SWEET-SOUR-SWEET

【あらすじと目次】

●あらすじ●

自意識が低いせいで他人が自分の事をどう思っているか、あまり気にならない遠藤陽己。
おかげで、あからさまに愛情表現している古川貴奈子の気持ちにも全く気付かない。
はたして、鈍感で無神経な善人と揶揄される遠藤は、貴奈子の気持ちにに応えることができるのか。
甘くて酸っぱい柑橘系ラブストーリー。
主人公は20代後半 販売店主任。1話2500字程度、31話約80000字、長編。
(2016年発表、2017年一部改稿)

 

●目次●

#1 それは伝説 / #2 必然的事故 / #3 自己管理の問題 / #4 療養中なんですけど /
#5 意味不明 / #6 さらに意味不明 / #7 水の泡 / #8 奸計をめぐらす /
#9 意外と気付かない/ #10 貴奈子の決心/ #11 長さに負けないために/ #12 それは一体誰のこと?/
#13 結婚観の相違 / #14 大きな誤解 / #15 飲めない二人 / #16 泥酔の思考回路 /
#17 背けたのは心 / #18 夢も希望も混乱中 / #19 記憶に無くとも感情は甦る / #20 責めた理由/
#21 推測は疑念を呼ぶ/ #22 押さずに引いてみる/ #23 瞳はどこを見ている?/ #24 もう届かない/
#25 サヨナラは突然 / #26 告白の跡 / #27 sweetな夜 / #28 sourな一日 /
#29 sweetな朝 / #30 君との時間 / #31 新たな日常


 貴奈子は片岡から遠藤の情報を聞こうと思っていたのだが、どう切り出していいのかわからなかった。
 遠藤さんの彼女のこと知ってますか。
 本当は訊きたかったけれど、そんな風に訊いたら遠藤の耳に入ってしまうと思われた。
 貴奈子は仕事もせず台車に座り、うーんと考え込んだ。

 片岡はその様子を遠くから見ていたが、叱ることができなかった。
 心臓が大きな音を立てている。これは恥ずかしい。恥ずかしすぎる。誰にも言えない。でも、遠藤なら。あいつならキナコとも仲がいいし、口も堅いし、相談しやすい。よし、今日は遠藤を飲みに誘おう。あ、病み上がりか。
 片岡はブツブツ言いながら、遠藤のいる事務所に戻っていった。


 遠藤がパソコンのファイルを開き、店が発行しているカードの顧客名簿をチェックしている時だった。倉庫から戻ってきた片岡が隣の椅子にドカッと座るとデスクに突っ伏した。
 店長は店に出ていて、事務所は二人きりだ。事務員も定時で帰っていった。
「おい、片岡」
「……」
「どうかしたのか?」
 訊かれて片岡は顔を上げないまま言った。
「おまえ、職場恋愛ってどう思う?」
「え……」
 突然切り出され、遠藤の仕事脳は急停止した。
 片岡がむっくりと起き上がり、赤く上気した顔と真剣なまなざしで遠藤を見つめるではないか。
 一般的な世間話をしている様子ではないとすぐにわかった。
「……毎日会ってるから好きになるんだろう。よくあるパターンだと思うよ」
 そう言うと片岡はぐっと黙り込んだ。

 遠藤は体を起こすと、パソコンを放置して片岡へと向き直り、相手が何か言う気になるのを待っていた。
 すると、片岡がようやく口を開いた。
「オレ、結婚するかもしれない」
「!!結婚……?」
 急な話に呆然として片岡の顔を見た。
「オレが今まで相手の気持ちに気付いてやれなくて、かわいそうだったなと思うんだ……。今思い返せば意味深な態度もあったような……あああ」
「相手、誰なんだよ、教えてくれよ」
 少し戸惑いつつも片岡をつついた。
 片岡はまた真っ赤になって、椅子に座ったまま床に手がつくくらい体を折り曲げた。もう照れるという域を通り越して、悶えているという感じだ。
「笑わないか」
「笑わないよ。笑うわけないだろ」
 片岡は姿勢を元に戻し、真顔で遠藤を見つめた。
「キナコ」

「キナコ……」
 遠藤はオウム返しで呟いて、数秒してから「ええ!」と驚いた。
「相手って古川さん?……おまえ……おまえと古川さん??」
「いや、オレはね! そりゃ、ウチのバイトだし、今日までっていうかさっきまでそんな目で見てなかったよ。でも、キナコの方は違ったのかな……。いつからだったのかなあ〜……」
 遠藤は言葉を失くし、目を丸くして片岡を見つめた。

