。彼女が部屋に帰ってくるまで、遠藤は床に座ったままぼんやりしていた。もうカノジョなんだし、タメ口でもいいんだよ。いいんだけどさ。なぜ今朝、急に?
 服を着た彼女が傍にやって来て目の前に座った。
 濡れた髪からは遠藤のシャンプーの匂いがする。
「きのうね、陽己、ボーダーに背負われて帰って来たんだよ」
 貴奈子は困っている遠藤を見透かすように優しく笑った。
「あ、ああ……」
「スーツのまま寝ちゃったから、どうしようかって思ってたら、急に起きてね、寝苦しいって服脱いで、シャツとジャージを持ってきたの」
 何も言えず、彼女の顔を見ていた。
「古川さんも早く服脱いで、もう寝ようって言われた。そのとき、私にシャツとジャージ貸してくれたんだよ」

 そうか、そうか。じゃあ、何もなかったんだ。

 多分、オレは急に表情を変えてしまったのに違いない。貴奈子がクスクス笑いだした。
「おいでって手を引っ張られて、服脱がされたから、ちょっと期待しちゃった」
「え……あ……」
 なんて言っていいかわからず、彼女の笑顔をチラチラと見た。
「安心した?」
 完全にバレている。

 遠藤はシャワーを浴びながら、ホッとすると同時に小さな疑問を持った。
 それじゃあなんで彼女の名前が、当たり前のように俺の口から出たんだろう。彼女も俺のことを陽己と呼んだ。そして起きたときのあの超自然なキスは、突然のタメ口は、一体……。
 バスルームを出てタオルを腰に巻き、そのまま部屋に戻った。
 貴奈子は服を着たままベッドで横になり、天井を見つめていた。
 遠藤はタオルで髪を拭きながら、横目で彼女の姿を見ていた。今は8時前。あと3時間ほどで彼女と一緒にいる時間は終わるんだなと考えていた。
 次はいつ会えるんだろう。
 なんとなく足がベッドへと向かう。彼女が遠藤の方を見た。
「服は?」
 彼女に訊かれた。服どころか、タオル1枚だけ。下着すらつけていない。そのままの姿でベッドの上にのぼると、彼女は驚いた目で彼を見つめた。
「キスしにきた」

 彼女の上にかぶさり、体重をかけないようにして顔を近づけた。
 恥ずかしそうに笑う彼女の表情に少しだけ満たされないものを感じた。
 微笑む場面じゃないんだけど。
 唇を軽く触れ合わせ「貴奈子」と呼ぶと、彼女は閉じかけた目を開いた。すぐにまた瞳を伏せたが、見覚えのある表情で、彼女はキスの合間に吐息を漏らした。

 記憶の糸口が見つかると、少しずつ思い出していった。


 酔った俺は、ベッドの上にのせた彼女と向かい合って座っていた。
『みんながみんな、貴奈子って呼び捨てにするの、ちょっとムカつくな』
 そんな事を言ったような気がする。多分バイト3人組のことが頭にあったんだろう。
『私は遠藤さんだけが名字で呼んでくれてたの嬉しかったです。なんかちょっと、特別な感じがしたから』
『じゃあ、ずっと古川さんでいい?」
 そんな子どもっぽい質問をした。そしたら彼女は笑ったんだ。
『全然いいですよ。私もずっと、遠藤さんって呼びたい。そういうの、なんか逆に新鮮ですよね』
 どこまでも、予想できないことを言う子だなと嘆息する。
 でも、キスして、服を脱がせていくうちに、遠藤さんと呼ばれるとため息だけでは済まなくなってきた。
 ひどく萎えた。
 俺、この子のなんなんだろう、と思い始めて、どんどんヘコんでいく。
 名字を呼ばれるたびに職場を思い出し、集中できないだけでなく罪悪感も湧き上がる。
 押し倒したのに続きができなくて、貴奈子の顔をずっと見つめていた。
『遠藤さん……?』
『ごめん』
 気持ちが落ち込むと、酔いと疲れと眠気で、体から力が抜けた。バタンと倒れるように彼女の隣に横たわった。
 そんな俺を見て、彼女なりに気を遣ったのか、この耳元に唇を寄せて言った。
『陽己って呼ばれても、嫌じゃないですか?』
 その後は自分達がどんな話をしたか思い出せない。半分寝てたのかもしれない。
 でも、きっと嬉しかったから、彼女を抱きしめて眠ったんだと思う。


 キスをやめて、彼女のまだしっとりとしている髪に触れた。
「きのうの続き、してもいい?」
 貴奈子は大きな目をさらに大きくして遠藤を見つめた。すぐに「ダメ」と拒まれた。せつない顔で首を横に振る。
「嫌?」
「そうじゃ、なくて」
「付き合ってまだ浅いから?」
 まだ三日目。不謹慎すぎて呆れてるかな。
 そう思われてもいいと思ってしまう。
「そんな理由じゃ、ないよ……」
「じゃ、なんで?」
 俺の気持ち、何度でも確かめたいって言ったのは君だろ。
「だって、キスしに来ただけかと思って……心の……準備が……」
「いつ準備できるの。俺、もう準備できてるんだけど」
「でも……」
 そう言う彼女の首筋をキスで撫でていく。多分もう、抑えがきかない。

