きっと明日も手をつなごう

【あらすじと目次】

●あらすじ●

無理矢理医師を目指す環境に置かれた悠は、両親を恨み、患者を蔑み、自分のことも肯定できず、苦しんでいた。
その時出逢った生島亜実と涼太のおかげで、彼は救われ幸せを手に入れるが……。
主人公は20後半医師。1話3800字程度、全約40000字、中編。
  ※ 家族の物語のため、生と死が主題。

 

●目次●

<父のこと>
第1話 父を知らぬ息子  /  第2話 医者と患者  /
<僕のこと>
第3話 変わってゆく世界  /  第4話 その兆候   /  第5話 出逢った意味  /  第6話 連鎖  /
<母のこと>
第7話 物語    /  第8話 そこにある命   /
<大切な君のこと>
第9話 同じ途(みち)  /  第10話 新しい扉   /  第11話 大切な君のために   /
  あとがき


 小さな満月が青白い光を放っていた。
 栖河悠(すがわゆう)は車のフロントガラス越しに空を見上げていた。月はまるで暗いトンネルの向こうにある出口のようだ。
 それともそこは入口なんだろうか。真っ暗な背景に浮かぶ月は、空の一部分だけ丸く切り取っているようにも見える。もし入口だとすれば、どんな世界に続く入口なんだろう。
 悠はそんなことを考えている自分に笑ってしまった。空を見てボーッとできる余裕があるなんて奇跡だ。

 車から降りると晩秋の夜の寒さが身に沁みた。都心から離れた山奥なので空気がより一層冷たく感じられる。
 ここにやってきたのは何年ぶりだろう。10歳くらいが最後ではなかったか。
 記憶の中の祖母の家は、穏やかで静かだった。夜に訪れたことはなく、真昼の明るく優しいイメージしか残っていない。しかし、今夜のこの目の前の家には、近寄り難い寂しさが漂っていた。開け放たれた玄関では、鈍いオレンジ色の灯りが辺りを照らしている。

 家の前に停めた車の傍に立っていると、不意に後ろから「悠」と名を呼ばれた。
 振り返るとしばらく会っていなかった兄の栖河雅一(すがわまさかず)が笑顔で手をあげて歩いてくる。悠より先に到着して、タバコでも吸いに外へ出たんだろうと思われた。
「久しぶりだなぁ」
 雅一が悠の傍まで来て、彼の肩をバシバシと叩いた。
「……ああ、久しぶり」
 悠は苦笑いしながら兄の手を払いのけた。この人はいつもこうだ。気が良いというか、何の考えも無く親しみを込めて悠に接してくる。それは子どもの頃から変わらない。


 悠が大学受験で四苦八苦していた11年前、すでに小さな会社に就職していた雅一は23歳だった。俺の苦労も知らず、あれから呑気に人生を謳歌しているに違いない。それを考えると無性に腹が立つ。
「どうなんだ、病院の方は……。おまえちょっと痩せたか?」
 雅一がまた懲りずに悠の肩に手を置くのを、悠は掴んで返した。
「その話はまた後で。先にばあちゃんに会ってくる」
 兄を笑顔で突き放し、彼はさっさと家の中へと入っていった。

 玄関には誰もいなかった。普通こういう時なら1人くらいは受付がいるものじゃないのか?
 仕方がないので勝手に中に入ると、親戚と思われる人々が集っていた。座敷に座っている彼らは、通夜の席にしては思いのほか笑顔だった。親族だけということで、形式的なことより亡くなった人を送る気持ちの方が大切なのだろう。祖母はいつも明るく楽しい人だった。
 葬儀には出席できないので香典を渡す相手を探していると、女性が傍に寄ってきた。
「悠ちゃん? 悠ちゃんよね! まあーお父さんそっくり!!……忙しいのに、来てくれてありがとうねえ」
 その人は母より少し年上、確か伯父さんの奥さんの……。
「……ヤスコ伯母さん?」
「えっ、憶えてくれてるの!? 長いこと会ってないのに、やっぱりお医者さんになる人は記憶力もいいのね!」
「いえ……。あの、このたびは……」
 父の兄嫁であるヤスコ伯母さんとは、こういうことでも無い限りなかなか会う機会はない。彼女だけでなく祖母以外の父方の親類とは殆ど会っていない。悠の母が会いたがらなかったせいだ。

 祖父は他界しているので伯父が喪主。伯母はその場を取り仕切っていた。彼女はキラキラと輝いた目で悠を見つめる。
「素敵になったのね。きっとばあちゃんも、悠ちゃんのお父さんも、今の立派な姿を見たら喜ぶと思うわ」
「……そうであってほしいです」
 悠は頭を下げ、渡すものを渡して早々に伯母から離れた。申し訳ないが、ほとんど交流の無かった親戚と昔を懐かしんでいる暇はない。さっさと焼香を済ませて帰ろう。

 祖母は花に囲まれた一段高い場所で眠っている。伯父がその傍に座っていたので一礼した。
「おばあちゃんの顔を見てやってくれるかな」
 言われて祖母の横たわる姿を見つめた。

 中学に入るまで、よく家に来て可愛がってくれた優しい祖母。しかし今ここで眠っている人は、そんな記憶の中の人とはかけ離れた姿をしていた。骨が浮き出て痩せこけていた。ふくよかな人だったのに、二回りほど小さくなっていた。たいていの事には反応しなくなっていた悠の心にも、ぐっと込み上げてくるものがあった。

 伯父の隣には次男の嫁である悠の母、栖河基美(すがわもとみ)が座っていた。顔を合わせたのは大学卒業以来になるが、声は掛けなかった。

 伯母に病院へ戻らなければならないことを伝え、早々に失礼して家を出た。すると悠の車の傍で兄が待っていた。どちらかと言うと、待ち構えていたと表現する方が正しい。

 無視はできないので彼の前に立つと、雅一は「83だってさ。特に苦しんだってことはなかったらしい」と教えてくれた。悠が頷いて車に乗り込もうとする所に、兄はまだ帰さないとばかり言葉を続けた。
「で、仕事はどうなんだ。まだ大変なのか?」
 そんなことないよ、と答えればすぐ帰れたのかもしれない。しかし、のほほんとしてそんな質問をする兄に、少しくらいは嫌味を言ってやりたかった。
「ああ、変わんないよ。そろそろ俺の葬儀の準備もしといてくれよ」


 卒業した大学の関連病院で地獄のような初期研修*1を終えた後、そのままシニア・レジデント*2として勤務している。
 朝から夕方まで外来患者の診察を行った後もすることは山ほどあり、深夜まで当たり前のように残業する。今夜はなんとか時間を捻出してここまでやってきた。

「さっき母さんと話してたんだけど。おまえのこと心配してたよ」
 雅一の言葉を聞いて悠は押し黙った。
 心配? あの人が俺に医者になれと言ったんだぞ。

 母子家庭で金がないのに大学へ進ませてくれるというので、期待に添うように必死で頑張った。受験が終わりさえすれば楽になると思って努力したのだ。しかし、医療の世界はそんなに生易しいものではなかった。

 勤務医*3になった今も、楽になるどころか精神的にも経済的にも生きて行くのにギリギリ。そして気が付けばこの冬で29。大学に入ってからの11年間*4、いや中学高校時代を含めて17年間、勉強以外の記憶など皆無。そんな生活を強いたのは母じゃないか。心配なんて、今さらだよ。

