SWEET-SOUR-SWEET

【あらすじと目次】

●あらすじ●

自意識が低いせいで他人が自分の事をどう思っているか、あまり気にならない遠藤陽己。
おかげで、あからさまに愛情表現している古川貴奈子の気持ちにも全く気付かない。
はたして、鈍感で無神経な善人と揶揄される遠藤は、貴奈子の気持ちにに応えることができるのか。
甘くて酸っぱい柑橘系ラブストーリー。
主人公は20代後半 販売店主任。1話2500字程度、31話約80000字、長編。
(2016年発表、2017年一部改稿)

 

●目次●

#1 それは伝説 / #2 必然的事故 / #3 自己管理の問題 / #4 療養中なんですけど /
#5 意味不明 / #6 さらに意味不明 / #7 水の泡 / #8 奸計をめぐらす /
#9 意外と気付かない/ #10 貴奈子の決心/ #11 長さに負けないために/ #12 それは一体誰のこと?/
#13 結婚観の相違 / #14 大きな誤解 / #15 飲めない二人 / #16 泥酔の思考回路 /
#17 背けたのは心 / #18 夢も希望も混乱中 / #19 記憶に無くとも感情は甦る / #20 責めた理由/
#21 推測は疑念を呼ぶ/ #22 押さずに引いてみる/ #23 瞳はどこを見ている?/ #24 もう届かない/
#25 サヨナラは突然 / #26 告白の跡 / #27 sweetな夜 / #28 sourな一日 /
#29 sweetな朝 / #30 君との時間 / #31 新たな日常


 遠藤は自室に帰ってくると、床に倒れるように横たわった。頭が重かった。
 薄暗いままの部屋で、服を着替えるため彼はなんとか体を起こした。見ると、時計は11時半を表示していた。買ってきたお茶は既に冷たくなりつつあった。一口飲んでからスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを解いた。
 コートは帰ったとたんに、どこかに放り投げた気がする。よくみると、キッチンの近くに落ちていた。もういいや、明日なんとかしよう。
 ベルトをはずしかけた時、玄関のチャイムが鳴った。
 誰だ、こんな時間に。
 遠藤は勢いよくドアを開けた。
 ガンという音がしてドアが何かに当った。それでも気にせずズズズと押し開けたが誰もいない。なんだ幻聴か、と遠藤はまたドアを閉めようとした。
 しかしドアが重い。引っ張っても動かない。どうも向こう側でドアノブを握っている人間がいるようだ。遠藤は外へ出てドアの反対側を覗いた。
 そこにはノブを握ってうずくまっている影。女性のようだ。
「あれ? 古川さん……?」
 遠藤は首を傾げ、相手を見つめた。
 その人影が額を押さえているのを見てようやく自分のしたことに気付き、しまったと慌てて近寄った。
「ごめん、ドアに当ったよね」
 しかし、相手はすっくと立ち上がり、遠藤の前に立つと、彼の襟首をつかんでぐいぐいと前後に揺すった。その顔を見た時、遠藤は言葉が出なかった。
 相手は時間など気にせず、大声で叫んだ。
「誰よ、古川さんて!」
 加南子が鬼のような形相をしていた。