 何か夢でも見ているように、片岡は呟く。
「あいつ、よく見ると可愛いよな」
「う……うん。可愛いと思う……けど」
「結婚してお嫁さんになりたい……って言われちゃって。いや、オレもさ、可愛い嫁が早く欲しいしさー。職場結婚とかアリかなあーって考えちゃってさ。遠藤、どう思う?」
 片岡が小声で言うのを、遠藤はずっと凝視したまま、顔だけ横に振った。
「でも……いや……えっと、なんて言っていいか……」

 遠藤は古川貴奈子の顔を思い浮かべた。
 いつも可愛い笑顔を見せてくれていた。でもそれはみんなに平等な笑顔だと思っていた。片岡にだけ特別な感情で接していたのか? 彼女は確かデートしてる相手がいたはずなのに、片岡はそれを知ってるのか?

 遠藤は複雑な表情を浮かべた。
「……結婚まで考えるの……まだ早いんじゃ」
「そうだよな。オレもそう思うけど、キナコがなー」
 片岡は照れながら言った。

 結婚したいって言われてるのか……。

 遠藤は視線を落として、片岡の笑顔を見ないように言った。
「……ちゃんと付き合ってみればいいんじゃないか? 結婚前提なら店長も文句は言わないと思うし……」
「ああ。ありがとう。そう言ってくれると思ったんだー」
 片岡の安堵の溜息が聞こえた。

 本当の話なら応援しなければと思った。恋愛下手な片岡がせっかく見つけた希望の芽なんだから。そうわかってはいるが、遠藤には割り切れないものがあった。
 結婚か。


「よーし」
 片岡は立ち上がり、力強い足取りで事務所を出て行った。
 遠藤はその姿を黙って見送った。片岡のたまらなく嬉しそうな顔が目に焼きついて離れない。
 腹の底から出る溜息は、不快感そのものだ。
 片岡を憎んでいるわけでも、軽蔑するわけでもない。
 ただ、どうしても矯正できない、自分の中の歪みが苦しかったのだ。


 高校の時に親が離婚した。そんなことはよくある話だ。
 原因は父の借金だった。それまで父には可愛がってもらったし、父が大好きだったのに。
 父は夜中まで家に寄り付かなかった。そして、帰ってきたらケンカが始まる。毎晩、朝方まで。中学の時はもう、お願いだから家に帰って来ないでくれと思った。
 でも両親が離婚しても安堵するような生活はやってこなかった。母と一緒に暮らすようになった彼は、母の苦労を目の前で見て来た。だからすぐに新しい父ができても反対はしなかった。
 ただ、痛感したのだ。結婚とは愛情ではなくて経済的な契約でしかないと。
 破たんしたのも金の事情で、再婚するのも金の事情。
 それなら最初から結婚なんてしなければいい。社会への体裁以外でしか、家庭を持つ意味なんてないんだから。

 加南子も。
 ずっと俺が結婚を決意するのを待っているみたいだ。イライラしている様子が伝わってくる。
 彼女に会うのが億劫だ。結婚したいと思うなら俺以外の男と付き合ってほしい。
 そうだよ、俺の考えの方が間違ってるよ。でもどうしても前向きには考えられないんだ。片岡や加南子の気持ちに共感することができない。
 大人になってから自分の価値観を変える事は難しい。
 大きな影響を受けるような何かにめぐり合わなければ。



 
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 在庫置場に戻った片岡は、自然と貴奈子の姿を探した。
 彼女は棚の方に向かって携帯電話を触っていた。こちらに背中を向けている。
 片岡は声をかけようか迷いながら近づいた。何か適当な話題、仕事の話はないものかと考えながら近くまで来た。口を開け、声をかけようとしたその時、彼女が見つめる携帯電話の大きな画面に目が行った。
 黒い文字がはっきりと見て取れる。
 遠藤陽己。
 そしてその下に携帯電話の番号。
 彼女はその携帯電話をギュッと抱きしめてから、パッと振り返った。そこに片岡を見つけて、声も出ないほど驚いていた。そしてすぐに顔を真っ赤に染めた。
「遠藤に用事か?」
 片岡は気まずさを感じたが、見てしまったものを見ていないふりができなかった。
 彼女は慌てて携帯電話を後ろ手に隠した。
「呼んできてやろうか? 今、事務所に……」
「い、いいです、いいですから、あの、……言わないでください」
 貴奈子は懇願するような目で片岡を見つめた。
「なんで? 知られたくない……のか?」
「はい……」