 兄は、不機嫌になった弟に言った。
「亡くなった父さんのために医者になってくれって、母さんうるさかったよなぁ。きっと俺でもおまえでもどっちでもよかったんだろうけど……悪かったと思ってるんだよ。おまえの頭の良さにはついていけなくて、母さんの期待が全部おまえにいっちゃったな」
 褒めたつもりで雅一は笑っているのだろうが悠は笑えなかった。黙り込んでいる弟を前にして、兄はさらに続ける。
「知ってるか? 父さん、消防士だっただろ? あれはじいちゃんが火事で亡くなったせいなんだよ。だから俺たちには、癌で逝った父さんのために医者になってほしかったんだろう」
「知ってる」
 死んだ父のためというのはわからなくもないが、会ったこともない祖父との因縁めいた話まで関連付けないでほしい。そんなことのために頑張っているわけではない。
 悠がイライラしているのに、兄は父の話を始めた。
「父さん、お前とは会えずに逝ったけど……死ぬ前に我が子に会いたかっただろうなって思うんだよ。俺も父親になったから分かるんだけどな。それがどれだけ辛いか……想像つかないよ。父さんが気の毒でたまらない」

 どこまでも人の気持ちを逆なでするようなことを言う奴だ。
「あの父親が俺にくれたのは、結局この辛い生活だけだ。だいたい、気持ちが分かるって言うけど、あんた、父さんと血がつながってないじゃないか」
 悠が耐えきれずに怒りをぶつけても、雅一は懐かしそうな表情を変えなかった。
「うん、俺は母さんの連れ子だし確かに血はつながってないけど、父さんには実の子のように優しくしてもらった。今でも一緒に遊んでくれたことを憶えてるよ。4歳とか5歳だったんだけどな。……悠のために病院のベッドで名前を考えてた。そうだ、おまえは父さんに名前をつけてもらったじゃないか」
 パッと顔を明るくする雅一に、悠は半笑いで横を向いた。

 名前をつけてもらっただけで感謝などできるわけがないだろう。男でも女でもいいからと適当に”ユウ”と名付けた人。俺の将来を決定づけてしまった人。そんな人の、どこが優しいんだ。

 悠の不快そのものの表情を見て、雅一は尋ねた。
「そう言えば、おまえ28だろ。もうすぐ29か。そろそろ母さんに彼女を紹介するとか……」
「彼女?」
 悠は声を出して笑いそうになった。
「女と付き合う暇がどこにあるんだよ。睡眠時間すらろくに取れないのに。無神経すぎるだろ」
「いや、そうか。悪かったよ……」
 雅一は申し訳なさそうに俯いたが、言葉は続けた。
「ただ、おまえもきっとそういう人がいれば、安らげるんじゃないかと思ってさ……」
「無理だな。医者をやってるうちは安らぎなんてない。死んだ方が早い」
 医師とは思えない言葉を吐き捨てる悠に、どこまでも善良な兄は言う。
「そんな悲しいこと言うなよ。おまえは見かけだけじゃなく、優しいところも父さんそっくりなんだ。誰よりも母さんに愛されてる」


 月の光が冷たい空気を伴って、対照的な感情を持つ兄弟を照らしている。
「確かあれは、俺が小学生で悠が保育所に通ってた、夏だったな……」
 雅一は兄として、悠のネガティブな思考をなんとか変えようと思っていたようだ。
「俺と母さんが保育所に悠を迎えに行くと、いつも通りおまえは俺と母さんの間に入って手をつないで歩いてた。その時、悠は母さんの顔見て言ったんだよ……」


 兄は、幼い悠が母に言ったという言葉を、初めて口にした。

 しかし、その事に関して悠は表情一つ変えなかった。彼の心に差す影は、そんなことくらいでは消えなかった。
「そんなことを5歳のガキが言ったとしても、大した意味なんてないだろう。悪いけど時間が無いから帰るよ。伯父さんたちによろしく」
 悠は車に乗り込むと、兄の視線も気にせずに発進させた。






(注釈)
*1 初期研修……大学を卒業後、その大学病院などで行う最初の研修。2年間。
*2 シニア・レジデント……後期研修医の意味(医療現場では研修医とは呼ばない)。初期研修医とは違い、医師として責任ある仕事を任される。たいてい3年間。大学病院または市中病院で行われ、それが医師としてのスタートとなる。
*3 勤務医……病院や診療所などの医療施設における被雇用者として診療に従事している医師のことで、開業医の対義語。
*4 11年……ストレートで大学に入り研修を終えるとシニア・レジデントの最終年は11年目になる(大学6年、初期研修2年、後期研修3年)。 
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 祖母の葬儀から数日経った日の夜のことだった。栖河悠は勤務先の病院から自分の部屋へ帰ろうと駐車場へ向かっていた。

 戻ろうとする部屋は、とてもじゃないが医者が住んでいるとは思えない安っぽいマンションだった。
 きっと世間の人々には想像がつかないだろうが、病院の経営状態によっては、30手前の勤務医なんてその程度の給料だ。どれだけ患者を診ようが関係ない。勤務時間くらいしか給料には反映されない。
 なんでこの病院で働いているのか自分でもよくわからない。あまり肩書に興味がないのと、医局のお偉い先生方にへいこらするより患者に接しているほうがよかったから。そして、この病院が消化器内科の初期研修に指定されていたから、次を探すのが面倒だったからとか……、まあ、そんなところだった。

 普通免許は大学に合格した後の少しの時間で無理して取った。医者を志すなら、今のうちに取っておかないとなかなか取る暇ないよと先輩に勧められたからだ。
 とはいえ、乗るのは自分の楽しみのためではなく、こんなふうに通勤と、あとは自分の担当患者の容体急変のため。外科手術の後の急変だったとしても、患者が蘇生する様子に立ちあえれば、外科医でなくても安堵する。翌日看護師から、昨夜は……と当直医の苦労を聞かされるよりよっぽどいい。もう自分の時間が無いことには慣れっこだった。


 そんな事を想い巡らせながら歩いていた悠の目の前に若い女性が立っていた。
 傍にベビーカーがあるということは子育て中の母親だろう。彼女はぼんやりと病院の入口のドアを見つめていた。

 この時間……夜の11時過ぎに子どもを連れてここにいるということは、彼女自身の病気というより子どもの病気だろう。小児科や新生児科のある病院だからと思って来院したのだとすると、救急ではなかったのか。
 しかしここは小児科の救急は受け入れていない。小児でも外科ならば話は別だが、この母親のボケッとした様子を見れば外科でないことは明らかだ。
 この人はどうしたいのだろう。なぜちゃんと119に電話をするなどして、小児救急病院を探さなかったんだ。というより、本当に救急なのか。どっちにしろ、母親として考えられない行動だ。

 子どものことが気になって女性に近寄ると、突然その人が崩れるようにうずくまった。その場でひざをつき、なんとかベビーカーのハンドルの部分に掴まっている。慌ててその女性の体を支えて尋ねた。
「大丈夫?」
 俯いているその女性の顔を覗き込むと、目を閉じたまま「はい」と返事をする。
 そうか。返事ができるのなら後回しにさせてもらう。

 悠は女性をそのままにして、ベビーカーの中に目をやった。3、4歳くらいの子どもが窮屈そうに眠っていた。触れてみるとやはり熱がある。悠は女性に向き直ると尋ねた。
「お母さん、この寒い中どうしてこんなところに子どもを連れて来たの。近所の診療所なら、7時くらいまではやってるでしょう? 間に合わなかったの?」
 言ってからベビーカーの前に回って屈み、あらためてその子どもの様子をみた。