 遠藤が先に部屋に入った。
「ねえ、誰? 古川さんて」
 加南子は後ろ手にドアを閉め、部屋に上がり込んでそう言った。遠藤はテーブルの近くに座り、ベッドに背中を預けて眠りそうになりながら口を開いた。
「会社の子だよ」
 遠藤はただ事実を言った。しかし加南子はイライラした様子で彼の前に立った。
「その子がどうしてここに来るの? どういう関係よ!」
 遠藤はぼんやりとした目で加南子を見つめた。
「ん……? さっきまで飲んでたから、もしかしてって思っただけ」
 加南子は舌打ちした。
「飲んでたの? ハルミ、飲めないのに?」
「うん。仕方なかったんだよ」
「職場の付き合いだったわけ?」
「職場の付き合い……?」
 遠藤は首を傾げた。
「そうじゃないけど」
 簡単な嘘で加南子の怒りを回避できたのに、今の遠藤はそこまで頭が回っていなかった。
「意味わかんないんだけど。付き合いじゃないのに、なんでその子と飲むの。ほかにも誰かいたってこと?」
「いや、二人だけ」
 加奈子は体を震わせ、そして声を上ずらせた。
「その子に言い寄られてたの?」
「まさか」
 遠藤は笑った。
「じゃあ、口説いてたの?」
「へ?」
 意味がわからないと言う顔で加南子を見上げ、ゆっくりと立ち上がった。いい加減、寝させてほしい。
「加南子、なんで来たの? しかもこんな時間に。こっちから連絡するって言ったのに」
「だって、もう、治ってるでしょ。お酒飲めるくらいだし」
 遠藤が見下ろすと、相手はプイと横を向いた。
「ハルミは、私と会わなくても全然平気なんだ」
 言われて遠藤は小さな溜息と共に目を閉じた。
「会ってないのって、10日くらいじゃなかった? 風邪だったし、仕方ないだろ」
「仕方ない、仕方ないって……」
 加南子は両の拳を握りしめ、低い声を出した。
「誠意なさすぎ!」
 そう言ったかと思うと、加南子は握りしめたその手で目の前の男の腹を思い切り殴った。
 ドスッという音と共に、遠藤はうめき声すら上げられず体を折り曲げ、ひざをついた。
 痛みで力が入らず、腹を抱きかかえ、額を床につけた。
 そんな、酒が弱い男と知ってて腹を殴るなんて、悪魔か。吐く。吐くー。
 心で叫んでも声が出ない。
「ほら、気持ちよーく楽しーく飲んだお酒を、ぜーんぶ吐いちゃいなさいよ」
 遠藤は口をパクパク動かした挙句、ようやく声を絞り出した。
「……う、う、なんでおまえ、そんな……」
「こんな遅くまでほかの女と2人きりで飲んでんのに、許されると思うな!」
 遠藤は、そうかもしれないけど、と思いながらもこの仕打ちは無いなと思った。
「私はね!」
 相変わらず叫ぶような声で、加南子は言う。
「ずっと、ハルミに会いたかったんだよ!!!」
 それだけ言って、加南子は部屋を出ていった。
 とてもではないがその後を追いかける元気はなかった。


(3月5日 土曜日 午前6時)

 遠藤は目が覚めると、手洗いへゆきそのままシャワーを浴びた。
 風呂からあがると喉がひどく乾いていて冷蔵庫を開けた。水のペットボトルを取り出し500ミリを一気飲みした。冷蔵庫には前にアルバイトの男子3人組が持って来てくれたゼリー飲料くらいしか入っておらず、昨日コンビニに行って朝食を買っておけばよかったなあとぼんやり考えていた。
 遠藤の記憶は一部がすっぽりと抜けていた。加南子のことは憶えていたが、スナックを出た後あたりから部屋に戻るまでが消えていた。なので、自分がコンビニに行ったという事も思い出せない。
 もともと酒は弱いし普段から飲まないのだが、さすがに昨日の酔い方はいろんな要因が重なって、近年まれにみるほど最悪だったと言える。
 遠藤は、記憶が飛ぶほど飲むなんてありえない、と自己嫌悪した。二日酔いにならなかったのがせめてもの救いだ。
 深夜に帰っていった加南子は、無事に家に着いたんだろうか。
 きっと泊まるつもりで来たんだろう。でも、たとえ酔っていなくてもケンカになっていたような気がする。
 彼女が悪いわけではない。
 彼女をイライラさせているのは、間違いなく自分だから。



 
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(3月5日 土曜日 午後4時)

 男子アルバイト3人組は就業時刻の1時間前に出勤して来た。
「キナコは?」
「さあ、まだじゃねえ?」
 ボーダーは、先に来ていたオザに尋ねてからロッカーに向かった。すぐにコマチもやって来た。
「なんだよ、キナコまだなの?」
 コマチは不満そうな声を出した。
 皆、着替えた後テーブルについた。
「被告人はいないが始めるか」
「今日は裁判かよ」
 オザが言った。コマチは既に紙とペンを用意してスタンバっていた。

 裁判官ボーダーは、特にその言葉に反応することもなく続けた。
「昨日、キナコは大変な事件を起こしてしまったようだ」
「なに、なに?」
 回していたペンを止めて、コマチが身を乗り出した。
 2人が期待と不安の目でボーダーを見つめると、裁判官は低い声で話し始めた。
「王子によると……」
「おお」
 2人は息をのんだ。なぜなら、王子と呼ばれている西倉は、キナコと同じ部署で働いているからだ。何かを見ていた可能性が高い。さらに王子は軽口だが真実を語る男というのも有名な話だ。貴奈子が起こした様々な事件に対して、客観的に補足しているのは彼なのだ。
「キナコは片岡氏に誤解させてしまったらしい」
「何を?」
「気があるような素振りを見せた」
 ボーダーは王子から聞いた話を説明した。