 遠藤と電話のやり取りがあることを人に知られたくないって、どうしてだ。
 なんで、そういう切ない表情をするんだ。
 今まで笑った顔と驚いた顔と落ち込んだ顔くらいしか見たことが無いのに。
 貴奈子の態度は余裕がなく、怯えてさえいるようだ。
 片岡はできるだけ平静を装って、
「わかった。黙っててやる」
と言った。そう言った後の彼女の反応を知りたかった。
「すみません。お願いします。片岡さんのこと、信じてますから」
 貴奈子は逃げるように片岡の傍をすり抜けた。
 後ろめたさに凍った表情が示していた。
 多分、貴奈子は遠藤と……。

 片岡はしばらくその場で立ち尽くしていたが、脱力し大きな溜息をついた。
「そーか、そーなのか」
 片岡は頭を掻きながら、
「ま、いーや」
と呟いて仕事を始めた。


 貴奈子は焦っていた。多分片岡に知られてしまった。彼女が遠藤を好きだということを。
 別に遠藤に気持ちを知られても構わないけれど、というよりわかって欲しいくらいだけれど、片岡から伝えられるのは嫌だった。
 どんな風に伝わるかわからない。そして、片岡から聞かされることで、遠藤が不快に思うかもしれない。もし事務所で大きな声でバラされたりしたら、確実に遠藤に迷惑がかかる。
 どうか黙っていてほしい。私の口から伝えたい。
 貴奈子はそれだけを願っていた。


(同日 午後9時頃)

 遠藤は事務所の時計を見た。店長から、今日は残業せずに9時で帰れと言われていた。
 晩飯をどうしようか迷っていた。自炊したことが無いため、もし食べるなら自宅のマンションとは反対方向の駅前の店に行かねばならない。やめておこうか。体の調子は良かったが、加南子のことや片岡の結婚のことを考えたせいで、食欲がなくなってしまった。
 その時トントンと事務所のドアがノックされ、「お疲れさまでーす」とアルバイトたちが入って来た。閉店時間だった。事務所にあるタイムカードを押して、休憩室へと急ぐ。この時間、しばらくドアは開けっぱなしだ。
 片岡もバイトたちに混じって帰って来た。
「お疲れ」
 遠藤が声をかけると、「ああ」と片岡は笑ってから視線を逸らした。
 さっきとは打って変わって元気が無い。

「さっき、野口からメール来たんだけど」
 遠藤は少し迷いながらそう言った。野口とは遠藤の高校の後輩で、以前片岡に紹介した子だ。
 その言葉に片岡は、バッと遠藤に向き直った。
「なんて言ってきた?」
「なんかおまえのことが知りたいみたいで……何が好きで、どんな所で遊ぶのかとか、訊かれた」
「おー! これってもしかしていい展開なんじゃねぇのー!」
 片岡は急に明るい声で嬉しそうに言った。
「え」
 遠藤は困惑気味に片岡を見つめた。
「そうだな、オレは食べるものなら寿司が好きで、酒は日本酒党。趣味は書道と映画鑑賞、美術館巡りも好きだし、休みの日は海や山に写真撮りに行くかなー」
「ああ……伝えとく」
 片岡のハイテンションぶりにしばらく黙っていた遠藤だったが、とうとう「古川さんはどうなったの」と尋ねた。

「え、ああ、キナコね。結婚したいみたいだよー?」
「それはさっきおまえの口から聞いたけど」
 不審そうな顔をしていると、片岡が遠藤の肩をポンポンと叩いた。
「やっぱりキナコ、いい子だよな。一途だと思うわ」
「?……そうだね」
 彼は片岡がノロケているとしか受け取れなかった。
 でも、それならどうして野口とも付き合おうとするんだろう。古川さんのことはどうするんだ。

「さっき遠藤が複雑な顔してた意味がわかったわ。気を悪くしないでくれよな、邪魔する気はないし、オレは誰にも言わないから」
 片岡はよくわからないことを口走って笑った。

