きっと明日も手をつなごう

【あらすじと目次】

●あらすじ●

無理矢理医師を目指す環境に置かれた悠は、両親を恨み、患者を蔑み、自分のことも肯定できず、苦しんでいた。
その時出逢った生島亜実と涼太のおかげで、彼は救われ幸せを手に入れるが……。
主人公は20後半医師。1話3800字程度、全約40000字、中編。
  ※ 家族の物語のため、生と死が主題。

 

●目次●

<父のこと>
第1話 父を知らぬ息子  /  第2話 医者と患者  /
<僕のこと>
第3話 変わってゆく世界  /  第4話 その兆候   /  第5話 出逢った意味  /  第6話 連鎖  /
<母のこと>
第7話 物語    /  第8話 そこにある命   /
<大切な君のこと>
第9話 同じ途(みち)  /  第10話 新しい扉   /  第11話 大切な君のために   /
  あとがき


 母は独りになると、墓の前で俯き肩を落とした。
「尚さん……」
 あまりにもひどいわ、と彼女は思った。
「そっちはどんな世界なの?」
 蝉の声が彼女の言葉を遮る。

 白く輝く太陽が、青空を切り取りそこから光を溢れさせているように思えた。
 それは出口のようであり、入口のようでもある。
 もしそうだとしたら、その出入り口を通ってそっちの世界へ行けるのだろうか。

「私を連れて行ってくれればいいのに」
 いくら溜息をついたところで、もう時計の針は戻らない。刻々とその時間は近づいてくる。
「でも、体の痛みがまだ取れないのかしら。……私では、尚さんの役に立たないのね」
 掠れた自分の声が、まるで他人のもののように聞こえる。
 優しかった尚の、病床の最後の笑顔を思い出す。
「ねえ、尚さん。あなたはもう、亡くなってしまったのよ……」
 あなたを忘れたわけじゃないの。でもね、私は悠も大切なの。

「お願い、たとえ悠でも亡くなってしまったあなたのことは治せないから。だから……」
 母は自分を責め、頭を抱えるようにして号泣した。
「悠を……、……、連れて行かないで……」




 その連鎖は、一体いつから始まっていたのだろう。
 彼女がそのことに気付くまで、29年かかった。


 栖河基美はその時、妊娠30週に入っていた。
 夫である栖河尚は嬉しそうに彼女のお腹に手をあてていた。基美の顔を見て彼は、はにかむように笑った。
「なあ、基美」
 尚の優しい顔が傍にあった。
「今、幸せ?」
「あたりまえです!」
 今さらそんなこと言わせないでよ、と基美は恥ずかしくなった。

 尚のひざの上には、べったりと甘える雅一がいた。
 尚と雅一は、本当に他人なのかと疑いたくなるほどに仲がいい。きっとお腹の子が生まれても、この人なら実の子とわけ隔てなく愛してくれるだろう。
 結婚に強く反対していた義母も、基美が妊娠したのをきっかけに何も言わなくなった。赤ちゃんのパワーはすごい。基美はお腹の子どもに感謝していた。

「尚さあん」
 雅一が、基美と同じようにサンづけで尚を呼ぶと、彼はとても嬉しそうに目を細める。
「おまえ、そろそろ父さんって呼べよ……。で、なんだ、遊びに行くか?」
「うん、行こう! 消防車見に行こう!」
「それは、遊びに行くとこじゃなくて……職場なんだけどなあ。休みの日に行きたくないなあ」
 そう言いながらも尚は、雅一の望みを全て叶えようとする。甘やかすのはやめてと言ったが、かわいいからしょうがない、と反論された。そんなことを言われたら、基美も嬉しくなってそれ以上何も言えなくなってしまう。

「ねえ、ご飯食べてからにしたら?」
 基美は昼食をテーブルに並べた。
「そうだぞ、雅一。ちゃんと食べたら連れてってやる」
 尚が雅一の頭をメチャクチャに撫でた。雅一はまた嬉しそうに尚を見上げている。
「尚さんもですよ!」
 思わず基美が言うと「俺はいいよ。若い時ならいざ知らず、じきに30になるし節制しないと」と彼は笑った。

 なんだか変だなと基美は思っていた。
 尚は鍛えてはいるものの、どちらかと言えば痩せ型だったから。でも彼はいつも元気に雅一の相手をしながら幸せそうにニコニコしている。そして実際に幸せだと何度も口にする。だから思い過ごしなんだろうと思っていた。

「俺はね、お腹の子もそうだけど、雅一を連れて来てくれた基美に感謝してるんだ。夫としてだけでなく、いきなり父親の幸せをくれた。頑張れるんだよ。父親だと思うとね。二倍くらい頑張れる……」
「そんな単純な計算なんですか?」
 尚が感慨深げに言うので、基美は笑った。幸せなのは尚だけではない。一緒にいる基美も雅一も幸せで、何一つ不満の無い生活だった。

 尚が倒れるまで。



 病院のベッドでも、尚は笑顔だった。毎日やってくる雅一を抱きしめ、基美にお腹の子の様子を訊く。
 基美は彼の前でも雅一の前でも泣けなくて、病室を出てトイレで泣いた。


「無理ですね」
 消化器内科の医師は冷たく言った。
「何度も言うようですが、ステージW*1です。その上、ご本人が治療を拒否されてますし、こちらとしては何にもできません。ご自宅に帰られますか? それとも終末期医療を受けますか? 紹介状はいくらでも書きますよ。満床なので、治る患者さんのために移っていただきたいんですよ」
 この若い医師に会うたびに、強い憤りが基美の中に湧き上がる。
 専門家がここまではっきりと無理だと言うなら諦めなくてはいけない、とは思う。でも、こんな事務的な言い方があるだろうか。たとえ望みがなくても、最後まで尚のために努力してくれたっていいじゃないか。その姿だけで納得できるのに。
 医師はただ、余命1か月と告げただけだ。
 尚は、ホスピス病棟へ移り、緩和ケアを受けた。

 ある日、尚は言った。
「ユウにしないか? 女の子なら、優しいっていう字、男の子ならハルカっていう字。悠久のユウだよ」
 尚は痩せた手で基美のお腹に触れた。
「この子だよ。名前、考えてたんだ、ずっと」
 その日の夜、彼は意識が消え、そのまま戻って来なかった。



 栖河尚が亡くなって二カ月。生まれたばかりの悠を抱いて、基美は呆然としていた。尚はまだ、30歳になったばかりだった。結婚して一年にも満たない。
 四十九日が終わっても何も考えられない。どうすればいいのかわからない。
 義母は何も言わず基美の背中を優しく撫でてくれた。雅一も基美の悲しみをわかっているようだった。あれほど好きだった尚のことは口にせず、悠のことばかり気にする。たとえ5歳でも、男の子はこんなにも強いのか。それはきっと病床の尚の姿が、雅一に与えた強さかもしれない。