 王子はたまたま片岡と貴奈子がいる棚の後ろの列にいて、二人の会話の一部始終を聞いていた。
 女性に免疫の無さそうな片岡が、『彼女はいるんですか』と訊かれ、さらに『イケメンですね』と褒められ、その上『かわいい』と言われていた。
 これは、片岡の様子を見ないわけにはいかないと、王子はわくわくした気持ちでそっと棚の横から二人を眺めていた。
 片岡は全身真っ赤だった。笑顔の貴奈子と緊張気味の片岡の様子を見れば、確定だ。
 キナコ、またやっちゃったよ!!
 貴奈子の言葉足らずはどうしようもなく、相手に誤解させることがしばしばだ。それに二人とも思い込みが激しく、貴奈子は完全に遠藤のことを思い描いて片岡に接しているのだろうが、片岡の方はすべて自分に対する気持ちだと勘違いしている。
 言葉足らずで気が回らない貴奈子と、自意識過剰で頭の固いの片岡は、ヘンな空気のまま別れたという。片岡はその場に呆然と立ち尽くしていたらしいが。

 そんな話を聞いたオザとコマチは、溜息すら出ずに視線を落とした。
「あー……何やってんだろーなー」
「片岡氏って遠藤さんと仲いいから、そのこと相談してんじゃない?」
「てことは、遠藤さんは、貴奈子が片岡氏を好きだと思ってるかもしれねーのか」
「遠藤さん、元カレの件でも誤解してるしね」
「うーわ。ますます無理だわ」
「それって、完全にキナコが二股かけてると思ってるよね」
「まさかそこに自分も絡んでるとは思ってねーだろーし」
「もういっそ、片岡氏とくっつけちゃう? そっちも案外面白いかも」
 陪審員たちの意見に、ボーダーが溜息をついた。
「でもキナコは、遠藤さん以外見てない」
 うーん、と皆がうなっている所に、貴奈子が出勤してきた。
 ただその姿は、3人が声をかけるのをためらうくらい憔悴していた。

「おはよ」
 貴奈子はそれだけ言ってロッカーの方に消えた。そしてなかなか戻って来ない。
「おーい」
 しびれを切らしてオザが大声で貴奈子を呼んだ。ロッカーの列は部屋の隅にあるので、声を出せば当然聞こえるはずだ。
「キナコー」
 返事がないので、オザが心配になり腰を浮かすと、ようやくテーブルに向かってくる貴奈子の姿が見えた。
「みんな、……もういいよ」
 早くから集まっている3人に対して、貴奈子は情けない笑顔を見せた。
「なんだそれ、もういいって」
 ボーダーが憮然として尋ねた。
「私もう、昨日最悪で。泣きたいよってゆーか、泣いてたよ……」
 今にもまた泣き出しそうな顔で、貴奈子は呟いた。
 3人のバイトたちは、当然ながら片岡のことを頭に思い描いた。片岡に誤解させてしまったことで落ち込んでいるのか、と考えていた。
 しかしテーブルに突っ伏して顔を伏せたまま、貴奈子は全く違う話を始めた。

「昨日さ、会社の帰りに遠藤さんと会ったんだけど……」
 皆は話の展開が妙だなと互いに顔を見合わせた。どういうことだ? 遠藤に何か片岡のことで責められたんだろうか。
「わたしね……」
 皆待っているのに、貴奈子はなかなかスラスラと話してくれない。
「その溜めはいらないから」
「さっさと言え」
 催促せずにいられない。深刻な話なのはよくわかった。だから、早く話せ、話してくれ!
「すごいピーでさ、漏れる!とか叫んじゃったの」
 皆はその告白に気圧(けお)されて、黙り込んだ。

「その後……、遠藤さんがフツーに、私のことなんか眼中に無いって……嫌っていうほどわかったの……。ていうかわかってたけど、リアルに悲しくて」
 3人は黙り込んだ。
 多分、キナコのこのセリフも、かなり言葉が足りてないはずだ。下痢の話はとりあえず置いておいて、遠藤さんとの間に何があったんだろう。
 溜息をつきながら、オザが口を開いた。
「今さらだわ。悲しんでてもしょうがなくね? 彼女がいる時点で、おまえがアウトなのはわかってただろ。焦らねーで、ゆっくり攻めていくしかねーって。そのためにオレらこうやって集まって作戦会議を……」
 そこまで言って、ああ、今日は裁判だったと思い直した。
 貴奈子はさらに落ち込んだのか、メソメソしだした。
 ボーダーは貴奈子の様子を見ながら、感情を抑えた声で言った。
「キナコ泣くな。ちゃんと話せ」


