SWEET-SOUR-SWEET

【あらすじと目次】

●あらすじ●

自意識が低いせいで他人が自分の事をどう思っているか、あまり気にならない遠藤陽己。
おかげで、あからさまに愛情表現している古川貴奈子の気持ちにも全く気付かない。
はたして、鈍感で無神経な善人と揶揄される遠藤は、貴奈子の気持ちにに応えることができるのか。
甘くて酸っぱい柑橘系ラブストーリー。
主人公は20代後半 販売店主任。1話2500字程度、31話約80000字、長編。
(2016年発表、2017年一部改稿)

 

●目次●

#1 それは伝説 / #2 必然的事故 / #3 自己管理の問題 / #4 療養中なんですけど /
#5 意味不明 / #6 さらに意味不明 / #7 水の泡 / #8 奸計をめぐらす /
#9 意外と気付かない/ #10 貴奈子の決心/ #11 長さに負けないために/ #12 それは一体誰のこと?/
#13 結婚観の相違 / #14 大きな誤解 / #15 飲めない二人 / #16 泥酔の思考回路 /
#17 背けたのは心 / #18 夢も希望も混乱中 / #19 記憶に無くとも感情は甦る / #20 責めた理由/
#21 推測は疑念を呼ぶ/ #22 押さずに引いてみる/ #23 瞳はどこを見ている?/ #24 もう届かない/
#25 サヨナラは突然 / #26 告白の跡 / #27 sweetな夜 / #28 sourな一日 /
#29 sweetな朝 / #30 君との時間 / #31 新たな日常


(同日 午後7時)

 3人組がメッセージアプリの内容を確認した後の事だった。
 事務所にも貴奈子から報告の電話が入ってきた。
「おめでとう、よかったな!」
 電話を受けた片岡は、素直に貴奈子の就職を喜んだ。
 バイトを辞めるのはいつ、と片岡が訊くと、
『もうすぐにでも教えてほしいっていう人がいるんで、迷惑かけて申し訳ないんですけど、今日で……。今からご挨拶に伺います……』
と、小さな声で言った。
 就活で休むと言われた日から想定はしていたが、急だな。お別れ会すら開けない。
 まあ、今日一応皆に声はかけてみよう。集まれる人間だけで、とりあえずということで。
 ちょうど3月も半ば、別れと旅立ちの季節だなあと、片岡は感傷にひたっていた。


(同日 午後9時前)

 貴奈子は事務所にやってきた。
「いつかは辞めるんだと聴かされていたからバイトの増員も手配済みだが……、実際いなくなると思うと寂しいもんだな。また遊びに来いよ」
 店長が珍しく気落ちした顔で貴奈子に握手を求めた。好き勝手に辞めていくバイトには厳しい態度だったはずが、貴奈子はどうもほかのバイトたちとは印象が違ったらしい。
「はい、ありがとうございます!」
 貴奈子は相変わらず元気に笑っている。

 店長や社員たちと一通り別れを惜しんだ後、閉店後に業務を終えたアルバイトたちが事務所にやってきて、彼女を取り囲んだ。
 この場所に、遠藤はいない。
 遠藤はこのことを知らずにいる。
 片岡は、自分が知らせるべきなのか、彼女が知らせるつもりなのか、それとも明日以降に誰かの口から聞くのか、どれが正解なのかわからなかった。
 片岡は、そばにいたボーダーに訊いた。
「なあ、このこと、遠藤に知らせるべきだと思う?」
 ボーダーは言った。
「必要ない」
 素っ気なかった。
 その答えに面食らいながらも、片岡は笑って見せた。
「えっと、またちゃんとみんなでお別れ会やろうな」
 今度はコマチが答える。
「ええ、遠藤さん抜きで」
 片岡はその発言に愕然とした。
 その時、オザが言った。
「オレ、キナコいねえんならつまんないし、もっと時給のいいバイトに変える」
 皆がえー、と驚きの声を上げていると、コマチも、
「オレも3年だし、受験あるから今月で辞める」
と言い出した。
 ボーダーが最後に、
「オレも就活があるから辞める」
と言い出した。
 販売部のスタッフ3人が急に辞めると言い出して、その場は騒然となった。
「お、おまえらが辞めるのはダメだぞ! 聞いてないぞ!」
 店長が声を荒らげたのは言うまでもない。
 貴奈子は困ったように3人を見つめた。社員やバイト仲間たちは3人を引き留めたが、それでも3人の意志は固いようだった。