 基美は親戚の目が怖かった。
 義母だけは基美に優しくしてくれたが、尚の周囲の人は彼を愛していた分だけやりきれない表情を浮かべる。直接ひどい言葉を吐かれるわけでは無いが、慰めてくれるわけでもない。
 尚の傍に居ながら、病気が悪化していても気付かなかった嫁に、何も言うことは無いようだった。



 ただ、日に日に大きくなる悠は、時々、尚を思い出させるような目をした。

 仕事をしている基美は悠を保育所に預けていた。あまり構ってやれないのに、悠は怒ることも拗ねることもない。家で子どもたちに留守番させる時も、機嫌よく雅一と遊んでいる。

 それは、雅一が10歳、悠が5歳の夏のことだった。

 もとから面倒見のいい雅一は、その日も保育所に付き添ってくれた。
 帰り道、いつものように悠は基美と雅一の間に入って手をつなぐ。雅一としりとりをしていた悠だったが、ふと基美を見上げて言った。

「ねえ、今、幸せ?」

 基美は思わず悠の目を見て立ち止まってしまった。
 尚の目だ。この子の中には尚がいるんだ。



 泣いてはいけないのに、涙が止まらなかった。
 雅一が心配してしまう。悠も心配する。だから涙なんて見せてはいけないのに、基美はうずくまってしばらく動けなかった。
「おかあさん、大丈夫? おなか痛いの?」
 悠が、うずくまる基美の頭を撫でて言った。


「僕がお医者さんになって、おとうさんを生き返らせて、おかあさんを助けてあげるね」


 悠の頭を、雅一が「優しいな!」と言ってしきりに撫でていた。



 義母は小学生の悠を本当に可愛がってくれた。
 きっと義母もまた、悠の中に尚がいるんだと感じたのではないだろうか。でも、基美は義母に強く言われた。
「絶対に悠を医者にはしないでね」
 医者にするなんて一言も言っていないのに、と基美は不思議に思った。

 ただ、尚を診た消化器内科の若い医者のことは一生忘れない。
 あんな、医者としても人としても未熟としか言いようのない人間に、愛する人の命を預けたくはなかった。悲しみは一生消えない。
 悠がもし本当に医者になってくれるというなら、必死になって働いて学費を貯めて医大へ進学させたい。そして、たくさんの人を救ってくれる医者になってほしい。義母だって、生きられなかった尚の悔しさが分かるはず。

 しかし義母は、その後、信じられないことを言った。
「それから、子どもがいる女性とは結婚させないで」

 それはまさに、基美に対する嫌味だった。
 義母だって子連れで結婚したと聞いているのに、どうしてそんなことを言うんだと悔しくて仕方がなかった。
 義母もまた皆と同様に、基美が雅一のことにかかりきりで、尚の病気に気付けなかったと思って責めているんだ。

 基美はそれ以来、義母とも会おうとはしなくなった。
 何が何でも二人の子どもを立派に育ててみせる。どんな女性と結婚しようと干渉しない。子どもたちの幸せを最優先させる。



 悠が24歳を過ぎた頃、研修医になったことを知った義母は、基美に電話をかけて来た。
「尚はね、私が殺してしまったようなもの。消防士にさせるんじゃなかった。火事で亡くなった夫が、尚を連れて行ったのよ。私はそれを手助けしてしまった……」


 その時の基美は意味がよくわからなかった。

 悠が28を過ぎて、やせ細っていく姿を見て、初めて危機感を覚えた。しかし、その時にはもう、義母は他界していた。


 義母が言った言葉を思い出す。
 もっと早く義母の言葉に耳を傾けていればよかった。
 子どものいる女性と付き合わせてはいけないと言った理由も今ではわかる。
 父親になった喜びで、尚は二倍も頑張ってしまった。
 良い父であろうとして、あるいは雅一の喜ぶ顔が見たくて、無理して頑張ったんだ。
 彼の傍にいるのが妻だけなら……夫だけの役割だったとしたら、もっと弱音を吐いていたかも知れなかった。

 このままだと悠も、父親のために天国へ行かねばならなくなる。
 全部、医者にしてしまった私のせいだ。





*1 ステージW……胃癌のステージWの状態は、遠隔転移/肝臓・肺・腹膜などに転移/しているなど。 
    △top 

「そんなのさ、たまたまだよ。考えすぎだと思う。カオルおじいちゃんの名前が男の子にも女の子にも使える名前だとしても、そういう……死ぬ前に……とか……想像でしかないんでしょう? あくまで可能性の問題でしょ?」
 墓参りから帰宅した亜実は、悠に向かって言った。
 だいたいそんなこと非科学的だし、職業とか名前とかで死ぬなんて意味がわからない、とまくしたてた。

 機嫌の悪い彼女を見て、悠は苦笑する。
「うん、まあ……想像って言われたらそうかな。ばあちゃんはもういないし、母さんもじいちゃんの名前のことまで知らないだろうし、単に類似点があったっていうだけ。別にもう気にしてないよ」
 そして、涼太を抱きしめながら、「涼太と歩が中性脂肪で悩むまでは生きて見届ける」とニヤリと笑った。


 悠にはくだらない事を気にしないでと言ったものの、亜実自身はショックで食事もできなかった。悠にちゃんと食えと叱られる始末。占いのことも気になるし、悠の体調にも不安を感じた。

「悠くん、あのね……一応、健康診断とか、受けない?」
 亜実は夜、隣で眠りかけた悠に小さな声で言った。悠は目をパチパチさせて亜実を見つめた。
「ああ……」
 彼は笑みを浮かべた。
「定期的に受けてるけど。そうだな……それで亜実の不安が解消できるなら受けるよ」
 亜実の安堵した顔を見て、悠はふふと笑っていた。



 3か月ほど経った秋の終わり、悠は人間ドッグより詳しいのではないかという結果を持って帰ってきた。
 小児科、産婦人科、整形、リハビリ科などの悠に関係の無い診察科を除いて、全ての診察科を時間を見つけて一つ一つ回ったらしい。
 長くかかったがしっかり調べてもらったと彼は言った。持つべきものは友人だなと笑っていた。結果はすべて問題なし。判定Aだった。やや疲れ気味ということだった。
「これ、悠くんが書き直したわけじゃないよね」
「するわけないだろ。俺も医者だぞ。病気を見つけた時点で治療に専念する。涼太と歩のためにさっさと治す」
 そして悠は付け加えた。

 たとえステージWでも治る人だっている。諦めるのは最後だ。

 俺なら、父さんをちゃんと診てやれたと思う、と。




 彼は涼太が眠りに就いた後、その顔を愛おしそうに見つめながら言った。
「俺はさ、亜実に感謝してるんだ。涼太に会わせてくれただろ?」
 亜実は、そんなことを言う悠の横顔を見ていた。とても幸せそうに微笑んでいる。
「歩を授かる前に、最初から父親としての幸せをくれた。俺は亜実だけでなく、涼太の存在にも励まされたんだ。200%くらい頑張れたよ」
「涼太がいたから200%頑張ったんだね。じゃあ歩が生まれたら300%になるのかな?」
 悠はうーんと唸って苦笑した。
「でも、三倍も頑張ったら天国行く羽目になりそう。二倍のままで許してくれないかな」