 3人は貴奈子に何度も質問をして話を補填させた結果、ようやく昨日の片岡のことや、遠藤とのやりとりについて詳細を知ることができた。
「遠藤さんの態度とは思えねー」
「酔っぱらって素が出てる」
「しかも、男にだらしないヤツだという目でキナコを見てるな」
 時計は5時前を指していた。皆は立ち上がり、事務所へタイムカードを押しに行った。




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 冬場は店内に常時暖房がかかっているため、スタッフは時々水分補給のために店を出る。また立ち仕事なので決まった休憩以外に数分の小休憩を取るのは、常識の範囲内で許されていた。
 それは売り場の責任者である遠藤も同じで、店の外側に設置された自販機で飲み物を買って一息つく。


(同日 午後8時頃)

 遠藤は名札のついたエプロンを脱いで、スーツ姿で店の外に出た。
 冷たい水を買って飲もうとした時、古川貴奈子が倉庫の出入り口からやって来るのが見えた。
 自販機がある場所は店の脇の路地だったが、ガラス張りの店の灯りのおかげで夜でも随分明るかった。
「古川さん、体調はどう?」
 遠藤は昨夜のことが気になっていて声をかけた。彼女は驚いていたが、彼の傍までやってきた。
「大丈夫です。昨日はありがとうございました」
 貴奈子はぎこちなく頭を下げた。
「倉庫は冷えるから、厚着したほうがいいんだろうけど。でも動くと汗かくし、困るよね」
 遠藤は、彼女の首から肩にかけて大きく開いたセーターを見て、風邪ひかないのかなと心配した。
「何飲む?」
 遠藤は自販機に金を入れた。
「あ、いいです、そんな」
「これくらいで遠慮しなくていいよ」
 遠藤は笑った。
「でも、昨日、お店でお金出してもらったし……」
 貴奈子はなかなか自販機のボタンを押そうとはしなかった。
 お店でお金、と言われても遠藤はすぐには思い当たらなかった。
「あ、ああ……。大丈夫、多分そんな高くなかったはず……」
 記憶があやふやなため遠藤はそう言ってごまかした。多分、スナックの支払いのことだろう。金額まで覚えていないが。
 彼は貴奈子を促して購入ボタンを押させた。
 嬉しそうにホットココアの缶を手にしていた彼女だったが、すぐに「あーーーー!!」と大きな声を出した。
「ど、どうした?」
 遠藤に背中を向け、缶を両手で抱え込むようにして体を曲げる貴奈子に、驚いて一歩近づいた。
「や、やばっ」
 貴奈子が小さな声でうめいている。
「古川さん?」
「やばい、太っちゃうー!」
「え?」
「痩せようと思ってたのに、いつものクセでこんなの買っちゃったー!」
 体全身を揺らして残念がる彼女を見て、遠藤は一歩下がり笑った。いつもながら、可愛らしい。
「そんな、無理して痩せなくても」
「だって、昨日遠藤さんに痩せた方がいいって言われたし……」
「え?」

 遠藤は、自分を見つめて泣きそうな顔をしている貴奈子に一抹の不安を感じた。
「俺が……?」
「言いました。ほかにももっと傷つくこと」
 遠藤は血の気が引く思いで、彼女を見つめた。
 記憶のない空白の時間、多分遠藤は貴奈子と一緒にいたはずだ。しかし痩せろなんて、その上傷つけたなんて、まさか。彼女に対してそんな思ってもいないことを言うはずはないのに。
「覚えてないなら、いいです」
 貴奈子が行きかけるので遠藤は焦って彼女を止めた。
 彼女の肩を掴んで強引に振り向かせていた。
「待って。酷い事言った……んだよね、ほんとにごめん。……ちょっと自分でもびっくりしてる」
 貴奈子は下を向いて言った。
「すごく辛かったです。悲しかった」
 遠藤はますます苦悶の表情を浮かべた。
「……謝るよ。だから……俺が何したのか、教えてくれないかな」
 少し屈んで、下から貴奈子の顔を覗き込んだ。
 遠藤は全く意識していなかったが、両手は貴奈子の肩をギュッと掴んで引き寄せていたので、ひどく距離が近かった。彼女はチラと視線をあげて、顔を強張らせていた。
 貴奈子の表情が曇ったことで、さらに遠藤は胸が痛んだ。
 自分は酔った勢いで、一体何をしたんだ。
 ふと、自分がスナックで知らぬ間に彼女の体に触れていたことや、その時に感じたなんとも言えない感情を思い出した。
 まさか、酔った勢いで彼女にセクハラまがいのこと……いや、もしかしてそれ以上のこと言って、きょ、強要したとか……?