 小さな子どもというのは何かとすぐ熱を出す。高熱が長期間続いたりしなければ、体を冷やして熱を下げて、寝かせておいてやる方がいい。
 この子の状態なら別に医者でなくてもわかるだろうと舌打ちした。
 熱はあるが苦しそうに喘いでいるわけではない。顔色は暗いのでわからないが、リンパが腫れている様子も無いし、咳をするでも無い。熱は38度から39度くらいか。

「いつからこういう状態?」
 母親は何か言っているがよく聞こえない。仕方がないので彼女の傍に行く。自力で立とうとする母親の腕を引っ張った。
「お母さん、あなた、こんな状態で外に出てどうするんです。子どもに何かあったらって考えないの? タクシー使うとか誰かに付き添ってもらうとかできないのかな。いや、それ以前に、なんでここに来たのかわからないけど」
「すみません」
 その人は結局立ちあがるのをやめて座り込んだ。
 悠もその場に腰を落とし、彼女の状態と子どもの状態を尋ねた。聞いた限りでは、母親は睡眠不足と貧血。子どもは嘔吐や意識障害もなく今朝からの発熱というだけの症状だった。
「一晩様子を見なさい。熱以外の症状や39度以上の熱が続くようなら受診して。ここの小児科外来は午前8時半からです」
 今の状態では、小児科医のように母親の心のケアまでは考えていられない。
「旦那さんか誰かに電話……」
「無理です」
 きっぱり言う彼女にまた舌打ちした。結構元気そうだ。
「じゃあ少し待ってなさい。タクシー乗り場がそこにあるから、こっちに車を回してもらう」
 悠が立ち上がろうとすると、母親に手を掴まれた。
「いいです。バスで帰ります」

 深いため息をついた。途中で倒れたらどうするんだ。いくらなんでも、このままバスで帰れるわけないだろうが。

「……家はどこ……?」


 その母子の住まいは悠のマンションと同じ方角にあるらしい。送ってやるしか仕方がない状況だった。

 後部座席にベビーカーを載せているので、母親は子どもを抱えて助手席に座っていた。
 熱を下げるためにすることくらい知ってますよね、と運転しながら確認した。母親は「はい」と答えたが、その時悠に自分と子どもの境遇を話し出した。

 結婚をしておらず子どもには父親がいないこと、両親は遠くに住んでいて仲が悪く疎遠であること、仕事をしているが子どもが小さいために保育所から呼び出され早退することが多い結果、理解が得られないまま退職に至ること。

 悠はただ聞いていた。
 そんなことを話されても困る。すべて言い訳にしか聞こえない。ひとりで子育てしていればそうなることは目に見えているのに、環境が辛いとグチるなんてどうかしている。無知で状況判断もできていないし母親失格だ。こういう自分の状況に振り回されて子どものことをおざなりにする親がいるから、多くの医師は余計な苦労を強いられるんだ。



 悠は子どもが好きだった。
 小児科の友人によく話を聞く。母親の不注意で病変に気付かずに亡くなってしまう子がいる。もっと早くに気付いていれば、有効な治療ができたかもしれないのに。
 亡くならないまでも、早く連れて来てくれてさえいれば、子どもに負担をかけずに治療できていたケースがいくつもあるとも言っていた。残念でたまらないと。

 悠も、たくさんの人の苦しむ姿と、その後様々な形で病院を去る姿を見て来た。救いたいと思えば思うほど苦しくなって、その反動で心が硬く防壁を張りめぐらせる。感情も思考も何もかも閉じ込める。
 悠はこの程度の対処すらできず病院へ駆け込む、多くの母親を軽蔑していた。



 母子をアパートへ送ったはいいが心許こころもとない状況だった。
 母親はありがとうございましたと言った後にまた座り込んだ。重い貧血なら診てもらわなければならない。
「あなたきちんと食事してるんですか」

 玄関で子どもを抱きかかえたまま、悠は困っていた。
 近所の人に声をかけてみようと外に出てブザーを押してみたが、どの部屋の人も出てこなかった。
 留守か、居留守かわからない。深夜だからしょうがないといえばしょうがないが、こんな感じでは今後の事をお願いしようとしても、力になってくれる可能性は低い。

 多少重くても子どもを抱いているのは苦痛ではないが、子どもの方が辛そうだ。
 悠は、まだ蹲うずくまっている母親に声を掛けた。
「部屋に上がらせてもらいますよ」

 子どもを布団に寝かせてから、母親の目線の先に座った。俯く母親の顔を持ち上げて電灯の下で顔色を見た。
「明日、あなたも診察を受けなさい。子どもを守るのはあなたの役目なんだから。うちには来ずに近所の内科で診てもらったほうがいい。待ち時間が少ないし、かかりつけの診療所の方がこの先……」
 悠はまだ話している途中だったのに、急に母親の意識が遠のいたのか彼に寄りかかってきた。しっかりしろよと彼が思った直後、彼女は声を上げて泣き出した。
「ごめんね、りょうた……。お母さん、こんなで、ごめんね……」

 悠は、母親がどれほど追い詰められていたか、その時になって初めて知った。



 悠の父は30歳の時、胃癌で亡くなった。
 胃癌は中高年に多い病気だ。だから父のように若かった場合、本人が癌だなんて思わず、不調を我慢しているうちに手遅れ、なんてこともめずらしくない。若い人のがん*1の進行はとても早い。

 ただその胃癌を見つけることのできる消化器内科で、自分が治療に携たずさわっているのは、父を想ってではない。
 兄の雅一のように、長く生きられなかった父に同情して……なんていう気持ちは持てない。

 それはきっと、父がいつまでも母や祖母の心に居座っていたことに起因している。

 雅一は気付いていない。
 悠自身が愛されていたわけではないのだ。
 雅一も含めて周囲の人はみな、悠の中に父の姿を投影していただけ。そんな報われない気持ちで選んだ道の中で、父を想えるはずがない。

 しかし、最終的に消化器内科を選んでいた。他科を選ぶ事もできたのに。
 家族への期待と失望の中で、足掻いている自分に気付く。


 自分の中に流れる父の血など余計なものだったのに、なぜか目の前で泣きじゃくる生島亜実(いくしまあみ)の姿に、見知らぬ父のことを思い描いた。

 父は、悠にどんな感情を持っていたんだろう。
 親とは、こんなふうに泣くものなのか。
 子どものために、辛くても生きようと思うものなのか。
 それなら、生きられないと知った時、父は一体どんな気持ちだったんだろう。



 亜実という女性の態度が、悠の父の強い想いを想起させた。
 死ぬ前に息子に抱いていたであろう想い。
 そして、同時に母の苦労を思い出させてくれた。
 大人になっても卑屈なままの自分に、愛情とはこういうものだと、押しつけがましいほどに教えてくれた。

 親が苦しみながらも生きてゆこうとする理由。壊れかけているのに必死で進もうとする強さ。それらを見せつけられた。


 悠は大人であり医師であるが、その前に父の子である。いつまでも。
 自分はもしかすると、無意識のうちに父から愛されていた事実を探そうとしていたのではないか。
 兄だけが愛されていたような気がして、寂しかったのではないか。
 父に近づこうとして、自ら医者を目指していたのではないのか。