 夏に墓参りで会って以来、亜実は基美に気遣ってもらっているようだった。ようだ、と言うのは、悠からそういう話を聞くからだ。亜実が直接声をかけられたわけではない。
 基美はもう亜実の義母ははで、亜実や涼太に会いに行きたい気持ちを時々悠に漏らすという。ただ、息子は仕事で忙しい身だし、身重の嫁に迷惑をかけてもいけないから遠慮しているとのこと。

 それがこういう状態を生んでいる。
 夜、悠が勤務を終えた頃を見計らって、母が息子の携帯に電話をかけてくる。

 亜実にしてみれば、その場に自分がいなければまだ気にならないのだが、目の前で悠にかかってくる電話は、あまり気分のいいものではない。
 亜実は義母の気遣いでさえもストレスに感じていた。
 嫁としてちゃんと悠の健康を管理できているのか確かめられているような気がした。どれほど義母が遠慮気味にしていても、疑心暗鬼は消えなかった。

 時々悠は、母に医者を辞めてほしいと言われていたらしい。
 やっとこれから苦労が報われてゆくのに、今辞めるなんて考えられないと、悠は一蹴していた。
 それに関しては亜実も余計なお世話だと思っていた。悠のことは自分が一番近くで見ている。前ほど残業も無いし顔色だっていい。休みも多くなった。

 義母はいつまでも悠のことを小さな子どもだと思っているに違いない。息子に依存しすぎだ。



 涼太はクリスマスが誕生日なので、クリスマスと誕生日と年末年始がやってきて、12月は大忙しだった。そして1月。
「今月は悠くんの誕生日も待ってるし、もう、この二カ月出費が多すぎる」
 亜実がグチると、悠は苦い顔をした。
「俺の誕生日まで祝わなくていいよ。30になるし、ショックだから」
「だよね」
「だよねってなんだよ。でもさ、3月は歩も生まれるし何かと金が出て行くよなあ」
「……うん……」
 悠は、彼の隣で寝ている亜実の大きくなったお腹に手を当てていたが、彼女の沈んだ声に顔を上げた。
「どうしたんだよ。そんなに金無いのか?」
「違う。……生まれたら、大変だなと思って」
 そんな亜実の言葉に悠は驚いていた。
 生まれてくるのを待ち焦がれていた彼だけに、亜実の気持ちが理解できないようだった。

「だって……、おかあさん、きっと毎日来るんじゃない?」

 悠は彼女の顔を見ていたが、すぐに頷いた。
「……わかった。もう気にならないようになんとかする」
 そう悠が言った翌日から、義母からの電話は無くなった。



 悠は、母の気持ちは理解しているつもりだった。でも、今は亜実を刺激すると早産になりかねない。できる限りストレスは与えたくない。

 昼間、時間を見つけて悠から母に電話をするようにした。
 母はいつも悠の体を心配していた。父が若くして病気で亡くなったのだから無理もない。どれだけ大丈夫だと言っても落ち着かないようだった。

 日がたつにつれて母の状態はエスカレートし、悠でさえ苦痛を感じ始めていた。
 特に誕生日を過ぎたあたりから、母は電話口で泣くようになった。

 いい加減にしてほしい。もしかするとウツになっているんじゃないだろうか。
 だんだんおかしなことを言うようになったからだ。
『尚さんが悠を連れて行ってしまう……』
 泣きながら言う母に、悠は閉口した。




 この冬一番の寒さだと言われた2月のある日のことだった。
 この頃、来月に出産を控え亜実は毎週の健診を受けなくてはならない。
 悠はもうすぐ生まれてくる歩への期待で胸がいっぱいだった。そして亜実の出産の負担を考え、自分が休みの日にはできるだけのことをしてあげたいと思っていた。
 平日には休めないので健診に付き合ってやれない。その分、日曜には涼太と三人で近くの公園まで散歩した。
 寒いので亜実は何枚も服を着てお腹も腹巻やら厚手の下着やらで完全防備だった。医師から運動するよう言われているらしく、外に出るのは嫌がらなかった。
「今日はちょっと違う道を歩かないか? いつも同じ道じゃ飽きるだろ」
 悠は亜実に言った。
「でも、遠くに行くのは怖いし……」
「遠くない。駅までだったらいつもの距離とかわらない。駅の近くに新しくスイーツの店ができたんだ。ずっと食べるの我慢してるんだろ?」
「うん」
 悠は亜実の喜ぶ顔が見たかった。
「きっと少しくらいなら食べてもいいって。我慢してストレス溜める方がどうかと思うよ。先生には内緒にしとけばいい」
 亜実は嬉しそうな顔で「そうかな、そうだよね」と言った。涼太もケーキが食べたいと言った。
 三人は駅への道を歩き始めた。


 駅の傍の新しい店で、亜実と涼太は満足気にはしゃいでいた。その顔を見るだけで悠は幸せだなあと思っていた。一生守っていこう、そんな気持ちが心の中に溢れる。
「なあ、亜実」
「ん??」
 涼太と半分こにしたケーキを口にしている亜実が、悠の顔を見た。
「俺だけじゃないよな。みんな幸せだよな」
 そんなことが、つい口から出た。彼女は頷いて笑みを浮かべた。
「うん、幸せだね」

 二人が店を出ると日曜なので駅周辺には人が集まっている。大きな道の端には最近はめっきり見かけなくなった電話ボックスが一基、ぽつんと立っていた。
「珍しいよね」
「駅の近くなら、たまに見かけるよ」
 悠が亜実と話していると、涼太が悠の手から離れてその電話ボックスに入ろうとしていた。ガラス張りで狭い場所は、好奇心をくすぐるものだったのだろう。
「もう、涼太、そこは遊ぶところじゃないの!」
 亜実が電話ボックスに近づいてドアを開けていた。悠もまた、亜実に続いてボックスの傍に歩いていった。
「いいんじゃないか? あんまり使う人もいないし」
 悠は笑いながら、亜実に引きずり出されかけている涼太を見ていた。

 電話ボックスは、左側から引き開けるとドアの真ん中辺りがボックスの内側へと凹み、右側へとたたまれて開く仕組みになっている。
 外から大人の力で引いて開けられると、涼太にはドアを内側へ引き戻すだけの力は無い。内側に凹む折りたたみ部分を、凹まないように足でぐっと外に向かって押し返せば、亜実が引っ張ってもドアを右側へたためず開けられないのだが、5歳の涼太はそこまで気付かないようだ。

「亜実、あんまり力いれると歩が出てくるぞ」
 悠が冗談を言うと、亜実は「そんなっ! 予定日まで出てこないで!」と言って、ボックスから出るまいと抵抗していた涼太の手を放した。

 その時、駅の方角から何か騒がしい声が聞えてきた。
「え?」
 悠が振り返ると、人がバタバタと目の前を走って逃げてゆくのが目に入った。
 まるで怪獣映画でも観ているような光景だった。