 貴奈子は俯いたまま、小さな声で言った。
「私、片岡さんのこと好きだなんて思ってません。それにアツシのことも誤解です。だから、あんな風に責めないでください。軽蔑したような目で笑わないでください」
 それを聞いた遠藤は、自分が想像したことではなかったことに一瞬安堵した。
 しかし問題は解決していない。責めた? 軽蔑した?
 遠藤は全く記憶にないことを言われて呆然とした。
「そ、そうか。ごめん……」
 彼女の恋愛に口をはさんだり責めたりするなんて、そこまで親しくもないのに、何を考えていたんだろう。
 遠藤が黙り込むと、貴奈子は視線を落としたまま唇を震わせて言った。
「私、ほかにちゃんと好きな人がいるんです」
 貴奈子は悲しそうな顔をして遠藤に一瞥をくれると、彼に掴まれていた手を振り切って背を向けた。

 眉を寄せ、苦しみと切なさをにじませた瞳だった。
 そして、遠藤の目の前に彼女の細く白い首筋が見えた。
 いつもとなんら変わらず、髪をまとめ上げピンで留めていた。その見慣れたはずの彼女の後ろ姿に、遠藤は呆然と見入っていた。後れ毛に包まれた肌に目を奪われていた。トクトクと心臓の鳴る音がする。
『好きな人がいるんです』
 そう訴えた彼女の顔が目に焼き付いて離れない。心臓の音が少しずつ強くなった。

 すっと離れていく彼女の背中に、遠藤は、理解したくない後味の悪さを感じた。
 今まで気にならなかったことが、喉の奥でつっかえている。
 そんなに好きな相手がいたのか。それは片岡でもデートの相手でもない別の男だって言うのか。
 遠藤は片岡の言葉を思い出していた。

『え、ああ、キナコね。結婚したいみたいだよー?』
『やっぱりキナコ、いい子だよな。一途だと思うわ』

 それはどう考えたって、片岡のノロケだよな。

 胸が詰まり、苦しかった。片岡と貴奈子の関係がよくわからない。だから、悔しいような、腹が立つような、苛立つような。知らないことがもどかしかった。
 彼女があんな顔して好きだっていう相手は、誰?
 一体誰なんだよ。




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 ゲームソフトコーナーで商品整理をしていたコマチは、しばらく姿が見えなかった遠藤が浮かない顔をして店に戻って来たのを見ていた。
 仕事場ではいつも落ち着いていて感情を表に出さない遠藤だけに、コマチは少し気になっていた。
 そのとき、コマチの傍に女性客が一人近づいて来た。
「お兄さん、探してるものがあるんだけど」
「あ、はい、何でしょうか」
「恋愛シミュレーション系かなー」
 えーっと、とコマチは棚を指しながら、改めて客を見た。結構年上だ。美人だが痩せていて色っぽさには欠けるな、と値踏みしていた。
「ゲーム機の種類によって棚が分かれてるんですが、お客様がお持ちの機械は何でしょう……」
 コマチが言うのを、客は完全に無視して適当にソフトを触っている。
 まあ、若くない客なんてこんなものだ。人に訊いておきながら聞いておらず、また何度も同じ質問をする。そういうのは特に女性客に多い。
 すると急にその客は答え始めた。
「ハルミんとこにあるのは確か……“Wii U”だったかな」
「“Wii U”ですか?……“Wii U”にそんなソフトあったかな……ほかのなら……」
「やっぱ、いいわ」
 急に話を切るのもよくいるタイプだな、とコマチは思った。
「ね、イケメンのお兄さん、大学生?」
「え、いえ」
 コマチは首を横に振った。
「え、じゃあ、高校生?」
「はあ……」
「すごい、かわいー」
 コマチは黙って相手を見ていた。こういう反応をする女性には慣れているので、テンションがある程度まで下がるのを待って適当に相手をして退散しようと思った。
「ふーん。小野くんかあ」
 相手はコマチの名札を見てニヤッと笑った。
「ソフトの代わりに小野くん買っちゃおうかな」
 客はクスクスっと笑った。コマチもニコニコと愛想笑いを浮かべた。