 家族にも父にも自分にも向き合えずにいた自分は、本当に今、医者だと言えるのか。


 医者は患者と向き合わねば使命を果たせない。
 相手は”患者”という生き物ではなく、苦しんでいる”人”なのだ。気持ちを知ろうとしなければ治すことはできない。

 悠は、
 自分に欠けていたもの気付いて、ようやく本物の医者*2になれそうな気がした。




*1 ”癌”と”がん”の違い……”癌”とは体の上皮(体の外部、および、子宮・肺・消化器などの、臓器や器官などを覆う表面組織)にできる悪性腫瘍。
 ”がん”は上皮以外(白血病や悪性リンパ腫などの「血液のがん」、および骨や筋肉などに発生する「肉腫」や、脳にできる「脳腫瘍」など)にできるものも含めて、すべての悪性腫瘍の総称。

*2 「医師」と「医者」の違い……医師とは所定の資格を持ち、病気の診療や治療を業とする者。医者。
医者とは病気の診療や治療を業とする者。医師。
「医師」というのは正式な資格の名称だが、「医者」という言葉の中に「医師」という言葉が存在する関係があると言っても過言ではない(らしい)。明確な根拠はないが、「医師」という言葉は医療を行うことにプライドがあるような意味合いに受け取られ、「医者」という言葉はどちらかといえば温かみのある言葉に受け取られることが多い。 
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 生島亜実の息子は涼太(りょうた)といった。
 翌日の夜、普段よりずっと早く9時頃に帰ることができた悠が彼らの様子を見に来ると、涼太は元気に部屋を走り回っていた。
 もうすぐ4歳になるという涼太は、活発でよく笑う、とてもかわいらしい子だった。

 悠は病院に勤めているのだから当たり前と言えば当たり前だが、元気のない子どもに接する機会が多い。なので、この涼太を見て幼児の持つ回復力に圧倒された。

 小児科や産科*1を選んで医師になろうとした友人たちは、どの科よりも過酷な状況の中に身を置いている。
 彼らがそんな状況でも頑張り続けられる気持ちが少しだけわかった気がした。


「熱が下がってよかったな。でももう遅いから早く寝なさい」
 悠が頭を撫でると、涼太は笑顔を見せた。
 亜実は「昨日はありがとうございました」と頭をさげた。悠は、涼太だけでなく、この人のことも気になっていた。
「生島さんはちゃんと診てもらいましたか?」
 悠が訊くと、亜実は「はい! 元気になりました!」と明るい声を出す。昨日、悠が帰るのをためらうほどに泣きじゃくっていた人とは思えない。
「あのう……もしよろしければ、上がってください」
 玄関先で立ったままの悠に、亜実が遠慮がちに言った。
「いえ、私はここで……」
「あ、お忙しいですよね」
「……そう……ですね」
「お名前、伺ってもいいですか?」
 そう言われ戸惑った。名乗る必要はあるのか。しかし考えてみれば、悠は亜実の住所も名前も知っているのに、彼女は何も知らないというのもどうかと思い、躊躇しながらも黙っていた。
 すると亜実はまた、おずおずとした口調で尋ねた。
「お医者様……ですよね?」
「ええ、まあ……」

 悠は自己否定の状況にあった。
 自分はサマをつけられるほど偉くない。ほかの医師は偉いかもしれないが、自分は違う。今までただ、むりやり知識を頭に詰め込んで、あの病院という場所で患者の生活に指示を出すだけのロボットだった。
 人の生死に揺さぶられるものはあるにしても、普段は自己管理のできない患者を蔑み、淡々と診察をこなしていたのだから。

 そんな自分を顧みると恥ずかしくなって思わず俯いた。今までの態度が、医者としてはあまりに未熟だと気付いた後だったからだ。
 しかし亜実は、そんな悠を見て小首を傾げ微笑んでいた。
「こんなに優しいお医者様もいるんですね」
 悠は視線だけを彼女に向けた。
 ありえない言葉だ。優しいなんて言ってくれるのは、勘違いした兄くらいなもの。俺は医者として、いや人間としても半人前。生まれてからずっと色んなことを両親のせいにしてきた情けない奴。

「医者は優しいというより強くないとだめなんですよ」
 自分に言い聞かせる。
 患者に対して、決断も、見守ることも、きちんと説明することも、叱ることも……母親と同じように強くなければならない。

「大変ですね」
「生島さんも同じでしょう?」
 そう言うと彼女は嬉しそうに笑った。
「私なんて全然です。すぐ弱音吐くし、泣くし、母親として半人前だから。でも、半人前だからがんばろうって思うんですよー」

 笑顔でサラッと言えるなんて、それこそが、強い証拠だよ。

 悠は彼女の明るさに見惚れていた。
 この人はきっと自分を取り繕ったりしないんだろうな。きちんと肯定した上で足りない部分を補おうとしている。
「先生、お名前と、どこの科にいらっしゃるのか教えてください! 涼太と遊びに行きます!」
「病院は遊びに来るところじゃないですよ……」
 悠は苦笑したが、途切れさせてしまうには惜しい縁だと思っていた。



 半人前同士が仲良くなるのに、時間はかからなかった。二人合わせてやっと一人前。だからこそ、離れられないような気がした。

 悠はどれだけ忙しく先の読めない不規則な生活であっても、亜実と涼太に一目会うだけで癒された。
 もともと子ども好きな彼だったが、涼太を前にして、その気持ちはさらに高まっていた。
 こんなに愛おしいものはほかにないと思えた。それはそのまま、亜実に対する感情とつながっていた。
 学歴が、肩書きが、出世が、すべてだと言う人もいるだろうが、自分の幸せはそこには無いのだと改めて思う。


 ひと月ほど経ったある日、雅一からメールが来た。それに気付いたのは午前0時、帰宅したばかりだった。
≪明日、時間とれないか? 俺は休みで暇だから病院の近くで待ってるよ。時間できそうなら会いたいんだ≫
 時間を考えて、とりあえずメールで返す。
<何かあった?>

 突然会いたいと言われると戸惑う。葬儀で会ったばかりなのに、どうしたんだろう。それまで数年会っていない期間があったのに。
 すぐに兄から電話がかかってきた。
『通夜で悠の痩せた姿見て、母さんがかなり心配してた。大丈夫か確かめて来いって言われたよ。……多分、父さんのことがあるから怖いんじゃないか? たまには母さんに電話くらいしてやれよ』
 母は自分の夫の血を引く悠が、同じ病魔に侵されて逝ってしまうのではないかと恐れているのか。
 医者に対してありえない心配だが、兄の言葉はもっともだった。離れて暮らしているんだから電話くらいはしてやるべきだった。

 もう、母や兄に対するわだかまりは消えている。それは、亜実や涼太のおかげで己に向き合うことができたせいでもある。

「わかった。電話するよ。それから、兄さんが明日もし来てくれるなら会ってほしい人がいるんだけど」
『え?? 誰?』
 雅一が驚くのも無理はない。兄に二人を紹介しようとしている、当の本人が一番驚いていた。
「そんなの、……だいたいわかるだろ」



 翌日の夕方、もらいそこねた昼休憩を理由に30分ほど職場を離れることができた。近くの図書館で時間を潰していた亜実と涼太に急いで電話をする。
 病院にやってきた二人を、悠は入口で待っていた。
 ロビーで少しの時間会うだけの予定だったので、亜実は不思議そうな顔をしている。
 悠はすぐに涼太を抱き上げると、ほとんど走っているといっていいくらいの速さで歩き出した。
「待って、悠くん、どこに行くのっ!」
 病院の真向いにそびえたつホテルに入って行く悠に必死で付いてきた亜実は、完全に困惑していた。