 悠はその異様な状況を目にして、扉の開いていた電話ボックスの中に涼太と亜実を押し込んだ。
「ちょっと、悠くん!」
 亜実がボックスの中からドアを叩く。
 悠は外から開閉部の左側に立って入口を塞いだ。

 彼女が必死でドアを内側から押して出ようとする。しかしドアの左前に自分が立って背中で押さえつけていれば、扉は開けにくい。中にいるのは妊婦と子どもだ。ドアを押そうが叩こうが、内側から開けることはできないだろう。


 男が、街を歩く人々を追いかけて走って来る様子が、悠の目に映った。

 右手を高くあげている。
 その手には大きなナイフが握られている。

 悠はその瞬間、

 やはりそうなのか、と諦めた。

 男のギラギラと光る目が、電話ボックスの前に立つ悠を見つけた。





 亜実は目を見開いて体を震わせた。

 ボックスの中、とっさに涼太を背中に隠した。
 悪夢のような事が目の前で起きていた。
 もう、閉じられているドアを叩くどころか、立っていられなくなり、身を縮めてその狭い場所でうずくまった。それでも涼太の頭だけはしっかりと抱きしめる。決して見せてはいけない。

 その場所はガラス張りだ。見たくないのに見えてしまう。
 どんなに叫びたくても、亜実の口からは声が出なかった。

 悠の体は、
 赤く染まってもボックスの前から動かず、
 外から誰も中へ入れぬように入口を塞いでいた。
    △top 

 亜実はベッドの上でゆっくりと呼吸をした。
 仰向けで寝るのは辛い。
 大きくなったお腹を布団に預けるように横を向く。


 ナイフを持った男に襲われた悠を、亜実は目の前で見ていた。
 急いで救急を呼んだのに、腹部を何度も刺された出血性ショック死*1と言われた。
 悠が彼の病院に運び込まれたのは、もう亡くなってしまった後だった。涼太も歩も自分も助かったのは、悠が守ってくれたおかげだ。

 まさかとは思っていたが、やはりそうなのか。
 亜実は半信半疑だったが、実際に悠は30歳で亡くなってしまった。
 亜実は悠の体調不良を前から気にしていたせいで、彼を襲うのは病なんだと思い込んでいた。でも、そうとは限らなかったということなんだ。



 あの時の様子を亜実の脳は憶えているくせに、記憶回路が機能しなくなっていた。逃避し、解離して、どこかへ封印してしまおうとしていた。
 警察から戻って来た悠を見つめた。
 彼は静かに眠っていた。その顔を見た時の苦しみは忘れられないだろう。死ぬよりも辛い、そんなよくある表現でしか人には伝えられなかった。



 苦しくて悲しくて泣いていると、亜実のお腹の中でぐる、と歩が動く。
 亜実は自分が強い悲しみを抱いていると、その分、歩が苦しんでいることに気付いた。お腹の中で、歩も泣いている。
 あれほど歩が生まれてくるのを楽しみにしていた悠だ。きっと、もっとしっかりしろ、と怒るに違いない。
「ごめんね、歩。……ごめんなさい、悠くん……」
 そう言ってお腹をさすりながら笑顔を作る。でも、涙は止まらなかった。



 亜実たち家族の悲しみが消えない日が続いていた。それでも、歩は無事に生まれて来た。
 歩を抱いた時、なぜか魂そのもののに触れているような気がした。
 亜実の腕の中で、熱く重く甘い香りの命がすやすやと眠る。

 産婦人科で同じ日に出産した人と仲良くなった。旦那さんと双方の家族が毎日のように赤ちゃんの顔を見に来る。その笑顔は途切れることはない。

 正直その幸福が妬ましかった。
 けれど、亜実が抱きしめている歩も、その人の赤ちゃんとなんら変わらない。
 同じように真新しい命で、同じように明日がやってくる。引け目や妬みを持っているのは、歩に対して失礼な気がした。


「抱っこさせて!」
 亜実は自分からそう言って、仲良くなった新米ママに赤ちゃんを抱かせてもらった。
「かわいいーっ! 女の子って、こんなにふわふわなんだね!」
 亜実が言うと、そのママも同じように歩を抱いて言った。
「歩ちゃんもかわいいよ! しっかりしてるんだね。やっぱり男の子って、生まれた時から”男の子”って感じなんだねー」
「そりゃ男の子なんだもん。男の子だよー」
 亜実は自分がこんな意味のわからないことを言って笑えるなんて不思議だなと思った。

 やはり男の子として生まれて来た歩。
 歩を抱くと心がほかほかする。
 抱いているのは亜実なのに、抱きしめられているような気がする。
 歩が彼女を守ってくれている。悲しみの中に沈んでいきそうな亜実を、その淵から助け出してくれる。

 涼太と義母が産婦人科にやってきて、初めて歩に対面した時の彼らの明るい笑顔がたまらなく嬉しかった。
 きっと歩も悠と同じく、たくさんの人と出逢い、たくさんの人を救うのだろうと思った。

 歩が最初に救ってくれたのは、まぎれもなく亜実たち家族三人だった。



 その後、亜実は義母と涼太と歩という4人での生活を選んだ。義母を独りにするなんて考えられなかった。
 もしも別々に暮らしたなら、自分は涼太や歩に救われるが、義母は悲しみから癒されることなく生きてゆくことになる。優しかった悠なら、そんな状況に母を置きたくはないだろう。
 これからは悠の代わりに自分が義母を助けよう。



 3歳になった歩は男の子とは思えぬ可愛らしさだった。
 保育所でも毎日女の子に囲まれて笑っている。男の子とも楽しそうに遊んでいるが、元気満々と言うより静かな子だった。悠の幼い頃もこんな感じだったのかなと想像する。
 しかし義母は首を傾げながら言う。
「違うわねえ」
 歩が自宅のテーブルで折り紙を折っている姿を見て微笑む。
「悠はね、私を困らせたりはしなかったけど、小さい頃からはっきり意見を言ったし、どちらかと言うと保育所ではやんちゃだった。男の子とばかり遊んでいたわね。だから、歩は悠に似たというより、亜実さんに似たんじゃないかしら」
 うーん、と亜実は返事に困った。亜実もかなり元気な子だった。はっきり言えば、怖がられていたくらいだ。

 歩は性格面だけでなく、容姿や顔も、あまり悠に似ていないような気がした。亜実にも似ていない。だから、可愛らしい天使をもらって来た、そんな不思議な感じがした。


 5歳くらいになると、歩はおとなしく可愛らしいだけでなく、周囲の人への優しさを見せ始めた。
 男の子らしく弱い立場の相手を庇い、慰めたりする。
 そんな思いやりのある優しい性格は、可愛い容姿と相まって人の心を引きつける。おかげで、さらに多くの人に愛され可愛がられる。
 それが子ども時代だけの純粋さだとしても、亜実にとっては涼太と共に大切な大切な宝物だった。