 その時誰かが事務所に入って来た。
 タイムカードを押しに来た古川貴奈子だった。彼女は遠藤と片岡に対して、緊張気味に微笑むと打刻して部屋を出て行った。
 片岡が、急に遠藤の背中をバシッと叩く。
「がんばれよー」
「な、なんだよ?」
 遠藤はただ呆然として、鼻歌混じりで残務処理をする片岡を見つめるだけだった。




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 遠藤が仕事を切り上げて事務所を出たのは、9時15分ごろだった。
 マスクを外して冷たい空気を思い切り吸うと、開放感でなんとなく食欲が戻ったような気がする。
 駅に向かうまっすぐな道を歩いていると、車道を隔てて向こう側に飲食店がポツポツと見えて来た。

 歩き続けて行くと、その飲食店の並ぶ道に3人の男女がいるのに気付いた。車道を横断すれば距離にして10メートルもない、すぐそこだ。
 小柄な女性が飲食店の外壁に顔を向けて倒れかかっており、それを見つめるように二人の男が立っている。なんだか様子がおかしかった。
 遠藤は歩きながら、それとなくその3人の様子を見ていたが、背中を向けている女性の格好に見覚えがあった。
 あのベージュのコートは確か……店に出勤してくる時や帰り際に見たことがある。栗色の長くてやわらかそうな髪。もしかすると彼女じゃないのか?

「古川さん?」

 遠藤はさっと道路を渡り、男2人を押しのけるようにして一歩踏み込み貴奈子の肩を掴んだ。彼女は少しだけ顔を動かし青ざめた顔で遠藤を見たものの、そのままその場にしゃがみ込んでしまった。
 すぐに後ろを振り返った。そこにいた男たちは、彼の責めるような視線を受けて困った顔で言った。
「通りかかったら、何か苦しそうにしてたから……」
 大学生くらいだろうか。態度も表情も暴力的な要素の無い、ごく普通の男子たちだった。彼らが貴奈子に危害を加えたわけではなさそうだった。
「あのー、救急車とか呼んだ方がいいですか?」
「……いや、ありがとう。知り合いだから、あとはオレが様子みる」
 遠藤は二人に礼を言って、すぐ貴奈子を振り返った。
「古川さん大丈夫?」
「……あの、遠藤さん」
 呼吸も荒く、貴奈子が声を出した。
「何?」
「痛い……」
 遠藤は焦り、蹲る彼女のすぐそばに腰を下ろしてその顔を覗き込んだ。
「どこが痛い?」
「おなか」
 遠藤の脳裏に腹痛を起こす病気の名が浮かぶ。腹膜炎か? 盲腸か? 胃潰瘍か? まさか腫瘍系か?
 緊張したが、もし何かの炎症を起こしていたらきっと熱があるはずだと思い、貴奈子の額に手を当てた。
 すると、熱はなかったが、べったりと汗がてのひらについた。
 この寒い中のこの汗はいわゆる脂汗というやつだろう。
「病院行こう、いま救急車を……」
 そういう遠藤を遮るように、貴奈子が大きく首を横に振った。
「違います……」
「違う?」
「おなか痛い……」
 苦しそうに顔をしかめる貴奈子を見て、遠藤は声を大きくした。
「だから、病院行かないと」
「違う……」
 貴奈子が、少し目を開けて、遠藤に顔を近づけた。数センチ先にお互いの顔があるが、今はそのことすら何も感じないくらい遠藤は緊張していたし、貴奈子は苦しんでいた。
「違うって……」
「……り……です」
「え?」
 貴奈子は泣きそうな顔で言った。
「下痢です。漏れそう!」

 遠藤は言葉が出ないくらい驚いた後、安堵のため息をついた。
 しかし、かと言ってホッとしてばかりはいられなかった。緊急事態なのだ。
「わかったちょっと待ってて。すぐ戻る」
 貴奈子がいる場所から一番近い店は小さなスナックだった。知らない店だが、遠藤はためらうことなく中に入った。


 貴奈子が小さな個室から出て来たのは、遠藤がビールをコップ2杯ほど飲んだ時だった。
 店のママが快くトイレを貸してくれたので、彼はお礼がわりにビールを頼んだのだ。

 店の中は間接照明で薄暗く、ママのいる場所だけは強いスポットライトで照らされて明るかった。席はカウンターしかない小さな店で、客はいなかった。
 遠藤は、貴奈子が戻って来ると、ようやく安堵した。
「顔色良くなったなあ」
「あ、ありがとうございました」
 貴奈子は顔色が良くなったというよりは、赤面して俯いていた。
「間に合ってよかったわねえー」
 見た目50代以上のママも、そう言って笑った。