 それでも、もう一度だけ訊いた。
「いいよね?」

「……待って……陽己……」
 そんな甘い声で名を呼ばれて、素直に引き下がる男なんていない。

「無理、待てない」


 だって、本当に嫌なら、やめさせる方法は知ってるはず。

 “遠藤さん”って呼べばいいんだよ。
 



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 男とは浅はかな生き物である。
 好きな人の反応すべてに一喜一憂する。素直に、顔には出せないけれど。
 愛を注いだ分だけ相手を独り占めできている気になり、同じように自分にも強い想いを抱いてくれると疑いもしない。
 

 遠藤も貴奈子の肌のぬくもりで安心しきっていた。
 最初に拒んでいたのはポーズだったのか、それとも本当に気持ちが傾斜したのか、それははっきりとはわからないけれど、確かに彼女は今、遠藤を強く求めてくれているはずだ。
 ピンク色の体を隠すことも無く、とろんとした瞳で見つめる。
 え、もう一回するの? と訊きたくなるほど、色っぽい姿態で遠藤にすり寄る。
 それは勿論嬉しいし応えたいけれど、残念ながら遠藤はこれから仕事だった。

 貴奈子は名残惜しそうにベッドから這い出ると、服を着てキッチンに立った。
「おなかすいたね」
 彼女が笑うので、遠藤はぎこちなく頷いた。
「昨日ね、買い物しておいたんだよ。ごはん作ってあげたくて」
 そんなことを言う貴奈子の横顔を、遠藤は魂を吸い取られたような表情で見ていた。ただ、見惚れていた。
 料理ができるという技能的なことではなく、こんなけだるい状態でも料理を作ってあげようという気持ちでいてくれることに感動していた。
 貴奈子は、調理器具も調味料も殆ど無いキッチンで、オムレツと、ほうれん草とベーコンのソテーとパンケーキをササッと作った。
「すごい」
 遠藤はテーブルに並んだ食事に驚いていたが、貴奈子は逆に戸惑っていた。
「そんな、驚かなくてもいいのに」
 貴奈子は笑いながら「ね、また作るから、とりあえず炊飯器が欲しい」と言った。

 職場の貴奈子の姿とはまるで違う部分ばかりを見せつけられた。
 期待していなかった分だけ、衝撃が大きい。
 この時点で、非常に不利な立場に追い込まれていた。
 恋愛は惚れた方が負け、とよく言うけれど、確かにシーソーが傾き過ぎると、もう地に足つかない。相手が手加減して腰を浮かしてくれるのを、ただ待つだけ。
 ベッドの上でぼんやりとしていた貴奈子の姿を真似たつもりは無いが、テーブルの前でぼんやりする遠藤だった。

 だから、貴奈子の口から、そんな言葉が出てくるとは想像もしていなかった。
 こんなに幸せな場面なのに。

「あのね、土日、箱根に行ってくるねー」
「え……」
 遠藤は思わず体を硬直させ、フォークを持っていた手もピタリと止めた。おかげでテーブルにオムレツがペチャと音を立てて落ちた。
「あー、もう……」
 貴奈子はまるで子どもでも相手にしているかのように優しく笑った。そっとペーパーで汚れたテーブルを拭く。
「それは、この前に言ってた……」
 遠藤は無理に笑おうとして、顔を引きつらせた。
「アツシと、かな……?」
「ううん。今週はアツシ用事があるんだって」
 遠藤は真顔になって、貴奈子を見つめた。
 それは“用事がなければアツシと行くはずだったけど残念ながら今回は無理だった”と聞こえるんだけど。
「じゃあ、誰と行くの」
 遠藤は訊くのが怖かったが、訊かないわけにはいかなかった。
「マサト」
「マサト?」
「うん。マサト」
 それは、誰でしょうか。女性の名前でないことだけは確かだ。アツシ以外に一緒に行くと言ってた、もう1人の男か?
「2人で?」
「うん。ほかの子あたってみたけど、行けないらしくて」
 遠藤は、ゴクリと唾を呑み込んだ。
 胸の辺りがカッと熱くなった。これは怒り? 嫉妬? なんの感情かわからないが、体が震える。
 言葉が出てこない。