 その頃、公休日だった遠藤はベッドに仰向けに横たわっていた。
 古川貴奈子と飲んで酔っ払った日、彼女を責めたという事実が頭から離れなかった。
『好きだから責めたの』
 そんな風に加南子が言ったこと、教えてくれたこと、を思い出す。

 遠藤は一人っ子で、たっぷり愛情を注がれて育った。
 だから急にそれを失くした時は、灯りの消えた部屋にいるように何も見えなくなった。
 ずっと手さぐりで生きてきたような気がする。
 遠藤の視界に無理やり入り込んでくる、古川貴奈子に出会うまで。

 楽しそうだったり、凹んだり、悔しそうだったり、慌てたり、どんな感情も隠さずに出す彼女を羨ましいと思っている。ほほえましくもあって、可愛いと思って、遠くから見ている。
 それは“灯り”だと、心が、早くから訴えていた。ずっと、ろうそくの火のように大切に見守る毎日。
 手元に引き寄せて、その灯りを消してしまうのが怖かった。

 彼女は自分にとって、ずっとそういう存在だったんだと、今になって気付く。

 だから彼女の傍にいる人間、愛情を独り占めする人間に、嫉妬したんだ。
 その感情が屈折して、あの時、彼女を責めたんだ。
 俺は酔っていて隠していた本音が出してしまった。

 ただ、好きなんだ。
 複雑な理由なんかつける必要はない。そうとしか表現できないから。
 一緒にいたい。とても心地よくて。頑なな感情が解けて自然でいられる。

 最近彼女の顔を見ていなくて、感情が溢れそうだ。


 そんな時、部屋のチャイムが鳴った。
 玄関に向かいながら時計を見る。9時半すぎ。時間的に考えると、またあの3人組の可能性が高い。
 遠藤はあまり深く考えずにドアを開けた。
 そこで彼は思わず「あ」と声を出した。
 立っていたのは、古川貴奈子だったから。


「ど、……うしたの?」
 思わず声が上ずる。
 貴奈子はいつものはちきれそうな笑顔ではなく、窺うような微笑みを見せた。
「私、あの店、今日で辞めるから、遠藤さんに挨拶したくて。突然、ごめんなさい」
「辞める? 今日?」
「はい。遠藤さんに挨拶に行くって言ったら、みんなにやめとけって言われたけど、やっぱり最後に顔見たくて」
 彼女は寂しそうに言った。
「嫌われてるのに、押しかけて……私最後まで遠藤さんに迷惑かけっぱなしだなあって、……わかってるんですけど」
「なにを……」
 何を言ってるんだろう、と遠藤は心の中で呟いた。
「部屋に……あ、嫌じゃなければ、入ってよ。できたらもう少し話がしたいから」
 ためらいながら、遠藤は言った。
 貴奈子は彼の顔をじっと見ていたがすぐ俯いた。
「あがってもいい……んですか?」
「うん、辞める理由、俺は知らないから。それに、最後なら話したいこともあるし。部屋が嫌なら、どっかの店でもいいから」
「みんながいるかも知れないし、外はちょっと……」
「ああ……」
 そうか、と遠藤は視線を落とした。
 遠藤は、別に今日じゃなくてもいいんだ、電話でだっていい、そう頭で考えるが、焦る気持ちを抑えられなかった。

 彼女を目の前にすれば、自分の気持ちがはっきりとわかった。
 こんなに会いたかったんだなと。
 少しでも長く、少しでも近くにいたい。屈折した表現ではなく、素直に自分の気持ちを伝えておきたい。

 黙り込んだ遠藤に、貴奈子が言った。
「あの、いいですか? 入っても」
 貴奈子はめずらしく遠慮気味に、視線で部屋の中を指した。



 
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 貴奈子を部屋の奥まで入れるのは初めてだ。
 遠藤は落ち着かなくて、なかなか話し出せなかった。
 貴奈子は、以前3人組がくつろいでいた場所で正座した。ベッドの近くの小さなテーブルのそばだった。
「あのね、私、ほかの仕事するんです。ピアノ教えるだけなんですけど」
「ああ。そうなんだ……」
「片岡さんから、聞いてないですか?」
 言われて遠藤はうなずいた。片岡だけでなく、誰からの情報も遮断していたことを恥ずかしく思った。
「片岡は知ってたんだ……」
「仕事見つけたいって言って、休みもらいました」
 そうか、そうだよな。理由があるから休んでたんだ。当たり前のことなのに、貴奈子の上司である片岡に訊こうとはしなかった。『気になるのか?』と訊き返されそうで避けていた。