 外を歩く時、歩はいつも涼太と亜実の間に入って手をつないで帰る。涼太も、歩にメロメロだった。
「ねえ、おかあさん」
 歩が亜実の顔を見上げた。
「なに?」
 亜実が応えると、彼はニコっと笑った。
「今、みんな幸せだね」
「そうね。幸せだね」
 亜実はそんなことを言う歩が可愛らしくて頭を撫でた。涼太も同じように歩の頭を撫でた。

 ここに悠がいたなら、どんなに喜んでいただろう。
 考えても仕方がないけれど、悠に与えてもらい、彼に救われた命だから、やはり彼に会わせてあげたかったと強く思う。
 日が経つにつれ、歩は悠と共通点の無い性格だと思っていたのに、歩が発する言葉の中には、悠と同じような優しさが窺えるようになった。
 だからだろうか、そんな歩を見ていると、幼児ではないような気がする時がある。5歳だというのに亜実を困らせることもなく、物分かりが良すぎた。



 歩は、歩きながら、いつものように亜実の顔を見上げて微笑んだ。
 彼は幼い声で言う。

「これからもずっと幸せでいられるように、がんばるからね」

 亜実はその時、ドキッとして思わず立ち止まった。
 悠が話し掛けてくれているような気がしたのだ。




 歩は中学生になっても反抗期というものがなかった。
 反抗期の無い子は反って良くないと聞いた事がある。のびのびしていない、意思表示ができない、親に従属してるような、そんな子だと聞いていた。
 歩は人に対する思いやりもあるし、誠実な態度を取る。多くの友達もいる。それは幼い頃からの長所だと思っているのだが、単にいい子を演じているだけなんだろうか。周囲に気を遣っているせいなんだろうか。義母にも相談したが、同じように心配するだけで、わからないようだった。亜実は不安をぬぐえないまま彼を見守るしかなかった。

 そんな歩だったが、ことあるごとに、会ったことの無い父のことを口にする。
「俺、父さんのことメチャクチャ尊敬してる。俺たちを助けてくれたことを一生みんなに自慢できる」

 歩は少しずつ体が大きくなり、どんどん大人びて行く。静かに微笑む様子は、何かを我慢している様には見えず、分別のある聡明な子だとしか思えない。
 亜実は彼を見ていて、不安に思う必要は無いんだと感じた。彼を信じていいのだと思えた。だって、悠の子なんだから。



 歩が高校3年の夏休みに突然、亜実と、彼の祖母である基美を前にして言った。
「俺、警察官になるよ」
 勉強が好きで、どちらかと言うと華奢な歩がそんなことを言い出すなど、亜実も基美も考えていなかった。てっきり大学に進学するのだとい思っていた。それだけに二人とも愕然とした。

 歩は言う。
「父さんを殺した奴はクスリで錯乱状態だったんだよね。だから俺、麻薬を取り締まる捜査官になろうとずっと思ってた。でも、大学出て捜査官を目指した所で、どこに配属されるかわからないだろ。待ってれば希望が通るのか、それもわからない。それなら、まず巡査として街にいる人の役にたちたい。父さんのような事件に、一番先に対応できる場所にいたい」

「ちょっと待って、歩!」
 亜実が思わず声を上げる。
 基美は放心状態で歩を見つめ、目を見開いている。

 しかし、歩は感情に流されて言っているようには見えない。深く、思慮深い瞳をして言う。
「1月に試験があるから、頑張って受かって警察学校に行く*2。高卒でいい。最短で警官になる」
 亜実は呆然として立ち直れないまま倒れそうになった。当然、基美も衝撃を受けていた。



 歩が生まれてすぐ、基美に懇願されていた。
 決して歩を警察官にはしないで、と。
 亜実は当然ながら、その話を一笑に付すことは出来なかった。あの墓参りの日に言った悠の言葉が思い出される。
『俺は父さんのための職業を選んだから……』

 胃癌で亡くなった父のために医者になった悠は、父の病を治すために父のいる場所へと連れて行かれた、そんな風に基美は言った。
 知らない人が聞いたら、冗談にしか聞こえない言葉だ。
 でも、悠の父にも同様のことが起こっているのだから、基美の不安は頷ける。亜実だって、『そんなことはただの妄想だ』と終わらせて、万一、歩を失うようなことになったら後悔してもしきれない。
 ほかにもいろいろな職業がある。わざわざ警官という職業を選ばなくてもいいはずだ。写真くらいでしか知らない父をそこまで敬愛しているのは、亜実が悠のことを歩に話して聞かせてしまったからかもしれない。だとすると、歩に警察官という仕事を選ばせてしまったのは、自分なんだ。



 反省や後悔に苛まれる。
 自分が歩を導いてしまった。

 ただ、亜実の心は、同時に釈然としない感情も持ち合わせていた。
 自分の今の不安に対して、疑問を持っている。

 あの悠が、本当に歩を連れて行ったりするのだろうか。
 身を挺して私たちを守ってくれたというのに。






*1 出血性ショック死……出血により体内を循環する血液が失われ、臓器に血が廻らなくなった状態。早期に治療が行われないと、組織の酸欠状態が進み、多臓器不全を起こして死に至る。

 ※ちなみに、失血死とは……体重65kgの人の場合、血液量はおよそ5kgで、そのうちの1kgの出血で瀕死の状態になり、2kgの出血で死亡する。止血処置をしなければならないが、体幹(腹部など)の場合は止血することができない。

*2 警察官になるための一般的なルート……高校を卒業後、短大や大学へ進学し、警察官採用試験を受験、合格してから警察学校に入学する。
 警察官の採用に関しては、警察庁・皇宮警察本部・都道府県警察という分類がなされており、警察庁の場合には国家公務員として働く。警察庁に採用されるとなれば、いわゆるキャリア組(キャリア・準キャリア)としての採用となる。都道府県警察の場合には、そのようなキャリアではなく、市民の身近な警察官としての採用になる。また、身長、体重の制限がある。
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 基美は必死で警察官になるという歩を説得していた。
「どうして、そこまで反対するの?」
 歩は祖母に、至極当然な質問をする。
 訊かれても、義母は本当のことを言うのをためらっている。きっと歩は信じないし呆れるだろうと思っているに違いない。その義母の気持ちには、亜実も同感だった。
「警察学校はとても厳しいと聞くし、歩は体が細いから耐えられないとおもうのよ……」
 歩は祖母の心配そうな顔を見ながら微笑む。
「そんなことは最初から分かってるよ。体も精神も強くなくちゃ務まらない。でもさ、俺にできるかどうかは、やってみなくちゃわからないだろ? もしだめなら、あらためて大学に入り直してもいいと思ってる。俺から父さんを奪ったような人間をつくらないために、できることは……するべきことは、ほかにもあると思うし」

 歩は祖母の、そして母の心の内など知らない。だから警察がだめならほかにも道を探す気らしい。
 それはそれで、また困る。父の命を救えたかもしれない救急救命士や、犯罪を無くすために尽くす政治家や、犯罪撲滅のための啓蒙活動をするNPOの一員や……警察官になれなかったとしても、彼は悠と同じ道をたどるのだろう。父親を救うための仕事を選んでしまうんだろう。