「楽しみだなー。陽己にお土産買ってくるね。あ、土曜の夜、11時くらいなら電話かけていい? やっぱりメールとかより声聴きたいし」
 遠藤はまた呆然とさせられていた。
 言ってることとやってる事が真逆なんだけど。それは君の中では矛盾しないで並立するの?
 深い溜息をついた。
 そして、低い声を出した。
「ダメ」
「え? やっぱり電話は無理?」
 残念そうな貴奈子に、遠藤は半笑いになって言った。
「違う、電話とかメールの話じゃなくて、リョ、コ、ウ。旅行がダメ」
「えー? なんでよお。必死で宿とったのにー」
「絶対にダメ」
 遠藤の態度に、貴奈子は不満そうに頬を膨らませた。
「なんで? 一緒に行くのが男だから? でも悪いヤツじゃないよ? 友達のカレだし」
「じゃあ、その友達も一緒でもいいのに、なんで2人なんだよ。大体友達に悪いとか思わないの?」
「別にあの子は気にしてないと思うけど」
「それは貴奈子が勝手に思ってるだけ!」
「うー」
 彼女は取り付く島の無い遠藤を見て、溜息をついた。
「女の子と行ったらいいだろ」
 遠藤はコーヒーを一気に飲んで立ち上がった。
「女同士だって安心するのおかしいよ。旅先でナンパとかされたりしたら……てゆーか、恋を探しに行くっていうかんじもあるしー」
 遠藤はそう言う貴奈子の口を指で抑えた。
「よし、わかった。男でも女でも旅行はダメ。泊まりも日帰りも全部ダメ」
「ええー! ウソでしょー!」
 彼の指を払いのけて怒る貴奈子は、職場でよく見た姿だ。つい可愛いと思ってしまう自分を恨めしく思う。ここは断固不許可の姿勢を貫かないと、また仕事が手につかない、眠れないということになる。
「家族と行けよ」
 彼女はブンブンと首を横に振る。
「……だからー」
 出勤する時間が迫る。ネクタイを締めながら、彼女を見た。
「旅行は俺が土日休める時だけ、な。それで我慢して」
「そんなのほとんどないくせにー」
「じゃあ聞くけど、貴奈子は俺が元カノと一泊旅行しても平気なのか?」
「い、嫌……」
「ほらな」
 遠藤が勝ったように笑うと、貴奈子は苦い顔をした。
「だって陽己、飲んだら何するかわかんない」
「人をケダモノみたいに……」
 でも、前科があるため、強くは言えない。

 遠藤は貴奈子には背中を向けたまま、上着に袖を通して溜息をついた。
「行ってほしくない」
 そうボソリと言った。
 遠藤は斜めに振り返り、貴奈子を見つめた。
「土曜の夜も、日曜の夜も、一緒にいたい。声だけなんて嫌だ」
 言っていることが大人げない。恥ずかしいとは思いながらも、言わなければ貴奈子を止める手立てはない。
「週末だけじゃなくて、毎日毎晩一緒にいたい」
 遠藤はそう言ってカバンを持つと、玄関に向かった。
 貴奈子が慌ててついてくる。
「行ってくる」
 遠藤は貴奈子に言い、そっと頭を引き寄せて5秒間、唇を重ねるだけのキスをした。
 そして黙ったままの彼女の髪を撫でた。
「旅行、行ってもいいよ。気を付けて」
 遠藤はそれだけ言って、部屋を出た。

 貴奈子をしばりつけることなんてできないから、自分が貴奈子に寄せてくしかないんだなと遠藤は諦めた。
 それは降参ということかな。勝てないと認めたことになるのかな。
 彼女が毎週末、男とデートするのを黙って見送る。
 そんなの、ただのバカだな。

 遠藤はぼんやりと考えながら、店への道を歩いていた。

 ふと声が聞こえた。
 名を呼ばれたような気がして立ち止まり、振り返ろうとすると、背中にドンと何かがぶつかった。
 貴奈子だった。
 背中に突進してきた彼女は、両手で遠藤にしがみつくように抱きついていた。
「貴奈子……」
 驚く遠藤に、彼女は言った。
「私、前は台車でぶつかったり、脚立にぶつかったりして、遠藤さんに迷惑かけてた。わざとじゃないし、ヘコんだけど、それって遠藤さんの近くにいたかっただけなんだよ」
 背中の様子は見えないが、腹に回された手には力がこもっている。
 遠藤は安心させるように言った。
「迷惑だとか、わざとだとか、そんなこと一度も思った事ないよ」

 貴奈子が少しだけ首を振ったのが感じられた。
「でも今、ぶつかって、こうしてるのはわざとだよ。わざと引き留めてるの……仕事に行っちゃうのも寂しい。離れたくないって思ってる。ほんとに」

「やっぱり旅行より遠藤さんの傍がいい。だってあんなに近くにいたいと思ってた夢が叶ったんだもん。わがまま言って、ごめんなさい」


 彼女が必死に伝えようと気持ちを口にしているのがわかる。
 だからかな。”遠藤さん”と連呼する。

 彼女が好きなのは、”遠藤さん”なのか。
 そんなに純粋に”遠藤さん”は愛されてたのか。
 思わず、苦笑した。
 気を遣わせてごめん。
 もう、そう呼ばれたとしても、落ち込んだりしない気がする。
 
「じゃあ、一緒にいられるんだ」
 貴奈子は遠藤の背中で「うん」と言った。
 まだ背中から離れようとしないのは、不安なのかな。
 だから遠藤は、声をかけた。
「一日の中では少しの時間しか作れないかもしれないけど、一緒にいられる日はこれからも続いてくから」


「ずっと前から、ずっと先まで、”古川さん”を大切に想ってるよ」


 こんなことを言える自分に驚く。
 でもいろんな日があるから、
 甘い事言いたい日だってあるよな。



<END>

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