 会う時にはいつも涼太が一緒なので、いつも涼太が喜ぶ場所を選びがちだった。
 なので亜実はこんな高級感漂う空間に連れて来られるとは想定していなかったのだ。
「兄さんが来てるから会ってもらおうと思ってさ」
「ええっ!」
 亜実が思わず大きな声を出すと、そこにいた人々が一斉に悠たちを見た。
「しー」
 悠に笑顔で窘たしなめられた亜実だが、
「そんなの、聞いてないし! うっそ、しんじらんないー!」
と、小声で悠に反発した。
 悠は思わず笑みをこぼした。
 さすがにまだ23歳。普段は隠そうとしているが、子供のような反応だ。
「そうそう、その調子で。普通に喋っていい相手だから」
 それでも亜実は不満そうに悠を睨んでいた。

 一階のカフェレストランでは、雅一がコーヒーを飲みながら待っていた。
 彼は悠が連れて来た亜実と涼太を見て、思わず立ち上がり目を丸くした。
「お、おまえ、……まさかそういうこと!? こ、子供が……」
「いやいや、何を想像してんだろうな。違うよ、まだ付き合ってひと月くらいだから」
 亜実が横目でチラと悠を見てから、涼太と一緒にペコリとお辞儀をした。

 あまりに唐突な紹介だったので亜実を不機嫌にさせてしまった感は否めないなと悠は思った。
 雅一はというと嬉しそうな笑顔を浮かべ、同じように二人に向かって頭を下げた。
「会わせたいっていうから、そうじゃないかなぁとは思ってたけど、美人すぎてびっくりだなー」


 話をしているうちに、亜実もその雅一の優しい性格に安心したのか、笑みを見せるようになった。そして雅一も、ずっと悠のひざの上に座って彼に甘えている涼太の様子に、ほんわかと温かい気持ちを抱いたようだった。
「いいね、この景色。まるで昔の俺を見てるみたいだな」
 雅一はそう言って亜実を見て笑った。
「うちの母さんは俺を連れて父さんと結婚したんだよ。俺もこんな風に父さんに甘えてさ……幸せだったよ」

 亜実は雅一に向けていた視線を、悠の顔へと移動させた。
 その、もの言いたげな表情を見て悠は苦笑した。
 確かに兄は気が早すぎる。でも、付き合っている人を会せたりしたらそう思うかな。しょうがないだろう、会わせたかったんだ。
 付き合ってひと月と言っても、まだ数えるほどしか会えていない。それも本当にわずかな時間だけ。それでも、誰かに自慢したかったんだ。



「今日の帰りは何時頃?」
 亜実はホテルから病院に向かう時、悠に尋ねた。
「今日は当直なんだ。だから明日の夜だな」
「そっか」

 亜実と悠との間にはいつも涼太がいた。三人で手をつないで歩く姿は、傍からは仲睦まじい家族に見えるのかもしれない。
 でも、と亜実は思う。
 悠を独り占めする涼太が少し恨めしい。
 彼に甘えることができるその場所を、たまには母に譲ってくれてもよくない?







*1 小児科・産科……小児科は幼い子どもの口からは正確な病状を聞き取りにくく、またモンスターな親の存在もあり、医師になろうという絶対数が少ない。そのためさらに人手不足、激務、という悪循環のため不人気。
 産科の場合、出産は病気ではないので安全に生まれて当然と思われている状況がプレッシャーとなり、やはり人手不足になり敬遠される。なお、どちらの科も(一概には言えないが)女医の占める割合が他科より大きく、育児などのために長時間の勤務が難しくなると、上司や研修医などに負担がかかる。
    △top 

 亜実は病院で悠と別れ、涼太と二人で帰路に就いた。
 途中、涼太にせがまれて、ショッピングセンターの中の子どもの遊び場に寄った。コインで動く乗り物に喜ぶ涼太を見ながら、ふとその遊び場の向こうに占いの館があるのを見つけた。
 昔から占いが大好きで、占い師を見つけるたび将来や恋愛運をみてもらっていた亜実は、当然のように涼太を連れてその館に入っていった。その行動に特に意味などなかった。

 手相見の年配の男性が、亜実の手を掴んですぐに言った。
「いいですね。あなたは健康で長寿。近々二人目のお子さんにも恵まれ、旦那さんも喜ぶでしょう」
「……まだ、結婚は……してないんですけど」
 涼太がいるから既婚者だと占い師は思ったんだな、と亜実は思った。
「そうですか」
「結婚……できるんでしょうか」
 しかし、占い師の返答はおかしなものだった。
「しない方がいいんじゃないですかね」
 当然のように言う。

 意味不明なんだけど、と亜実が不審に思っていると、その占い師は無表情のまま淡々と告げた。

「あなたの旦那さんになる人は短命ですから。結婚すれば、あっという間に亡くなりますからね」




 亜実は帰宅してからも、憤慨し、激怒していた。
 そんな失礼なことを言う占い師には今まで会ったことが無い。そんなふうに人の気分を悪くさせてお金を取るなんて許せないと亜実は思った。
 絶対に信じるもんか。占いなんて良いことだけを信じていればいいと誰かが言っていた。



 ハンドルを握ったまま、駐車場から出られない。

 悠は車のエンジンをかけて暖房を入れたものの、発進するのが怖かった。
 連日深夜までの勤務が続いていた。
 その上最近、深い眠りを得ることができない。休みも誰かの穴埋めで潰される。
 昨日から働き続けて、夜は当直で、今日も普通に深夜まで。しかし医者の当直は単に起きているだけでいいようなものではない。動き続け、書類を作成し、ミスを犯さぬように張りつめたまま。
 救急患者の搬送もあった。救急のほかに、自分の担当患者か否かなど関係なく診るため、仮眠する暇がなかった。
 神経が磨り減る。
 やっと帰ることができるというのにどっと疲れが出て半ば放心状態。このまま運転して大丈夫か。

 悠はため息をつくと暖房を消した。頭がぼうっとする。
 寒いくらいでなければ、意識が飛んでしまいそうだ。




 悠はその翌日、午後診が終わって書類作成を始めた時、ふと母のことを思い出した。
 帰宅する時間が遅すぎて電話ができなかったが、今なら少しくらい席を外しても差し支えないだろう。
 窓際に立ち、母の携帯に電話してみた。
 すると母は、どこか具合でも悪いのかと思うほど抑揚のない声で電話にでた。
「この前何も話さなかったけど、母さんは元気にしてるの?」
『そうねえ。……元気と言えば元気だけど……』
 溜息をついているのが分かった。
 ただ、それは、今まで悠が親不孝してきたせいだと思っていた。
「具合が悪くなったら寝込む前に言えよ? 近くに良い医者がいないか、探してみるからさ」
 悠は努めて明るく言ってみたが、母はあまり反応せず全く違う話を始めた。
『あなた、お子さんのいる女性と付き合ってるんですって?』
「え?……うん。……兄さんから聞いた? そのことで……」
『やめなさい』
 母は、まだ悠が話している途中で言い放つ。
「え? なに……?」

『あなたを医者にしたは間違いだったわ。その人とも別れてちょうだい』

 不可解な発言に驚き呆れ、逆に笑ってしまった。
「どうしたの母さん。何で突然そんなことを言い出すんだよ」
『医者を辞めなさいって言ってるの。それが無理なら、せめて今付き合ってる人とは別れて。その人と結婚を考えないとは言い切れないでしょう?』
 確かに結婚しないなんて断言できない。むしろその方向に持っていきたいと思っている。
 意味がわからないのは、それだけではない。今、母はなんて言った? 医者を辞めろ? あんなに苦労して今に至るのに。こんなに苦労して医者であろうと努力しているのに。信じられない。