「歩、もう亡くなってしまったお父さんのことで、将来を決めるのはやめようよ」
 亜実は歩を止めようとした。少しでもリスクは少ないほうがいい。
「あなたの人生がお父さんのために縛られているのは、お父さんだって悲しむと思う」
 亜実の言うことを、歩は黙ったまま聞いていた。そして「わかったよ」と言った。彼は特に怒った様子はなく、不満げでもなく、静かに頷いただけだった。そのまま、歩は自分の部屋に戻っていった。


 自分の意見や要望は後回しにしがちな歩が、母や祖母にはっきりと許可を求めたということは、相当の決心があってのことだったと思われる。いつから歩はそんな事を考えていたのか。



 無事高校を卒業し、大学も合格して入学準備を整えていた3月末、歩は言った。
「大学進学にかかった入学金とか、受験費用とか、そういうの給料でちゃんと返すよ」
 真面目な顔で言う歩を見て、亜実は嬉しく思った。
「うん。今からそんなこと言うなんて歩はマジメだね。そんなことは、大学をちゃんと卒業して就職できてから考えればいいのに。在学中に無理にアルバイトとかもしなくていいんだよ?」
 悠の命の代償としては少なすぎるが、給付金や保険金を受け取っている。そして亜実はずっと働いてきたし、涼太も仕事をしている。今のところ歩がアルバイトなどしなくても、なんとか生活は維持できる。
「おかあさん、ごめんね」
 歩は謝る。
 亜実は苦笑して首を横に振った。謝らなくてもいいのよ。親としては当然のこと。
 彼は亜実を見て微笑んだが、その口から出た言葉は喜びでも感謝でもなく、淡々とした報告だった。

「せっかくお金を払ってもらったけど、俺、大学には行かない。警察官採用試験に合格したから」

 亜実は言葉を失ったまま、歩を見つめた。思わず訊きなおした。
「採用試験……?」
「うん。今日合格通知が来た。多分春から警察学校へ行けると思う。そしたら寮生活になる」
 呆然として、亜実はうわ言のように呟いた。
「嘘でしょ、だってお母さん聞いてないし、承諾してないし……」
 歩は動揺する母に罪悪感を抱いたのか、伏し目がちに「親の承諾はいらないんだ」と言った。
「学校って言っても給料がでるから、迷惑かけたお金はきちんと返すよ」
「お金の問題じゃないの!」
「わかってるよ」
 歩はすこし厳しい顔で言った。
「でも、警察官になる。それは譲れないよ」




 どうしてなんだろう。これはもう昔から決まっていて、変えることができない未来なんだろうか。亜実や基美の力ではあらがえない、運命とかいうものなんだろうか。
 歩は一人の意志ある人間として、亜実や基美の手の届かない場所に行こうとしている。

 とうとう亜実は、歩が生まれてからずっと抱いていた不安を彼に伝えた。父の、そして祖父の悔しさを、知ってもらうしかもう彼を止める方法はないのだ。
「この栖河のうちに生まれた男子はね、父親に関係する職業を選んでしまうと、……早く亡くなってしまうかもしれないの」
 母の告白を聞いても、歩は笑い飛ばしたり、動揺することはなかった。そして母を慰めるように穏やかな声で言う。
「俺は大丈夫だよ」
 亜実はそんな歩の表情を見て、彼を引き留めるのはもう無理なんだと悟った。


 歩の言葉を信じて見送ろう。そして悠のことも信じよう。彼なら命と引き換えにした大切な歩のことを、きっと守ってくれるに違いない。
 歩は母の肩を揺する。励ますように。
「心配しないで」

 基美の強い反対も、歩には通じなかった。
 彼がこれほど強硬な態度に出たことは今までになかった。最後まで自分の考えを押しとおそうした。それでも反対する祖母に対して、彼はそれ以上の説得はせず、ある日、黙って家を出た。





 歩はどうしているのだろう。
 自宅に警察の身元調査があったということは、無事警察学校に入校しているはずだけれど、連絡が取れないので亜実と基美は不安が無くならない。
 携帯電話の使用は禁止されているのだろうか。
 でもきっとそれだけではなく、彼自身、警察官になることを強く反対されていた家族に、連絡を取る気持ちがなかったのかもしれない。少しくらいは外泊できる日だってあるだろうに。

 数年経ち、もう亜実も基美も歩のことは考えないようにしていた。きっといつか帰って来てくれるはず。
 基美が体の調子を崩し始めたので、亜実も連絡の無い息子のことをずっと想って案じているわけにもいかなくなった。元気で頑張っていることを信じるしかなかった。





 その日、亜実は息子の涼太の前で疲れた顔でぼんやりとしていた。
 それは、基美の通夜の席だった。

 ここ数か月、基美はずっと病院暮らしで、最後は安らかに亡くなった。もう長くないだろうと覚悟していたが、本当に亡くなってしまうと、その喪失感で動けない。
 涼太は結婚して家族と住んでいる。もう亜実には、楽しみも悲しみも共有する相手がいない。

 喪主は基美と同居していた亜実だったが放心状態の彼女に代わって、基美の長男の雅一が涼太と共に務めを果たしてくれていた。彼らに感謝しつつ、葬儀場の隅で体を折りまげ、俯いて伏せていた。
 誰かが近づいてくる気配がした。
「おかあさん、大丈夫?」
 涼太とは違う声が亜実に問いかける。
 顔を上げると、男性が腰を下ろして彼女の顔を見つめていた。そこには温かい笑顔があった。
「歩?」
「元気だして」
 にっこりと笑った彼は亜実の両手を握りしめた。


 あの女の子のように綺麗な容姿をしていた歩が、喪服を着て目の前にいた。
 ごつごつした手、みるからに逞しくなった体つき、日に灼けた顔。大人の男のにおいがして、もう自分の息子だとは思えなかった。そう言えば最後に歩の姿を見てから、もう、十年以上経っている。

 亜実は呆然と歩を見つめた。空虚な心の中に澄んだ秋の空が広がった。
 もう季節など感じることはなかったのに。
 もしかすると歩はまた、自分を救いに来てくれたのではないか。そんな気持ちが湧き起るのを止めることができなかった。

 涼太が亜実の前の男に気付いて驚いて飛んできた。
 弔問客が母を慰めてくれているのだから、挨拶しなければならないと思ったのだろう。しかし、その男が歩だと知って、涼太も絶句していた。
「おまえ、今まで……」
「ごめん、兄さん」
 歩は涼太に深々と頭を下げた。
 元々弟を誰よりかわいがっていた涼太は、歩に怒ることなどできなかった。
 涼太は無言のまま顔をしかめた。弟を叱らねばならないと思う気持ちと、懐かしく嬉しい気持ちで、複雑だったのだろう。