「来てくれて、教えてくれて、ありがとう。明日いきなり店で知らされたらって思うと、結構辛いし……」
 遠藤が苦笑いするのを、貴奈子は戸惑った目つきで見つめた。
「あの……いままでほんとうにありがとうございました。それに、いっぱいごめんなさい」
「なんで謝るの」
「だって……」
 貴奈子が俯いた。少しの間沈黙が流れた。
「俺、古川さんのこと好きだよ」
 遠藤が穏やかに言ったせいか、貴奈子は明るい笑顔を見せた。
「ほんとですか。嫌われたかと思ってて。よかったー」
「いや、そうじゃなくて」
 遠藤は貴奈子の笑顔を見ていられなくて、視線を下げた。
「好きなんだよ」
 また沈黙が流れ、しばらくしてから、貴奈子の「遠藤さん?」という声が耳に入った。
 遠藤は視線を上げた。そこにある貴奈子の顔は困惑に満ちていた。
「もっと早く自分の気持ちに気付いてたら、ちゃんと優しくできたのに。ごめんね」
「え? え?」
 貴奈子の瞳が射るように遠藤を見つめる。
「あの、えっと、あの、えっとお……」
 予想以上に緊張を走らせ動揺する貴奈子に、遠藤はこらえきれず笑みを漏らした。
「なんで笑うんですか?」
「そこまで驚くかなあって思って」
「え、だって、意味がよくわからないから……」
「わからない、か……。なんて言えばわかるんだろ」
 説明しなくちゃいけないのか、と遠藤は溜息をついた。

「……職場が離れても一緒にいれたらいいなって思う、そういう“好き”だよ」
「仕事以外で?」
「うん」
 貴奈子は遠藤の言葉に息をのんで彼を見つめている。その仕草が素直すぎて、遠藤はまた笑いがこみ上げて来た。多分自分は、彼女のそういう部分がたまらなく好きなんだろうなと思った。
「えっと、どういう……」
「まだ言わせる?」
「え、わかんないし……」
 遠藤はさすがに困って額に手を当てた。
 そのままうなだれて、観念したように言った。
「付き合ってほしい。彼女にしたい。独り占めしたい。そう言う気持ちだよ、わかる?」
 目を閉じていたので、遠藤には貴奈子の表情はわからない。しかし、かすかに、「わかりました……」という声が聞こえた。
 わかってくれたか、と彼は顔を上げた。
 目に入ってきたのは、呆然とした貴奈子の姿だった。床の一点を見つめている。
「あのさ」
 遠藤はその様子に思わず付け足した。
「それはオレの勝手な希望だから、気にしなくていいんだよ? 気を遣わなくていいし……」
 そう言いながら、胸が詰まった。言わない方がよかったのかな。仕事仲間というだけで終わっていた方が、ラクだったのかな。
 貴奈子はふと思い出したように遠藤を見た。
「あの、それ……連絡していいですか?」
「え、連絡?」
 遠藤は意味が分からず尋ねた。
 貴奈子は急に嬉しそうな笑顔を見せた。
「はい! オザたちが一生懸命応援してくれたから、このこと、報告したくて!」
「え、ええ?」
 遠藤は必死に首を横に振った。
「ダメダメ、そんなのダメだよ」
 しかし、貴奈子はもう携帯電話を取り出してメッセージアプリを起動させようとしていた。
「ちょっ、古川さん!」
 遠藤は貴奈子の手を掴んで止めようとした。
「恥ずかしいから、それ、今はやめて……」
 操作をやめさせるつもりが貴奈子の体を押していた。正座していた貴奈子はバランスを崩して倒れ、遠藤の腕の下になった。