「だからさ……なんでそんなことを言うのかな……。医者やめろだの結婚云々だの、おかしいよ。母さんまだ亜実に会ってないし……」
 あの人の良い兄が彼女のことを悪く伝えるとは思えない。母の態度が全く理解できなかった。
 母は黙り込んだかと思うと、次の瞬間、電話口で大きな声を出した。それはまるで何かの発作のようだった。

『お願いだから母さんの言うことをきいて。……子どものいる人とは付き合わないでちょうだい! ねえ、悠、お願いよ……』
「母さん……」
 悠は、理由を言わずに懇願する母の様子にうろたえていた。



 そんな理解しがたい母との電話のやりとりから、半月ほど経ったころだった。
 亜実とは深夜に電話するくらいしかできない日が続いていた。

 悠が勤める病院は慢性的に人手不足でほぼ毎日残業が続いた。
 しかも悠が頑張れば頑張るほど任される仕事が増え、どんどん忙しくなってゆく。帰宅時間も0時を回ることが多く、精神的な余裕もない。遠い場所に住んでいるわけでもない亜実とまともに会えないのはそういう理由からだった。

 それでもようやく久しぶりの休みをもらい、病院からの呼び出しさえなければ三人でゆっくりと過ごせそうな日曜、亜実に電話してみると思わぬ返事が返って来た。
『あのね……もう会わないほうがいいのかなって……』
 驚いて、どうしてかと問い詰めたが亜実は黙り込んで何も言わなかった。
「会える時間が少ないから怒ってる?」
 彼女はやはり無言だった。
「せっかくの休みなんだよ。会えないなら理由を言ってくれよ。……俺の都合ばっかりで申し訳ないとは思ってるけどさ……」
 貴重な時間を拒否するということは、やはり嫌われたか。それともほかに好きな男ができたのか。
 二人の間に沈黙が流れた。

「別れたいっていう意味?」
 悲痛な思いでそんな言葉を口にしたが、亜実は黙ったままだった。しかしすぐにしゃっくりのような息遣いが電話越しに聞こえてきた。
「え……泣いてる?」
 彼女は何も言わない。しかし、もうはっきりと嗚咽が聞える。悠は居ても立ってもいられなくなって電話を切った。
 悠は、車で30分という距離でさえもどかしくて苛立った。なんで亜実は泣くんだ。泣きたいのはこっちなんだ。

 渋滞は無いが狭い道路ばかりで、飛び出す人がいないか気になり思うようにスピードを出せない。日曜なので子どもが不意に出てくる可能性もある。
 40分かけてようやく亜実の部屋にたどり着きドアを開けると、彼女は布団の上で膝を抱えて俯いていた。
 悠がやって来たのに気付き、亜実は驚いた顔で彼を見上げた。その目は真っ赤で、頬には幾筋もの涙の跡が残っていた。

 亜実はまたすぐに俯いて小さくなった。悠はその前に座り、彼女の視線を自分に向けさせるために手で顎をすくい上げた。
「泣く理由を教えてくれよ。別れたくて泣いてるのか、別れたくなくて泣いてるのか」
 傍に立つ涼太は、泣いている母と彼女を問い詰める悠を目の前にして、不安そうに立っていた。
 亜実は悠の目を見つめて、また涙をあふれさせる。そして苦悩をにじませた表情で彼に言った。
「さっき、悠くんのお母さんだって言う人が来たよ」

 言われて悠は、思わず亜実の顔から手を離した。そして、亜実は堰を切ったように言葉を続けた。
「……私のこと調べてここに来たんだって。悠くんのために別れてほしいって……玄関で額をすりつけてお願いされたの……。どうしてかなんて、訊けなかったよ……」



 半月前に聞いた、しっかり者の母とは思えぬ、ひどく取り乱した電話の声を思い出した。
 どうしてあんなことを言ったのか、ちゃんと訊いておけばよかった。どこかで調べてまで亜実のことを見つけ出し、別れてくれと言いにくるなんて普通じゃない。

「ごめん。……ごめんな」
 悠は項垂れて謝った。
「気にしないでっていっても無理だろうけど、あの人のことは俺が説得する。だからさ……もう、俺から離れるなんて言わないでほしいんだ」
 悠がそう言っても、亜実は悲しそうに眉を寄せるだけだった。
「……一緒にいたいけど……。でも、必死で悠くんを育てたお母さんの気持ちもわかるから……。息子にはもっと素敵な女性が似合うって思うのは……当たり前だよね……」
 悠はふと手を伸ばし、隣に黙って立つ涼太を引き寄せて抱きしめた。
「な、亜実、俺はできれば毎日二人に会いたい」
 どういえばわかってもらえるか、そんなことを考える余裕もなく、思い浮かぶ言葉が口から飛びだす。
「でも今のままじゃまともに会えない。……な、俺、頑張るから。……まだ満足な暮らしはできないかもしれないけど……一緒に暮らさないか?……」
 亜実は目を閉じて首を横に振る。
「これ以上頑張るの? だめだよ、死んじゃう」
「俺は、亜実と涼太さえいてくれれば幸せなんだよ。いつ死んでもいいくらい」

「なんでそんなこと言うの!!」
 亜実はまたわんわんと泣き出した。
「困ったな……泣くなよ……。泣かなくていいんだよ」
 悠は亜実の頭を撫でて苦笑した。
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 基本給二十八万円、時間外・当直手当含めて三十六万円。手取りは……。
「いいよ、もう……」
 亜実は神妙な顔をして沈んだ声を出した。
「やっぱり足りない?」
 そんな彼女を見て、悠も表情を暗くする。二人は対面に座って、お互いの顔を見つめている。
「悠くん、おかしいよ」
 亜実はため息をついて俯き、目だけで悠を見上げていた。
「仕事が忙しいのは仕方ないけど、給料を上げるためにもっと働くつもりなの? 私がそんな贅沢を望んでると思ってるの?」
 言われて悠は考えていたが、ボソリと呟く。
「でも、贅沢っていうか……車の維持費もあるし、こんな狭い部屋で三人はきついし、もう少し広い部屋に引っ越すとして、家賃も上がるから……」
「だからね!」
 亜実はだめな子を叱るように言い放つ。
「一緒にいたいって、そう言ってくれたよね!」
「うん……」
「私だって働いてるし! お金なんてどうにでもなるの!!」
「た……頼もしいというか、たくましいというか……」
 悠は圧倒されて、部屋の隅で遊ぶ涼太に助けを求めた。悠に抱きしめられて、涼太はくすぐったそうに笑う。
「な、涼太、お母さん怖いよなー」
 亜実は、顔を真っ赤にして悠を睨んだ。


 一緒に住むと決めた日から一週間が経ち、とりあえずということで、今日、亜実と涼太は悠のマンションに引っ越してきた。
 引っ越すと言っても身の回りの必需品を車で運んだだけで、三人での新しい引っ越し先が見つかれば二人の荷物をあらためてまとめる予定だった。

 涼太といちゃいちゃする悠を目の前にして、亜実はイライラしていた。ほぼ嫉妬に近かった。
 たとえ日曜でも、悠の場合、2週連続で休みがもらえるなんて珍しい。来週も休めるなんて限らないのに、どうしてずっと涼太とばかり遊んでいるんだろう。
 ありえない。
 悠は涼太さえいればよかったの!?