 歩と涼太は独りになった亜実のために、実家に泊まっていた。
 すぐに涼太と歩は幼いころのような関係に戻っていた。ぎこちなさも最初だけで、兄の家族自慢を歩がニコニコして聞いているという構図だった。

「歩、もうおまえ、30になるんじゃないのか?」
 涼太は自分の年から引き算をして、歩に聞いた。
「うん、もうすぐ」
「感慨深いな。おまえも、父さんの年齢を越していくんだな」
 そんな事を言う涼太の前で、歩はにっこりと笑う。そして傍で黙っていた亜実に視線を向けた。

「おかあさんと兄さんに会わせたい人がいるんだ」




 後日、歩が恋人の加藤遥果(かとうはるか)を連れて来た時、亜実はもう覚悟していた。
 遥果の傍には彼女にそっくりな可愛い子どもがいた。

 歩もまた、悠と同じ道を突き進んでいく。それはもう、亜実には止められない。疑いようのない栖河家の悲しい轍の上に歩はいるのだ。

 遥果が連れていた5歳だというその子は、綾世(あやせ)という名の女の子だった。

 涼太は歩の美しい恋人をほめちぎっていたが、亜実はさすがにそういう気分にはなれなかった。
「もう、お腹に赤ちゃんがいるんでしょう?」
 亜実は歩に尋ねた。尋ねたというより、確認だった。
「……うん」
 歩と遥果は驚いた顔をしていた。
 その様子はやはり、昔の悠や亜実と同じだ。
「名前はなんていうの?」
 歩は亜実の顔をじっと見つめた。
 すでに名前をつけていることを見通して尋ねてくる母に、困惑している。それでも、思い直したように微笑んで告げた。
「男か女か聞いてなくて、でも、どちらでも通用する名前で良いのがあったから、それに決めたんだ」

 そうでしょうね。亜実はもう微笑むしかなかった。
 歩は遥果を見てから彼女のお腹に手をやった。
「名前は、ジュンとミズキだよ」

「ジュンとミズキ?」
 亜実が訊き返すと、歩は言った。
「双子なんだ」
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 双子か。
 赤ちゃんが二人生まれて来ることは何か意味があるのか、と亜実は考えたが、意味は無いような気がした。ただ、さらに驚くことがあった。
「おかあさん、俺たちと一緒に暮らさない?」
 歩がそんなことを言い出したのだ。
 思わず亜実は遥果の顔を見た。遥果は恥ずかしそうにしていたが、甘えるように言った。
「いきなり子どもが三人になっちゃうと、私の手に負えないんです。助けてください」

 もしかすると歩たちは、独りになってしまった亜実のことを気遣ってくれているのだろうか。
「でもね……」
 亜実は当惑しながら二人の表情を見比べていたが、彼らの様子に嘘や欺瞞の色は微塵も見てとれない。
 亜実はふと思い返していた。
 歩は小さい時から優しく思い遣りのある子だった。今もその性格に変わりは無さそうだ。彼が選んだ遥果も、同じように優しく愛情に溢れた人なのかもしれない。
 彼女の中には、亜実が昔、基美に対して抱いていたような不愉快な思いは無いようだった。まだ会ったばかりなので、姑をうっとうしいと思っていないだけかもしれないが。

 今なら良好な関係を保てるかもしれない。どうするのが一番いいんだろう。彼女とは今後長い付き合いになるのだ。

 歩は亜実の戸惑う姿を前に、遠慮がちに微笑みながら言った。
「ごめん。突然帰って来てそんなこと言われても困るよな。でもね、俺、今現場を離れて警察では新人を教育する立場なんだ。だから不規則な生活じゃないし、夜はきちんと帰って来る。あまり負担はかけないようにするから、昼間だけでも遥果を支えてほしいんだ」

 そうなのか。歩と一緒にいる時間が持てるのか。
 亜実は歩の申し出に、しばらく忘れていた感情が溢れていくのに気付いた。じんわりと目元に涙が浮かぶ。

 あの頃、基美が悠に会いたかった時間を奪ってしまった亜実なのに、自分はこんなに優しくされていいんだろうか。

 歩は言う。
「今までがむしゃらにやってきて、おかあさんたちに何もしてやれないどころか、自分の都合で心配させてたのはわかってる。だから、これから少しずつ、その親不孝の償いをさせてほしい」
 そして彼は笑って付け足した。
「孫と一緒の生活も悪くないよ」



 亜実は二人の申し出を断った。その代わり、二人の近くに住んで孫たちの面倒をみさせてほしいと伝えた。歩たちの生活を邪魔したくないという気持ちがあったからだ。
 歩と遥果は残念そうな顔をしていたが、無理に生活を変えさせるのもかわいそうだと理解したようで、亜実の提案を受け入れてくれた。


 亜実が二人の近くへ引っ越してきてしばらくすると、歩と遥果は結婚したいんだけど、と亜実に許可を求めてきた。
 すぐに「わかったわ」と亜実は笑った。
 ここで反対してどうなるというのだろう。

 彼らが結婚さえしなければ幸せな未来がやってくるとは限らない。
 歩は綾世やお腹の子のために体を酷使するだろうか。無理をして倒れるだろうか。いや、歩は違う。彼の毎日を見ていると先の先まで見据えて生きているような気がする。父のことを尊敬し感謝している歩だから、家族を大切にすることは自分が元気でいることなんだと知っているはずだ。
 もう亜実が歩に言うことなんてない。
 歩には、愛する人と少しでも長い時間を過ごしてほしい。誰だって、そうだ、栖河の人間ではなくても、誰だって明日を生きられる保証なんてない。いつ家族と別れる日がくるのか誰もわからないのだ。
 今は心から歩と遥果の幸せを願う。どんな明日も、笑って迎えられるように。




 遥果の出産が近くなったころ、歩が亜実に言った。
「実は友達に誘われてて、今度の週末、山に行ってくるよ。その間、遥果のこと頼んでもいいかな。もう臨月だし俺のいない間に遥果に何かあったら……って思うと心配なんだ」
「それは構わないけど……」
 亜実は一抹の不安を感じた。
「今行かなくちゃいけないの? 赤ちゃんが生まれてからにしない?」
 母の言葉に、歩も小さく頷いた。
「うん……そうしたいんだけど前々から誘われてたし、多分子どもが生まれたら、あまり付き合いができないんじゃないかと思って……」
 彼の言うことは理解できる。でも、亜実はせめて遥果が出産するまでは、歩にできる限り危険な場所には行ってもらいたくなかった。

 悠のことが思い出される。突然の事故のような死は、彼にとってどれほど悔しかっただろう。彼の父である尚が、死を予感しながら亡くなったのとは違う。あっという間に家族との別れが来た。
 でも、それでも悠はまだ家族の近くで亡くなっただけましだった。もし歩が登山で遭難でもして命を落としたら、遠い場所で家族と離れたまま、そして体や魂が家族の元に戻れるかどうかわからないまま、亡くなってしまう。そんなことを考えたくはないけれど、どうしても不安はぬぐえない。
 歩には遥果の出産に立ち会ってほしいのだ。
 それだけで歩の未来が約束されたわけではない。でも少なくとも彼は、自分の子どもに逢うことができるのだ。会えずに亡くなるような無念さを繰り返してほしくない。