 遠藤は両手を床についていた。真下にいる貴奈子と目が合う。
 何も言えなくなった。
 貴奈子の赤くなった顔を見ると呼吸が止まりそうになる。
「遠藤さ……」
 ……そんな声、出すなよ。
 怯えるような小さな声。これが、あの、いつもはしゃいでいた古川貴奈子の声?
「ご、ごめん」
 遠藤が体を退こうとすると、貴奈子にギュッと両腕を掴まれた。
 動けない遠藤に彼女は言った。
「もう一度、言ってください」
「え?」
 今、この状態で、何を?
「好きって、言ってください」
 今、この、状態で???
 それは……酷だよ。

「無理……」
 遠藤は心臓の音が体中に響くのを自覚しながら言った。
 貴奈子は上目遣いで睨んでいる。
「言ってほしい」
「言えない」
「ケチ」
「け、けち?」
 貴奈子が頬を膨らませるのを、遠藤は唖然として見ていた。




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 なんと言われようと、これ以上はカンベンしてほしい。
 このまま好きだと言い続けたら、部屋に入れてしまったことを後悔しかねない。
「ごめんなさい。ホントはー」
 古川貴奈子は遠藤への表情を緩めると同時に、視線を彼の顔から外した。
「私には気持ちを訊いてくれなんだなって思って悲しかった。……私は、何回だって遠藤さんの気持ち確かめたいのになあって」
 ほんの少し顔を横に向けて「ホントに私のこと、好きですか?」とぼんやりと訊く。
 そんな顔されたら、あんなに説明したのに、なんて軽く言い返せない。彼女の両手から力が抜け、遠藤の腕を自由にしてくれたのに、彼は動けなかった。

 今までの君の態度が、自分だけに向けてくれているものなのか確証がなくて。
 気持ちを知りたくて告白したようなもんなのに。
 訊けないから告白したんだよ?
 訊かないのは、関心がないってことじゃないよ。

 遠藤は一度ゆっくり瞬きした。意識とは無関係に溜息が出た。
「気持ち、教えて」
 そんなふうに彼が言うと、貴奈子は一瞬黙り込んだ。
 彼女の言いたいことは分かる。『私が言ったから、そう訊いてくれただけですよね?』って言いたいんだろう。
 そうだよ。
 自信がなくちゃ訊けないから。君に催促されなければ、きっといつまでも訊けずにいたかもしれない。
「俺のこと、好き?」
「……はい」
「ホントに?」
「はい。好きです」
 貴奈子はとても嬉しそうな顔をしていた。
「ずっとずっとずっと好きでした。いつになったら……どうしたら……私の気持ちわかってもらえるんだろうって思ってました」

 ああ、そういうことなんだ。
 確かに、訊かれなくちゃ言えないこともある。訊かれないのに言うと押し付けがましいと思われたり、愚痴っぽくなってウザがられたらどうしようって考えるのは、分かる気がする。
「ありがとう。俺も不安だったから、嬉しいよ」
 彼女の表情に安堵の色が浮かんでいた。

 貴奈子は急に体を起こした。
 遠藤が慌てて体を浮かせ退こうとした時、急に彼女は彼の首元に抱き着きついた。
 遠藤は中腰のまま引っ張られ、バランスを崩しかけた。体勢が無理過ぎて、思わずまた片手を床につき、もう一方の手を彼女の背に回して引っ張られないように支える。
「遠藤さん」
 彼女の声はするが、遠藤にその顔は見えない。肩や後頭部の方から彼女の声がする。倒れそうな遠藤は返事などする余裕がなかった。
 気付けば完全に彼女に抱きしめられ、自分も片手で彼女の背を抱いている状態だった。
「遠藤さん」
 また呼ばれた。
「……うん、聞こえてる……よ」
 普通に会話できる状態じゃないんだけど、と遠藤は思った。これ以上の力で引っ張られたら、彼女の上に倒れ込んでしまう。
「ありがとう。私ね、気持ちをずっとわかってほしかったから……」
 彼女のふわりとした羽のように軽い髪が、遠藤の耳に押し付けられる。そして遠藤の感情をゆさぶるように、やわらかな体温も心地よい重みと共に彼の全身に伝わってくる。

 彼女の気持ちが、伝わりすぎるほど伝わってくる。
 こんな中途半端な状態じゃなく、もっとしっかりとこの両手で抱きしめたい。
 強くしがみついてくるのは、まだ俺の気持ちに不安を持っているせい? こんなに、たまらく好きなのに。
 それとも、ただ俺を試しているだけなの? ただ、刺激して楽しんでるの?
 それは俺の被害妄想? わからない。何が正解?