 夜9時。涼太は悠と一緒に風呂に入った後パジャマを着たまではいいが、元気一杯で寝る気配はない。
「涼太、そろそろ寝ないとなー」
 悠はどこまで涼太を甘やかすのか。亜実は、涼太を見ている彼の楽しそうな横顔に、複雑な気持ちになった。
 亜実の大切な涼太を愛してくれるのは本当に嬉しかった。ただ愛情が溢れすぎて飽和状態。少しは私のために取っておいてくれてもいいのに。
「そろそろ寝てほしいなー」
 悠が笑顔で涼太に言った。

 なんだかんだで涼太が眠ったのは10時。しかし、悠もその隣で全く動かずに眠り込んでいた。呼吸しているかどうか心配になるほどだった。
 寄り添って寝ている姿は、実の親子以上に仲がいいんじゃないかと思えた。亜実は微笑ましいと思いながらも、落ち込んでいる自分を否定できない。今日という一日、二人きりの時間は持てなかった……。
 だからと言って、彼が疲れているのは目に見えてわかるから起こすわけにはいかない。一緒の空間にいるだけで……それだけで幸せだと思わなければ。
 部屋が狭いので、彼女も悠の隣で寝ていた。寝かかった時、頬に温かさを感じ、目を開いた。悠が半身を起こして掌で彼女の頬に触れていた。
「俺は、涼太の父親にはなれない?」
 彼は亜実を見下ろして静かに尋ねた。



 結婚……。
 亜実は悠の気持ちが嬉しい反面、彼の母の姿が忘れられなかった。
 本当に結婚していいのかな。私は悠の睡眠時間を削ってしまっている気がする。
 この悠の痩せた体を見るたび、不安が募ってゆく。過労死なんてことにならないだろうか。



 そして半年経った。最近、悠の帰宅がどんどん遅くなっている気がした。仕事だから仕方がないとは思うが、彼の体が心配だし、まともに話す時間も無いのは寂しい。涼太が眠った後は静かすぎる。
 それなのに亜実は、起きて悠を待っていられない。彼女もまた疲れているのか、やたらと眠い。

 朝6時。悠がキッチンに立って自分の分の食事を作っていた。気付いて起きてきた亜実に、悠は「寝てていいから」と笑う。
 きっと笑う余裕なんて無いはずなのに、そんな顔をされると苦しくなる。
「昨日は何時に帰って来たの?」
「三時……くらい? かな」
「じゃあ三時間しか寝て無いの?」
「まあね」
 悠はまた、ふふっと笑った。

 違う、と亜実は思った。
 きっと三時間も寝て無いんだ。

「いちいち気にしなくていいよ。所詮病院だって利益の上に成り立っているんだから、例え医師余剰時代だって言っても、病院としてはそうそう増やせないんだよ。まあ、若い内は寝なくても大丈夫ってやつね」
 彼は平気な顔で「亜実の分も作ってやろうか?」とまで言う。
 亜実が溜息をついていると、悠は彼女の顔をじっと見ていた。
「亜実、大丈夫?」
 それはこっちのセリフだ、と亜実は思った。
「顔が疲れてるよ」
 それもこっちのセリフ。
「亜実は好き嫌いが多いから貧血になりやすいんだよ。魚も野菜も肉もバランスよく食えよ?」
「うん……。でも、私のことより、悠の睡眠時間の方が問題だよ。1月で30歳でしょ?」
「……嫌なこと言うなあ」
 悠は苦い顔をしていた。

 亜実が悠と会ったのは去年の11月。その時彼は28歳だったが、1月が来て29になり、来年の1月には30歳。今は6月下旬だし、あと7カ月弱。涼太もその頃には5歳になっている。

「なあ、ほんとに……」
 悠が食事の手を止めて、亜実の顔をまじまじと見つめる。
「顔色悪いんだけど」
「そうかな」
 でも医者が言うんだから間違いないのかもしれない。
「俺、期待していいのかな」
「え?」
 悠は嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「な、診てもらえよ。……それとも薬局で買って来て検査する?」





 悠が亜実に尋ねた。
「墓参りにいけそう?」
 亜実はこくりと頷いた。

 相変わらず帰りの遅い悠だが、極力傍にいてくれた。
 悠は真夏だと言うのにエアコンの温度をなかなか下げてくれない。隣で寝ていると、きっと悠は暑いに違いないのに。
「大丈夫。最近、気分がいいし」
「そっか、よかった。やっぱり父さんに報告しないとな」
 悠は幸せそうな顔をしていた。そして彼は亜実のまだ全く膨らんでいないお腹に触れた。
「男の子かなあ。女の子かなあ……」
 呟く悠の傍で、亜実が言った。
「もう少ししたら、飯田先生に教えてもらおっかな?」

 飯田というのは亜実が通っている産婦人科の医師で、彼らの住まいから一番近い場所で開業していた。
「だめだめ、あの先生はそういうの嫌いらしいよ。命が授かっただけでありがたいと思え!的なね。名医だけど、ちょっと変人だからね」
 悠はそう言って頭かぶりを振った。

「そう? 優しくていい先生だけどなー。……でもさあ、出生届は生まれて2週間以内なんだよね。男の子か女の子か判らないなら、名前は両方考えとかないといけないね」
 亜実が言うと、悠はいいことを思いついたように目を輝かせた。
「男でも女でもどっちが生まれて来てもいい名前にすればいいんだよ。早めに決めたら、ずーっとお腹の子に、名前を呼んでやれるしさ」

 そう言う悠に、亜実はふふっと笑った。
「それって、悠くんの時と一緒だね」

 悠は言われて、驚いたように瞬きした。 
「あ、そうだな」

 それから、とても落ち着いた笑みを浮かべて言った。
「父さんも、こんな気持ちだったのかな……」
「そうだよ。適当につけたわけじゃないと思うよ」
 亜実が言うと、悠は瞳を伏せた。


「俺、歩(あゆみ)がいいな。……亜実と似てるし。呼び間違えたりして。目に浮かぶなぁ」
「妄想してるー」
 二人は笑いながら、その時を待っていた。
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「今日、籍を入れたい」
 墓参りに行くつもりだった日曜の朝、悠が言った。
 驚いて「でも」と言いかける亜実に、彼は反論は許さないとばかりに目を閉じて顔を横に振る。涼太がごくごくと牛乳を飲んでいる姿が、亜実の目の端に映る。
「おかあさん、悠くんにおこられてるの?」
 口の周りを白くさせて涼太が尋ねる。その涼太の可愛らしい姿にも、今朝の悠は反応しなかった。テーブルの上の朝食が冷めてゆく。
「このままじゃ俺も困るし涼太も歩も困る。なんでそんなに拒むのかな。俺と結婚するのは、そんなに嫌? 給料が足りない? それとも休みのこと? それならもっと待遇の良い別の病院に……」
「違うよ!……そんなんじゃなくて……いつかは結婚したいと思ってるけど……」
 尻すぼみになってゆく亜実を見ながら、悠は口を一文字に結ぶ。
「いつか、って何……。時間が解決するような問題なのか?」

 3月の出産予定日まであと7カ月。それまでに溝が埋まるのか、不安なだけで……。

「母さんか?」
 言われて亜実は思わず視線を落とした。しかしそんな彼女の様子を気にするでもなく、悠は言う。
「俺は結婚のことで母さんに口出しはさせない」
「そんなの……」
 結婚した後だって関係は続くのに、強行突破なんて無茶だ、と亜実は思った。
「理由はそれだけ? 亜実のご両親に反対されてるとか……」
「違う違う。この前、三人で撮った写真送ったらすごく喜んでた。はやく結婚しろって……。私、両親のこと誤解してたかもしれない……」
「じゃあ、何の問題も無いな。結婚しよう。何回プロポーズさせれば気が済むんだ」
 怒りながらプロポーズされるなんて聞いたことが無い。
 亜実はため息をついた。