 母の気がかりな様子に、歩は迷っていた。
「わかったよ。おかあさんが心配なら、行くのをやめる」
 亜実はその言葉に安堵した。
 そしてはっきりとは憶えていないが、同じような気遣いをしてもらったのをなんとなく思い出した。亜実の気持ちを一番に考えて、不安を取り除こうとしてくれた。
 そんな人は悠しかいないな、と亜実は考えていた。
 今更ながら彼の愛情の深さを感じる。いつまでも悠という人は亜実の心から消えない。消そうとも思わない。苦しくてもずっと忘れずに憶えていたい。


 そして、亜実も歩も遥果も、週末になって愕然とした。
 歩が参加するはずだった登山。その友人たちのパーティが遭難したというニュースが流れた。春半ばでも雪は残っていて、滑落したと思われる時間から数時間経っていた。彼らはまだ見つからない。歩は事情を聞くために急いで職場に向かった。
 亜実は遥果が動揺するのを傍で支えていた。
「大丈夫だから。歩が事故に遭ったわけじゃないのよ、しっかりして。これからもきっと歩は大丈夫だから」
 遥果の肩を抱いて、亜実は自分に言い聞かせるように呟いた。


 幸い、遭難した歩の友人たちは凍傷や骨折などはあったが、皆無事に帰って来た。

 その時、亜実は思い出した。
 悠が亜実の不安を解消するために健診を受けてくれたことを。そしてその結果で亜実を安心させてくれた。
 しかしその後、悠は全く想像しなかった事件で亡くなってしまったのだ。


 遥果には今、歩の父、悠の死の”前触れ”について教えることはできない。
 歩が今回助かったことに、安易に安心してはいけないんだ、なんて。






 そして、その後。

 亜実が憂慮していた事態は起こらなかった。
 歩は30歳を過ぎても元気でいられた。無事、双子の出産に立ち会うこともできた。何事も無く幸福が訪れたのはきっと、悠が歩を守ってくれたに違いない。
 歩は31の誕生日、32の誕生日と、穏やかな日々を過ごしていった。



 歩と遥果と、綾世と純と瑞希。
 亜実は、彼らと一緒に墓を訪れた。毎年数回訪れてはいたが、歩が35歳になり、やっと最近、彼らの幸せな未来を確信できるようになった。息子の死を疑わずにすむようになった。
 墓の前で手を合わせ、悠や基美そして、会ったことのない栖河の人々に感謝の言葉を捧げた。


 歩の子どもたちと手をつないで歩く。
 双子として生まれて来た純も瑞希も、ともに女の子だった。もう、栖河に男子が生まれなかったということは、悲しい連鎖は切れた。



 亜実は歩に言った。
「お父さんは、あなたを助けたのよ」

 その時は、遥果と子どもたちが亜実と歩の傍から離れていた。この話をするのにはちょうどいい機会だと、亜実は思った。

「……恐ろしい犯人からも、恐ろしい因縁からも歩を守った。きっと会えなかったけれど、歩の命を助けることで、あなたの家族、遥果さんや孫たちまで悲しませたくなかったんだわ」
 歩は母の言葉を黙って聴いていた。

 亜実は息子に言う。悠を思い出しながら。
「あの人は、歩と同じでとても優しい人だった。お父さんが……あなたを連れて行くはずなんてなかったのよ。本当に大切に大切にあなたのことを想っていたんだから……」



 歩はそっと母に近づいた。
「違うよ、おかあさん」

 彼は亜実の目を見て言う。

「父さんが一番大切に想っていたのは、おかあさんのことなんだよ」

 亜実は戸惑いながら、悠と同じように背の高い彼を見上げた。




「父さんはおかあさんに、これ以上の悲しい思いをさせたくなかった。ずっとおかあさんを大切にしたかったんだよ。……でもできなかった。俺はね、父さんの気持ちがわかる」

 子どもの頃から見ていたはずの歩の優しい笑顔に、どこか違う懐かしさを感じた。

「ちゃんと歩を育ててくれてありがとう。ずっと母さんの傍にいて面倒見てくれてありがとう。歩に、一生君を守らせるから。……そう言ってる」


 歩を生かしてくれたのは、
 ……私のために?


「俺の中に父さんがいる。俺はおかあさんが、とても好きなんだよ、知らなかった?」


 亜実は息子と、息子の中の愛しい夫を想って泣き出した。



「歩……」
 涙が止まらない。

 歩。
 ……悠くん?




「困ったな……泣くなよ……。泣かなくていいんだよ」

 歩は、
 あの日の悠と同じように、

 亜実の頭を撫でて、苦笑した。






<END>
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まだこの話をお読みいただいていない方へ。
以下は、完全なネタバレです。
これを見てしまうと、全く読む必要がなくなってしまいます……。


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≪すべての人物と関係≫ ※話の中に登場しない人を含む 年齢:降順


栖河 薫……悠の祖父<鉄道運転士>///登場せず<享年30歳:火事>
栖河 泉(いずみ)……悠の祖母///享年83歳

悠の伯父///年齢等設定せず
栖河 ヤスコ……悠の伯母///年齢等設定せず
栖河 尚……悠の父 薫と泉の息子<消防士>///<享年30歳:病気>
栖河(北田)基美……悠の母・尚の妻///享年85歳/登場時年齢54歳

栖河(北田)雅一……基美の息子///登場時年齢34歳
雅一の妻///登場せず
栖河 悠……主人公/尚と基美の息子<医師>///<享年30歳:犯罪>登場時年齢29歳
栖河(生島)亜実……後半の主人公/悠の妻///登場時年齢24歳

栖河(生島)涼太……亜実の息子///登場時年齢3歳
涼太の妻///登場せず
栖河 歩……悠と亜実の息子<警官>///9話以降28歳 
栖河(加藤)遥果……歩の妻///登場時年齢23歳

栖河(加藤)綾世……遥果の娘///純らの5歳上
栖河 純……歩と遥果の娘///最終話5歳
栖河 瑞希……歩と遥果の娘///最終話5歳



という、栖河さん一家の親子の物語になります。
奇妙な連鎖の話です。
男子短命の家系。しかも男しか生まれないという。
でも歩の時代で女子が生まれたのでこの連鎖は切れます。
ノートに家系図を書いてはいますが、この4世代以前から続いていたというある意味呪われていた一家です(多分薫さんのお父さんは列車事故で亡くなってます)。なので、実在する名字だったらどうしようかと思いながら書きました。多分無い……はず。いらっしゃったらごめんなさい。


この話は、どちらかと言うと死んでいく男性より、残された女性の方が辛い話で、思い浮かべたのは、戦地に夫や息子を送り出す妻や母のような気持ちかな。
自分の愛する人が死ぬとわかっていても何もできないって、辛いですよね。
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