 遠藤は腰を落として彼女を持ち上げるように引き寄せた。貴奈子の体重を自分の体全体で受け止めると、両手は自由になり、もどかしい状態から解放された。やっと彼女を抱きしめることができた。

「まだ、訊きたいことがあるんだけど」
 お互いの顔が見えないのは、さっきと変わらない。
 遠藤の声に、彼女が頷いている様子が目の端に見えた。わずかな振動も伝わる。引っ張られて逆に不安定な体勢で、遠藤にもたれかかっている貴奈子は、体を少し緊張させていた。
 その僅かな震えを愛しく思いながら口を開いた。
「俺は“彼氏”にしてもらえるの?」
 彼女は「え?」と訊き返した。
「このままじゃ、感情のコントロールができないよ」
「あ……そうですよね……」
 小さな声で答える。
「今から“俺の彼女”って、思っていい?」
「はい」
 遠藤が強く抱きしめていた腕を解いた。
 彼女は解放されて、背をただして遠藤の前に座り込んだ。それでもお互いの太ももが交互に入り組み、触れ合うくらいの近さにいる。
 貴奈子は遠藤の目の前で、悪戯っぽく笑った。
「だから、もう一回、好きって……」
 貴奈子が言いかける前に、遠藤はすっと顔を近づけた。
 彼女が息を止めるのを見て、ゆっくりと口づけた。

 心拍数上がりっぱなしだっていうのに、何回好きって言わされるんだろう。
 “君の彼氏”になれたんなら、もう言葉じゃなくても、いいよな。



(3月15日 火曜日 夜10時頃)

 遠藤は事務所で溜息をついていた。
 誰のせいとは言わないが、販売部から3人も一気にに辞めるらしいので、仕事が終わらない。隣の片岡が「なんか手伝おうか?」と気遣ってくれるほどだった。
「そう言えば、片岡」
 手を止め、片岡を横目で見た。
「なんだ?」
 ずっと態度が硬化していただけに、片岡は何を言われるのかと身構えた。
「最近ずっと、愛想悪くてごめん」
「ああ、いや……」
 少し視線を逸らして俯く暗い表情の遠藤を見て、片岡は自分の方が悪いことをしていたような錯覚に陥った。
「気にすんな。オレも気にしてない」
 遠藤は少しだけ片岡の方を向いて、笑顔を見せた。
「なんか、いろんなことが自分の中で消化できなくてさ。今も混乱してて、オレ、どう受け止めればいいのか……。どう言えばいいのか……」
 疲れた口調でそう言った。
「ああ、同情するよ」
 片岡はそう言いながら、深くつっこむことができずに勝手に想像していた。
 バイトが辞めて店長に叱られて、元気がなくなってしまったのか。それとも、貴奈子が店を辞めたと知らされて、ショックを受けているのか。
「で、消化、できそうか?」
 片岡は尋ねた。
「ん……」
 遠藤の表情は、消化できていないとはっきり語っていた。





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 翌朝遠藤はシャワーを浴びた後、言い知れないけだるさに襲われた。バスタオルを頭から被り、床に座ったままベッドに上半身を凭(もた)せ掛けた。
 一昨日、古川貴奈子が部屋に来た夜、幸福な気持ちで別れるはずだった。
 しかし、別れ際の会話が遠藤を奈落の底に突き落とした。
『ピアノ教えるの平日の夕方だけだから、週末に旅行の計画たててるんです。アツシは大学生で、土日ヒマそうだし』
 遠藤は訊き返さずにいられなかった。自分の耳を疑った。
『土日って……一泊旅行?』
『はい。やっぱ温泉宿で泊まりたいしー』
『アツシ……と2人?』
『ううん、もう一人います』
『それ、男? 女?』
 彼女は平然と、『男です』と答えた。
 多分、彼女は悪気も無いし、他意も無い。意図的に遠藤の様子を見ようとしているのとは違うはず。
 だからこそ、怖かった。わざとの方がよっぽどいい。付き合ってもいない男と旅行を心底楽しめる貴奈子の神経が怖いのだ。

 友達なんだよな。友達なんだ。
 そう言い聞かせるが、胸のざわつきは収まらない。
 俺の気持ち、ホントにわかってないみたいだ。あんなに頑張って説明したのに!!
 マジでもう許してほしい……。