 悠の母のこと以外にも気がかりなことがある。
 それを言おうかどうしようか迷った。でも、占いが……なんて言ったら、きっと悠は怒るだろう。真剣に話をしているのに、そんなくだらないことを理由にするな……と。

 悠は立ち上がり、鞄を持ってくると手を入れて探っていた。そして亜実の目の前に紙を置いた。
 いつそんな時間があったのか、誰かに頼んだのか、それは婚姻届だった。すでに彼の所は全て記入されていた。
「これ、土日も関係なく受け付けてくれるんだろ?」
 いつもとは違う彼の頑かたくなな態度からすると、もう引き延ばすことは無理なようだった。

 確かに悠の立場を考えると、妊娠しているのに結婚しないなんて世間体が……と思っているのかもしれない。だから自分の病院の産婦人科では受診させないんだろうな。
 悠の職場にいるだろう頭の固いお偉い人は、そういう状態のカップルがいたら、男性が女性にそういう状態を強いていると思うだろう。結婚するのかしないのか、ちゃんとけじめをつけなさいと叱られているかもしれない。
 それは……悠に申し訳ない。

「わかった。……ごめんね」
 亜実が言うと、悠は悲しそうな顔をした。
「……なんだよ……。……渋々か?」
「そんなことないよ。嬉しいよ」
 亜実は悠の言葉を否定した。嬉しい、それは嘘ではない。
「それなら、今すぐご両親に報告して」
 悠に言われ亜実は頷いた。
「悠くんは?」
 彼は亜実から一度視線を外してから、また彼女を見つめた。
「うちの母さんなら後でいい。墓参りで父さんに報告してから会いに行く。今日は兄さんに証人の欄に記入してもらいに行って、とにかく籍を入れる!」
 悠の思い入れは相当なものだった。
 この日の墓参りは延期になった。




 婚姻届を出してから二週間後、ようやく悠の休みが取れたので墓参りに行くことになった。涼太の認知届も提出したので三人はもう立派な家族だ。
「報告することいっぱいで、父さんたち戸惑うかもな」
 そうのんびりと言ってから、悠は笑った。

 亜実はこの風景の中にいられることが、この上ない幸せだと思えた。
 夏空の下、日傘をさし、悠と手をつないで歩く。その前を涼太が走って行く。彼女の体を気遣ってくれる彼に寄り添って……。
 悠が呟く。
「後は歩が無事に生まれて来てくれるのを待つだけだ。早く歩に会いたい」
 亜実はそんな悠の優しい雰囲気が大好きだった。
 ふと、彼が前方を見つめていることに気付く。悠は視線の先の女性を見て「母さん」と呟いた。

 涼太が駆けて行く靴音で、母が悠と亜実に気付いた。そして墓の前から立ちあがりながら二人を見た。
 母は疲れ切った表情をしていた。二人を見て余計にそういう顔つきになってしまったのかもしれない。母が悠に静かに尋ねた。
「父さんやばあちゃんたちに会いに来たの?」
「うん」
 悠はそのまま歩いて亜実を連れて母の傍まで行くと、あらためて墓に視線を向けた。
「それと報告に。俺たち入籍したから」

 亜実の心臓が大きな音を立てる。
 突然こんなことを言われてお母さんは怒るかな。事後報告だし。

 しかし母は「そうなのね」と呟きながら小さく頷いて俯いた。亜実が恐れていたような強い確執は、そこに存在しなかった。
「きっともう、おなかにいるのね」
 母はまるですべてを見通しているかのように亜実を見つめた。戸惑いながら、そして緊張が解けないまま、亜実は頷いた。

「名前は、もう、決めてあるんでしょう?」

 そんな言葉に、悠も亜実も驚いて母の顔を見つめた。
 母は微笑んで「なんていう名前にしたの?」と訊く。

「……歩」
 悠は戸惑いながらも答えていた。

 亜実は二人のやりとりを一歩離れて見つめていた。
 母の態度に次々と不安が呼び起こされるのに、絶対にそれを口にしてはいけないような気がした。

「そうなの。アユミ……。きっと悠にそっくりな、やんちゃ坊主ね」
 そう言う母の声は嬉しそうでもなんでもなく、今にも泣きそうに震えていた。

 悠は何も言わなかったが、亜実から見ても彼は明らかに動揺していた。悠のその反応はわかる。お母さんはどうして歩が男の子だと決めつけてるんだろう。

 母は二人に、墓の前の場所を譲った。悠と亜実は違和感をぬぐえないまま、持ってきた花やお供え物を置き、線香をたいて手を合わせた。


 そんな困惑の中にあっても、目を閉じると、感情が一時的に静まる。今日はここで伝えたい言葉があった。亜実は心の中で感謝と報告を繰り返す。
 墓に眠る、会ったことの無い悠の近しい人たち。
 彼にそっくりだという父の姿を思い描いた。

 そして、最後に尋ねた。

 私の居場所は正しいのですか。これで良かったのですか。
 歩のこと、涼太のことを、受け入れてくださいますか。


 悠もまた黙って目を閉じていた。彼は愛する人たちに、どんなふうに語りかけたのだろう。



 悠と亜実が報告を終えて立ちあがると、母は、
「もう帰んなさい。こんなに暑い中じゃ体によくないわ。私はもう少し尚(なお)さんと話をしてから帰るから……」
と二人を促した。
 悠は「わかった」とだけ返事をして、片手で涼太を抱き、片手で亜実の手を握って、その場を離れた。

 しばらく歩いて駐車場に着くと、悠は抱きかかえていた涼太をおろし車のドアを開けた。
 悠はエンジンをかけた後ゆっくり体を起こした。大人はともかくチャイルドシートに縛り付けられる涼太は辛い。車内が冷えるまでしばらく待つ。
 亜実は熱い車体を触っている涼太の手を取った。悠は熱気を逃がした後ドアを閉めた。

「さっき、母さんが言ってた”ナオ”って、父さんの名前なんだ」
 亜実に向かって話しているのは分かるが、悠はなぜか彼女の顔を見ようとしない。亜実はその悠のぼんやりとした表情を黙って見ていた。
 彼は、少し間をあけてから続けた。
「俺はいつだったか、母さんに訊いたことがある。父さんの名前って女みたいだけど、誰が付けたの?って。そしたら、あなたと同じだって言われた。……俺と一緒だとしたら、父さんはじいちゃんに名前をつけてもらったんだな。男でも女でもどっちでも使える名前を」
「……うん……そうなるよね」
「じいちゃんは早死にだった。そのじいちゃんの名は薫(かおる)だ。……その名もやっぱり、男でも女でも使える名前だと思わないか?」

 悠はゆっくりと視線だけを落としていく。

「薫じいちゃんも、父親に男女どっちでも大丈夫な名前をつけられてる可能性もあるよな……」
「え?」
 亜実は頭がついていかずに訊き返した。

「じいちゃんは火事で死んだ。だから息子である父さんは、じいちゃんのために消防士なった。……俺は、父さんが癌で死んだから、父さんのために医者になった……」

「じいちゃんも父さんも、子どもの名前をつける時、男女どっちでもいい名前を選んでる。それは、子供が生まれてくるまで、生きていられない何らかの予知があって……?……だとしたらさ……」


 悠は視線を下げたまま、単調な声で呟いた。

「父さんのために職業を選んだ俺は……。そして、歩っていう男でも女でも使える名前を選んだ俺は……」


「歩が生まれてくる時にはもう……」


第7話に続く≫
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