 貴奈子はためらうような足取りで、カウンターに座る遠藤の隣のスツールに腰かけた。
 遠藤の脚に、コツンと貴奈子のひざが当たった。狭い店なので仕方無いことだが、遠藤はその短いスカートから見える白いひざにドキリとした。
「何か飲む?」
 ママに訊かれた貴奈子が困ったように遠藤を見た。

「酒、飲めるの?」
 遠藤は貴奈子に顔を寄せて小声で尋ねた。
「いえ、ぜんぜんダメです」
 貴奈子も遠藤を見ながら、小さな声で答えた。

 遠藤はママを見て、
「まだこの子、未成年なんでウーロン茶でもいいですか? あ、ホットで」
とお願いした。
「未成年なら、しょうがないわね」
 ママはそう言って2人の前から離れた。

「未成年じゃないですー」
 貴奈子が小声で不満そうに言った。
 遠藤は「わかってるよ」と言って彼女のふくれた頬を見て笑った。
 カウンターの端からママが「彼女が飲まない分は、遠藤さんが飲んでねー」と言った。
 遠藤は苦笑した。仕方なくビールをコップに注ぐと瓶が空になった。
 そして、貴奈子の耳元で言った。
「実は俺も飲めないんだよね」
 貴奈子が驚いて遠藤を見た。
「そうなんですか?」
 その貴奈子のまんまるの大きな目に、遠藤は息をのんだ。
 しまった。俺は何してんだろう。
 自分の方を向いた貴奈子の瞳孔がはっきり見えるくらい、彼女に近づいていた。自分の肩も脚も貴奈子の体にがっつりと当たっている。それに気付かないほど注意力が衰え、距離感が鈍っている。
 空っぽの胃袋に流し込んだビールが、心臓をハイペースで動かしていた。
 やばい、俺、酔ってる。




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 その後、遠藤はママに勧められてもう一本ビールを空けた。
 久しぶりに飲んで少しぼうっとなっていたせいか、注がれるままに飲んでしまった。
 やばい、やばい。
 そう思いながら、楽しそうにママと話をしている貴奈子を横目で眺めていた。

 俺が通りかからなかったら、あの男子2人に助けられてたのかな。そうだろうな。可愛いからな。男ならほっとかないよな。オレじゃなくても誰かが助けてくれる。それが片岡かもしれないし、デートしてた男かもしれないし。バイト仲間かもしれないし、通りすがりのヤツかもしれない。
 でも、この子はどう思ってるんだろう。こうして傍にいるヤツが俺でよかったんだろうか。

「遠藤さん」
 ママに呼ばれて視線を戻した。貴奈子が個室にこもっている間に名前を聞かれ、それからずっと名指しだった。
「彼女の顔ばっかり見て、やーねえ」
「えっ」
 遠藤はピッと背筋を伸ばした。
「そんな目でじっと見てたら、彼女、困っちゃうんじゃないー?」
 ママにニヤニヤと笑われて、遠藤は慌ててビールを注文した。
 ビール3本など、彼には未知の世界だった。


 帰り際「また今度来ますね」と貴奈子が言うと、ママが「絶対よー。遠藤さんと一緒にねー」と色っぽい声で送ってくれた。
 貴奈子と二人になって駅の方に歩き出すと、遠藤は時計を見て溜息をついた。
「ごめん。もう11時だ……家の人心配してるだろうな」
 貴奈子が家に電話すると言った。二人は道の端で立ち止まった。貴奈子は電話に出た母に、自分が下痢で帰れなかったことを伝えた。
「ごはん?……ああ。そだね、忘れてた。コンビニでなんか食べられそうなもの買って帰る。……うん、じゃねー」
 電話の後、貴奈子は遠藤の顔を見上げた。
「遠藤さん……」
 急に呼ばれて貴奈子の顔に焦点が定まった。
「もしかして、ごはん食べそびれたんじゃ?」
「いや。大丈夫」
 遠藤は笑ってごまかした。ひどく酔いが回っていてそれどころではなかった。

 確か店を出る前に夜の分の咳止め薬飲んだよな、完全に忘れてた……。
 空きっ腹に、薬と飲めないアルコールを満たした自分が、前後不覚にならないのが不思議だった。人と一緒にいるという、その一点だけで精神を支えている気がした。