 職場で彼女を見る事はもうできない。仕事は夜遅い。土日はほぼ出勤。そんな環境で、どうやって貴奈子の天真爛漫すぎる行動を把握できるというんだろう。
 だいたい、小沢ら3人組だって貴奈子と仲が良すぎる。多分仕事を辞めても友人関係は続くんだろう。それには本当に下心が無いと言えるんだろうか。
 男女の間に友情は成立するのか、みたいなテーマにまで問題は波及する。
「ああ、もう……」
 遠藤は閉じた目を開けることができなかった。考え出すと夜もろくに眠れない。疲労困憊(こんぱい)のまま一日が始まる。


(同日 午後7時頃)

「なんか、遠藤さんの視線が痛いんだけど」
 仕事の手が空いた時、オザがコマチに言った。
「あ、オレもそう思ってた。もしかしてオレらが辞めることで怒ってんのかなあ。遠藤さん、怒ったりしない人なんだけどなあ……」
 コマチも不思議がった。
「結構疲れた顔してるからイラついてんのかな」
 そんな風に2人が話しているところへ、ボーダーがやって来た。
「遠藤さんに、飲みに行こうって誘われた」
 コマチは「へえー」と驚いていた。
「いや、へえーじゃねえよ。おまえらも行くんだよ」
「え、オレらも?」
 コマチとオザは目を丸くした。
「オレ高校生なんだけど」
「それに遠藤さんだって、飲めないし」
「あの人オレらのせいで遅くまで仕事してるらしい。そんな忙しい時に話があるっていうんだから、何か重大な用件があるのかもしれん」
「やっぱ、オレらのことで怒ってんの?」
「そんな感じではなかったが……」
 3人は遠藤の思惑など想像できていなかった。


(同日 午後11時)

 遠藤が3人の待つ居酒屋に顔を出した。
「悪いね、遅い時間に」
 遠藤が3人に謝った。
「オレら明日休みですから、構いませんけど」
 コマチが言うと遠藤は承知していたようで、
「うん、だから今日しかないなあって思ったんだけど」
と笑った。
 その力ない笑顔に3人は危機感を持った。彼の目が笑っていないことに気付いてしまった。
「小野くん、アルコールはだめだからね」
「わかってますけど。じゃ、なんで……」
 遠藤はコマチの話を最後まで聞かず、生ビールを頼んでから3人を見渡した。
 その視線を受けて何か言われる前にオザが訊いた。
「遠藤さん、飲んで大丈夫っすか?」
「ん? うん。飲んだら眠れるかなと思って」
 相変わらず遠藤は緩い笑みを浮かべている。
「疲れてそうだな」
 ボーダーが気遣って言うと、
「うん、おかげさまで」
と返ってきた。
「い、嫌味だな……」
 コマチが顔を引きつらせた。言ってることが、“らしく”ない。
 オザはたまらず訊いた。
「迷惑かけたから、怒ってんですか?」
 遠藤は運ばれてきたビールをぐいぐい飲んだ後、オザに言った。
「迷惑? あ、辞める件? 今日言いたいことはそれじゃないんだ」
 3人は視線を交錯させた。
 じゃあ、一体何なんだ。

「オレね、最近付き合い出した子がいてさ」
 遠藤の口から出て来たのは思いもよらない言葉だった。3人とも思わず動きを止めた。
「その子があまりにも自由奔放なんで、ちょっといろいろと神経使っちゃってね」
「そ、ですか……」
 まさか遠藤から貴奈子のことを話題にするとは信じられなかった。
「わかるよね、君らなら、彼女の性格……」
 3人はしっかりと頷いた。
「念のため訊いておきたいんだけど」
「はい」
「君ら、彼女のことどう思ってるの?」
「え?」
 3人は、遠藤の質問に絶句した。
 遠藤はあっという間にビールを飲み干して、2杯目を頼んでいた。その様子に3人は尋常じゃないなと気付き始めた。
「遠藤さん、飲み方おかしいっすよ。なんか食べないと」
「いや、酔いたいし」
 どう考えても遠藤が、いや大人の男が言う言葉では無い。
「どうしたんだ……」
 ボーダーですら溜息を吐いた。見てられないという顔をした。
 遠藤は相変わらず笑っていた。
 これは、体と精神を壊す一歩手前だなと3人は思った。





第29話に続く≫
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