 その女性客は何を考えていたのか、宙を見上げてから不意に「ね、主任さん呼んでよ」と言った。
「え?」
 戸惑うコマチに「シュ、ニ、ン、さん。遠藤っていう主任がいるでしょ?」と相手は言った。
「はあ。……わかりました。少々お待ちください」
 意味が分からなかったが、とりあえずさっき見かけたばかりの遠藤を探すことにした。

 上司はすぐに見つかった。
「遠藤さん、お客さんが呼んでるんですけど……」
 コマチはそう言って遠藤を連れ、急いでその女性客の待つコーナーへ向かった。
 しかし女性客の姿が見えると遠藤は急に立ち止まった。それからゆっくりと歩きだし女性客の前に立った。
「小野くんありがとう。知り合いだから」
 彼はコマチの顔も見ずにそれだけ言い、その客を促して店の外へ連れ出した。
 コマチは驚いて、すぐにボーダーとオザに声をかけた。

「あれ、遠藤さんの彼女じゃね?」
 3人はドキドキしながら、顔を合わせた。
「3人で見に行くとバレるから、誰か一人偵察に行こう」
 ボーダーが言う。
「オレ行くわ」
 オザが言って、そっと店の裏側の出口から外へ出た。
 彼はその後、遠藤たちの様子の一部始終を見つめていた。


「来るなとは言わないけど」
 遠藤は溜息交じりに言った。
「せめてスタッフの仕事の邪魔しないように頼むよ」
「私だって店に行く気はなかった」
 加南子はリサイクルショップの脇のガラスの壁にもたれながら彼を見上げて睨みつけた。
「ずっとそこの喫茶店にいたのよ。ハルミが店から出てこないかなーって思ってさ」
 加南子は目の前を指さして言った。路地を挟んだ向かい側に喫茶店があった。
「そしたらさ、ちょうど自販機のところにハルミが出て来たわけ」

 遠藤は目線を下げたが、表情を変えずに加南子の話を聞いていた。
「だから出て行こうと思ったら、女の子が出てきて……」
 加南子はすっと息を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。
「なんかイチャつきだしてんの」

 遠藤は姿勢を変えず、反論する気もなかった。
「あの子、フルカワって子なんでしょ?」
「そうだよ」と答えた。
 加南子は否定しない遠藤の顔をずっと睨みつけていた。
「何か言えば? 言い訳しないの?」
 言われてチラと加南子を見たが、また視線を下げた。
「言い訳って言われても……別に言うことないけど」
 ボソリと言葉を落とした。
 加南子は目を見開いたまま、抑揚のない彼の声を黙って聞いていた。

「加南子をイライラさせて悪いと思ってる。だけど、何にも言えない。疑うなら疑ってていいよ」
 ようやく瞳を上げて加南子の目を見た。
「ごめん、正直に言えばもう限界だなって思ってる。一緒にいても楽しいと思えないから……だから……」
 罪悪感を感じ口を開けたまま言葉を続けられないでいると、加南子はゆっくりと壁から背中を離して近づいて来た。
 彼女の右手が後ろへ撓(しな)ったかと思うと、ブンという音がして思い切り遠藤の左頬を平手で打った。
 衝撃とともによろけた。……相変わらず加南子の平手打ちは効く。

「暴力はふるうし、会えば責めてばかりの嫌な女だから別れたいの? でもね、嫌いだったら責めないよ。わかる? 好きだから責めたの」
 加南子は冷たくて暗い目をしていた。
「そんなこともわかんない男なんて、こっちから縁切るわ。二度と近づかないで!」
 ズンズンと歩いて去っていく加南子の後姿を、遠藤は呆然と目で追った。

 相撲部屋に響くぶつかり稽古のような音だったな、と苦笑が漏れた。
 まあ、あんな話をしてしまった自分が悪い。
 店に戻る前にズボンのポケットに入れていたマスクをかけ、頬の赤味を隠す。
 パートタイムの女性スタッフが、不思議そうに言った。
「あれ、主任、また風邪ぶりかえしたんですか?」
「うん」
 遠藤は反射的に返事をしたが、頭では違うことを考えていた。

 なんで責めたのかな。

 ふと、貴奈子に言われた言葉を思い出す。
『あんな風に責めないでください。軽蔑したような目で笑わないでください』

 俺はなんで古川貴奈子を責めたんだろう。




第21話に続く≫
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