 コンビニに入ると、貴奈子はカゴにおにぎりとダイエット用のシリアルとオレンジの炭酸飲料を入れていた。
 そのカゴの中身を見て、遠藤は、
「妙な取り合わせだな。痩せたいのか痩せたくないのかわからない」
と呟いた。
「痩せたいんですけど……」
「そう。……そうだな。もう少し痩せた方がいいかな」
 確か片岡は痩せ気味の子が好きだったなと遠藤はぼんやりと考えていた。
 言われた貴奈子は黙って俯いた。

 ホットドリンクコーナーのお茶を手に取ると、貴奈子が心配そうな顔をした。
「遠藤さん、それだけですか?」
「うん」
 遠藤はすべての会計をすませ、コンビニを出た。
 先に立って駅までの道を歩こうとする遠藤の後ろで、貴奈子が言った。
「遠藤さん、酔ってます?」
「うん、すげー酔ってる」
 遠藤は振り返りもせず言った。
「でも、ちゃんと駅まで送るから」
「いいです。大丈夫です。遠藤さんのマンション反対方向じゃないですか」
「そうだよ? でも駅すぐそこだし。それに、古川さんに何かあったら片岡に怒られる」
「遠藤さん」
 貴奈子は立ち止まった。数歩先を歩いていた遠藤は「ん?」と振り返った。
「どうしたの?」
「ありがとうございました。ここで大丈夫です。もう帰ってください」
 遠藤は呆然と貴奈子を見ていたが、ふと、
「俺なんかとは一緒にいたくないってこと?」
と訊いた。
「い、一緒にいたくないわけないじゃないですか」
 遠藤は何度かゆっくり瞬きした。“ない”が多すぎて、結局どういう意味かわからなかった。
「好きだし。遠藤さんのこと」
 そうか、嫌われてないのか。じゃあ、訊いてもいいのかな。
「なー。片岡のことなんだけど」
 思考能力はどんどん低下し、思いついたままを口にしていた。
「片岡さん?」
 貴奈子は怪訝そうな顔をした。
「さっきから片岡さんがどうとか言ってましたけど。なんのことですか? ケータイの話?」
「ケータイ? 違うよ、古川さん、片岡と結婚したいんだって?」

「なん……ですか、それ……」
「でもさ、最近もデートしてる相手いたよね。古川さんがホントに好きなのは誰? もしかして何マタもかけてんの?」

 遠藤は口が勝手に動いているな、と自分で感じていた。
「あ、ありえないです! 私が好きなのは遠藤さんだけです!」
「そこにオレも入るの? だめだろ、そういう八方美人なこと言ってたら」
 からかうなよ、マジで受け取るヤツだっているのに。思わせぶりはよくないなあ。好きなのは片岡だろ? はっきりしろっての。

「私、遠藤さんのこと、マンションまで送ります!」
「男みたいだなー」
 遠藤は自分でもろれつが回っていないことに気付いた。
「こんな遠藤さん、放っておくなんて心配です。帰れません」
「心配する男が多くて大変だねー」
 くすくす笑う遠藤に、貴奈子は体を震わせて言い返した。
「片岡さんやアツシのことは誤解です! そんな軽蔑した目で責められる理由ないのにっ!」
 遠藤は意味が分からないという顔をした。
「あれー? 店休んでデートしてたことも、片岡が結婚に前向きなことも、全部、確かに、俺の耳で聞いたんだけどなー」
 貴奈子は大股で歩いて、遠藤の後ろに回ると、いきなり彼の背中を押し始めた。
「うわ、何すんだよ」
「早く帰って寝てください!」
 遠藤は貴奈子に押されて、駅とは反対のマンションの方角に向かって歩き出した。
「待って、待って、古川さんー」
 コケそうになりながら言ったが、貴奈子はずっと押し続けた。
 遠藤はしばらく諦めたようにされるがままになっていたが、急に、
「わかった」
と言って、くるりと振り返り、貴奈子の目の前に立った。
「俺が帰れば納得するんだよな」
 なぜか、ハッキリした声が出た。
「じゃあ、帰る。古川さんもちゃんと気を付けて帰ってくれよ」
 遠藤はまた貴奈子に背を向けて、歩き出した。今度はまっすぐ自分のマンションに向かっていた。
 後ろにいる貴奈子を振り返ることもしなかった。




第17話に続く≫
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